40.お化けはまぼろし?
“それ”を見て倒れなかっただけ、褒めて欲しい。目の前にはお化けがいた。真っ白な塊が風もないのにゆらゆら揺れている。
「ほ、本当に出た……」
お化けには耳は勿論、顔もなかった。カーテンがひとりでに動いているような緩やかな動きで目の前に浮遊している。ヴァンプでもなければ人でもない、幼い頃から何度も想像してきた通りのお化けだった。
「ままま、真理亜ちゃん……」
後ろにいるはずの真理亜ちゃんから返事がない。ぎこちなく首を動かして後ろを見る。
「!!」
真理亜ちゃんは目を見開き、その場で銅像みたいに固まっていた。
(わあ、美術の教科書に載っててもおかしくない……ってこんなときにそんなこと考えてたら駄目なんだってば!)
真理亜ちゃんは恐怖のせいか声も出ないらしく、唇だけが小刻みに動いている。仕方なく、ゆっくり、ゆっくり視線を戻した。できたら、次見たときは消えていますように。見間違いでありますように。
(……ひーーー!)
なんて願いもむなしく、お化けはまだそこにいた。私達の目の前に何をするでもなくゆらゆらと揺れている。
確か、初井さんの話によるとお化けに気付かれたら最後、あの世に連れて行かれてしまうのではなかっただろうか。それでもって隣のクラスの佐伯さんはお化けと目が合ったせいで魂を抜かれてしまったんじゃなかっただろうか。だとすれば、お化けと向き合っているこの時点でアウトな気はするが、不思議なことに命を吸い取られそうな気配はない。お化けに魂を抜かれたことなんてないから分からないけど、これはきっとセーフなのではないだろうか。
「…………」
(そもそも、顔がないなら気付きようがないよね。ってことは、今見ている側が背中で、本当の顔はあっち側にある……とか? 振り向くと、白目を剥いた顔があるとか……って嘘嘘、今のは絶対に嘘! 嘘ですから! ごめんなさい! 今のなし!!!)
自分で想像して、あまりの恐ろしさに卒倒しそうになった。気づかれていないのであれば、このまま静かに部屋に戻るべきだろう。一歩ずつ後ずさりをしながら、突っ立ったままの真理亜ちゃんの位置まで下がると彼女の手を握った。握り締めた瞬間、硬直していた真理亜ちゃんの手から力が抜けるのが分かった。
「……あ」
声を出そうとした真理亜ちゃんの唇に人差し指を立てた。視線で部屋へ戻ろうと促すと真理亜ちゃんはお化けから視線を外して頷いた。繋いでいる手に力がこもる。
私達はできるだけ音を立てずに後ろに下がりながら、部屋に戻った。
息を殺して、扉を閉めた瞬間、安堵のため息が口から漏れた。
「お化け、本当にいたね」
私の呟きに真理亜ちゃんはうんともすんとも言わなかった。
「真理亜ちゃん?」
真理亜ちゃんは返事をする代わりにぎゅっとしがみついてきた。それも力強く胴体を締め上げてくる。
「ちょ、いたたた、ギブ、真理亜ちゃん、ギブだって」
「オバケハイナイワ」
真理亜ちゃんが片言で言った。
「え? でも」
「アレハオバケジャナイ」
「真理亜ちゃん?」
「ほら、言って。あれはお化けじゃないって」
「あんなにはっきり見たのに、あ、嘘、いたたた、分かった、言う、言います、あれはお化けじゃないです」
真理亜ちゃんはようやく私を離した。それから、気持ちを落ち着けるように深呼吸した。
「そう。私達が見たのはお化けじゃないわ」
「お化けじゃなかったらあれは何?」
「あれは、あれは、ただの……そう、幻覚よ。疲れているんだわ、私達。ほら、色々あったから、疲労がここまできちゃったのね。早く寝ましょう」
真理亜ちゃんはくるりと背を向けた。そのままベッドへ向かい、ぴたりと足を止める。
「ねえ、有栖」
「うん。どうしたの?」
「今日は私達、一緒に寝るべきだと思わない?」
「え、でも、疲れているなら、一人ずつ寝た方が良いんじゃないの?」
「疲れているときこそ、こう、二人一緒に寝て、お互いの疲れをねぎらうべきじゃない?」
(……つまり、一人で寝るのが怖いってことだな)
そう思ったけど、口には出さなかった。真理亜ちゃんは多分、そう言っても、否定するだろうから、ここは大人しく同意しておく。
「いいよ。それじゃ一緒に寝よっか」
真理亜ちゃんの顔がぱあっと明るくなった。分かり易いくらいにほっとしているのが見える。
(って言って、私も一人で寝るのはちょっと怖かったし、ね)
真理亜ちゃんが言い出してくれて良かったとこっそり思った。目を瞑ると先程見た光景が瞼の裏に浮かび上がって、眠るどころではない。
真理亜ちゃんが早速、私のベッドに入り、手招きをする。
「ほら、有栖ってば、早く」
「はいはい」
急かされてベッドに入ると真理亜ちゃんの温もりが寝間着を通して伝わってくる。
(これは……その、何て言うか……ちょっと、いや、心臓に悪いかも……って、違うんです、馨お姉様! これは不可抗力ってやつなんです。だから、許して下さい。何も後ろめたいことはありませんから!)
馨お姉様の顔がちらりとよぎり、思わず、心の中でありったけの謝罪の言葉を口にした。心臓がどきどきと音を立てている。真理亜ちゃんの素足が私の足に絡みついた。
「ちょ、真理亜ちゃん……!」
振り向くと真理亜ちゃんは目を閉じて、寝たふりを決め込んでいる。真理亜ちゃんの足の親指が器用に私のふくらはぎを撫でた。つつつ、と柔らかいところを狙って、なぞってくる。
(も、もう! さっきまで怖がってた癖に!)
「………っ!」
声が出ないように唇を噛み締める。真理亜ちゃんの吐息が首筋に当たった。明らかにわざとだ。体を硬直させていると、真理亜ちゃんの手が私の腰あたりに伸びた。
「ちょ―――」
“コン、コン、コン”
「―――?!」
部屋に響いたノック音に今まで考えていたことの何もかもが頭から吹っ飛んだ。真理亜ちゃんが目を見開いている。やっぱり起きていたんじゃないと唇を尖らせるのも忘れて、私は真理亜ちゃんを見つめた。
“コン、コン、コン”
真理亜ちゃんが私の体をぎゅっと抱きしめる。私も力強く真理亜ちゃんの体を抱きしめた。あまりの恐ろしさに言葉が出てこない。ふざけ合っていた数秒前に戻れるなら何だってする。
(神様、お願いです。時間を戻して下さい。それができないなら、早送りでお願いします。どうか、お願いです。これからはちゃんと勉強するし、たくさん食べて、えっと、健康に暮らしますから、お願いします!)
ノックの音がいつ止んだのかは覚えていない。私達は祈るように目を閉じて、お互いの体温だけを感じながら、恐怖が過ぎ去るのを待った。
*
「何、有栖さんたら寝不足? まさか、お化けが部屋を訪ねてきたとか」
朝のホームルームが始まる前、初井さんが私の目の下にできたクマに気付くと言った。
「お化けって三回扉をノックしたら、どっか行くんじゃなかったっけ……」
虚ろな目で初井さんを見ると初井さんは不思議そうに瞬きをした。
「返事をしないでいたらどこかへ行くみたいだけど……まさか、有栖さん達のところにも出たの?」
「そのまさかでね」
真理亜ちゃんは机に突っ伏している。昨日の出来事がよほど堪えたらしい。
「また馬鹿馬鹿しいお化け話ですの?」
真理亜ちゃんの後ろに座り、呆れたような口調で小首を傾げるのは鄙乃ちゃんだ。
「いつになく元気がないと思ったら、真理亜も結局お子ちゃまだったってわけですのね」
「誰がお子ちゃまですって」
真理亜ちゃんがむくりと上半身を起こした。眉間にくっきりと皺が刻まれている。
「昨日のあれはお化けじゃないわ。ね、そうでしょ、有栖」
「えっと」
私は視線を逸らして、ぽりぽりと頬を掻いた。この目ではっきりと見た昨夜の光景がまだ脳裏に残っている。あれをお化けと言わず何というのか。真理亜ちゃんは鋭い眼光で私を見つめるといつになく力をこめて言った。
「昨日、言ったわよね。あれはお化けじゃないって、確認したわよね」
「あー、うん。確かに言った……けど、でも、ノックの音は」
「けどもでももないわ!」
「あ、はい」
「あれは、あれは……極度のストレスによる幻覚と幻聴が引き起こした、まぼろしよ。この世にお化けなんて、そんなまやかしは存在しないの」
「お化けが存在しないという点では同意しますけれど」
真理亜ちゃんが鄙乃ちゃんの方を振り返った。
「……それもこれも、あなたが来たせいで、こうなったのよ、鄙乃!」
「なっ、心外ですわ。鄙乃は真理亜の味方をして差し上げたのに」
「あなた達姉妹のせいで、今までのストレスが積もりに積もって、こうなったのよ」
「酷いですわよ、真理亜。まるで鄙乃がトラブルを起こしているみたいな言い方じゃありませんの」
ぷりぷり怒っている鄙乃ちゃんを放置して、真理亜ちゃんは再び机に突っ伏してしまった。私と初井さんが困ったように目配せしていると、チャイムが鳴った。同時にシスター早坂がいつもと変わらぬ笑顔で教室へ入ってくる。
「じゃあ、また後でね」
「うん」
初井さんは席へ戻って行った。顔を上げた真理亜ちゃんが背筋を正した。横目でその姿を見守りながら、私は正体不明の恐怖とどう戦えばいいのかと一人頭を悩ませた。




