36.覚悟
私は静花お姉様の冷たい手の感触を唇に受けたまま頷いた。
「いい子ね。聞き分けの良い小鳥ちゃんは後でたっぷり可愛がってあげるわ」
静花お姉様のぞくぞくするような声で耳朶をくすぐられて、体から力が抜けていくような不思議な感覚を味わう。どうにか崩れ落ちないよう踏ん張っていると、静花お姉様が妖艶に微笑んだ。
「快楽に抗おうとしても無駄よ。甘美な血の誘惑に逆らわないことが私達の長生きの秘訣なんだから」
「……っ」
すぐ近くに馨お姉様がいるというのに助けを求めることもできない。そもそも、何故こんなところに静花お姉様がいるのだろうか。
(静花お姉様は雪乃お姉様が見張っていたんじゃなかったの)
倫子お姉様の話では交代で静花お姉様を見張っているとのことだったが、その雪乃お姉様の姿はこの場にない。
静花お姉様の視線が馨お姉様達のいる方へと向けられる。
「姉としては少しくらい可愛い妹にも良い思いをさせてあげたいじゃない。ねえ、小鳥ちゃん。あの子達はあの子達で楽しんで貰うとして、私達も二人で楽しみましょう。馨には連れていけない天国の彼方までこの私が貴方の気を飛ばしてあげるわ」
声を押し殺した静花お姉様の笑いが頭に響いたかと思うと、突然、ぬるりとした生温い感触が首筋をつたった。
(ひっ……!)
「声を出しちゃダメよ」
私の口を片手で塞いだまま、静花お姉様が私の首筋へねっとりと舌を這わせる。
(なっ……!)
「ふふ。小鳥ちゃんたら震えているの?可愛いわね……」
静花お姉様の吐息が首筋にかかり、びくりと体が震える。私の反応が面白いのか、静花お姉様はわざと舌先で私の肌を強弱をつけて突きながら、何度も、ふうっと悪戯に息を吹きかけた。その度に私の身体はびりびりと電流が走ったみたいに痺れて熱い疼きが起こる。
「あら、どうしたの?苦しくなっちゃった?」
「はあ……はあっ……」
息苦しさと喉の渇き、そして与えられる快感に体を火照らせていると、静花お姉様がにやりと微笑み、私の唇を抑えていた手を離した。
(馨お姉様っ……)
このまま静花お姉様に血を吸われたら、多分死んでしまう。それも凄まじい快感の中で意識を飛ばすことになるだろう。そんなことになったら、二度と馨お姉様の優しさを感じられず、はからずも鄙乃ちゃんの願望を叶えてしまうことになる。
(そんなの嫌。でも、どうしたらいいの……!)
静花お姉様の冷たく白い手が私の頬をなぞる。
「怖がらなくていいのよ」
静花お姉様は私の頬を下って首に手を遣りながら、その精巧な顔を近付けた。
(きゅ、吸血されちゃう……!)
私は残されたありったけの力を振り絞り、目の前に迫る静花お姉様へぶつけた。
「喉が……渇いた……っ」
私の掠れた声が静花お姉様の耳に届くと、彼女の動きがぴたりと止まった。私はもう何も言えず、胸を上下させながら荒い呼吸を繰り返す。
静花お姉様は訝し気に私を見つめると、はっとしたように唇を動かした。
「小鳥ちゃん、もしかして……貴方、ヴァンプなの?」
静花お姉様は私の今にも閉じそうな瞳に自分の姿を映すと眉を顰めた。
「まさか……。馨のお気に入りだというから、てっきりあの子のニエかと思ったけれど……でも、小鳥ちゃんがヴァンプだっていうなら私の言いなりになっているわけはないし、そういう趣味があるようにも見えないわ。何より小鳥ちゃんがヴァンプであるなら、この私が気付かないはずないもの。となると残る可能性は……小鳥ちゃん。貴方がハーフヴァンプであるということだけれど」
静花お姉様の呟きに弱々しく顎を引く。
「まあ困ったわね。小鳥ちゃんがニエでもヴァンプでもない、ハーフヴァンプだなんて。中々、ややこしい話だわ。こんなこと想定外よ。……それで小鳥ちゃんは今、物凄く喉が渇いているのね」
静花お姉様の問いに答える気力もなく黙っていると、静花お姉様はそれまでの人当たりの良さそうな微笑みをすっと引っ込めて、実に面倒くさそうな人間味の溢れる表情を浮かべ、前髪を掻き上げた。
「そのつもりはなかったけれど仕方ないわ。貴方は馨のお気に入りだし、私にとってもそう……愛らしい小鳥ちゃんだから特別よ。特例中の特例。このまま死なせてしまったら、後で私が馨に怒られるんだもの」
静花お姉様はそう言って嘆息した。
「私に牙を立てる余裕は……見るからになさそうね。もう、どこまでも手の妬ける小鳥ちゃんなんだから」
静花お姉様が自らの手首に顔を埋めたのと同時に私の瞼が重みに耐えられず閉じた。暗闇の中、そのままどうにか意識を保っていると、私の唇が不意に柔らかな何かで塞がれた。あっと思う間もなく、みるみるうちに甘く濃厚な液体が私の口内を満たしていく。
「んっ……」
(甘い……)
与えられるそれを嚥下すればするほど、焼けるような喉の渇きが確実に収まっていくのが分かる。
(甘くて……美味しい……)
今の私には与えられるその血が誰のものか考えるほどの余裕はなかった。ただこの渇きが満たされればそれで良かった。
私は甘く華やかな充足感を感じながら、眠りに落ちるようにその場で意識を失った。
完全に意識が暗闇に引き込まれる直前、馨お姉様の悲痛な叫び声と複数の声が不協和音のようにその場に重なり合った気がした。
*
「……ん」
ぱちりと目を開けると、白い天井が目に入った。そのまま視線を動かしていくと、壁の隅にぶつかった。反対側を見てみると、淡い青色のカーテンがかかった窓辺が目に入る。
(ここは……)
どこかで嗅いだことのある懐かしい匂いに包まれながら、しばらく視線をぐるぐると動かしているとそこがどこかの部屋だということに気付いた。どうやら、自分は見知らぬ部屋で見知らぬ誰かのベッドに寝かされていたらしい。
(大きいベッド……)
次第に意識がはっきりしてくると、今の自分の状況を理解しようと頭が働き始める。とりあえず上半身をゆっくりと起こしたところで、自分の体の軽さに驚いた。いつも寝起きに感じるはずの気怠さはなく、驚くほどの清々しさが体を包んでいる。
妙な変化に違和感を覚えつつ、辺りを見回すとそこはやはりどこかの部屋のようで、本棚に詰められた書物とテーブルと椅子以外、目立った家具は置かれていない質素さが目立つ室内だった。
「私……」
無意識に左手が唇をなぞり、痺れるような快感がフラッシュバックする。目が覚める前の出来事を思い出そうとすると、切り取られた絵のようにそれらは浮かび上がった。
(あのとき、馨お姉様と鄙乃ちゃんを追いかけて温室に着いたら、そこで静花お姉様が現れて……私……)
猛烈な喉の渇きが今は嘘のように治まっている。
そのとき、かちゃりと扉の開く音がして、入口の方から安堵したような声が耳に届いた。
「有栖ちゃん。起きたのね」
聞き覚えのある声にはっとして其方を向くと、馨お姉様が制服姿でそこに立っていた。私を見て、ほっとしたように口元を弛ませる。
「馨お姉様……!」
馨お姉様は私の座っているベッドに歩み寄ると、その縁に腰かけた。スプリングが弱々しく鳴る。馨お姉様は私の顔を覗き込むと、赤く色づいた唇を開いて言った。
「どう?体は」
「お、驚くぐらいすっきりしています……」
「そう。なら良かったわ」
馨お姉様が私の頬を撫でる。私を労わるような柔らかな手つきにほっと心が安らぐのが分かる。
「あの、この部屋って、もしかして……」
私は馨お姉様がこの部屋に現れたときから抱いていた疑問を口にした。
「ええ。私の部屋にようこそ」
(やっぱり……!)
私は改めて自分の置かれている状況を確認しようと視線を動かした。ここは馨お姉様のお部屋で、つまり私達が暮らしている寮の一室なのだ。私と真理亜ちゃんの部屋とは随分異なる室内の様子に驚いていると、馨お姉様が心配そうな声音で私の意識を呼び戻した。。
「……ねえ、有栖ちゃん。目が覚める前のこと、覚えている?」
馨お姉様の声にはっとして視線を戻すと、馨お姉様は眉根を下げて私を見つめていた。
「ええと……」
慌てて、意識が朦朧としていた辺りの記憶に集中する。
(私、あのとき、物凄く喉が渇いていて、それで……静花お姉様が私に吸血しようとして……)
ようやく唇に残る快感の疼きの正体を朧げに掴み、同時に生じた罪悪感から唇を噛み締めると、馨お姉様が優しく人差し指で私の唇に触れた。
「いいの。全部分かっているわ。いつも限界まで我慢したらダメだって言っていたでしょう」
「あ、はい……」
しょげたように頷いた私を見て、馨お姉様が目を細めた。
「でも喉が渇いたからあの場に来たのよね、有栖ちゃんは。それでもあともう少し早く来るべきだったわよ」
「うう、すみません」
馨お姉様の言う通りだ。私は大人しく謝罪の言葉を紡いだ。
馨お姉様が視線を落として、深く息を吐く。
「あのとき、突然静花の血の匂いがして、それで貴方達があの場にいることに気付いたわ。まさか、私の後を追いかけて温室まで来るなんて……。あの呼び出しが有栖ちゃんからのものじゃないって薄々気付いてはいたけれど、万が一ということも考えられるから出向いたの。案の定、鄙乃がいた訳だけれど、有栖ちゃんがいないことを確認したらすぐ帰るつもりだったのよ。それがあの子に気を取られて、有栖ちゃんがあの場に来たことにすら気付かなかった。……私の失態だわ。責めるなら責めてくれていいのよ」
「馨お姉様……」
馨お姉様が先程の笑みを消して、深刻そうな表情で私を見つめる。
「有栖ちゃんのピンチに何があっても駆け付けるって言っていた癖に、あの場で有栖ちゃんを助けたのはあれほど遠ざけていた静花なんだから、有栖ちゃんが怒って当然よね」
「そんな、怒ってなんかないです。本当に。ただ、あのときは私も必死で、よく覚えていなくて」
慌てて否定するように首を振ると、馨お姉様は自嘲するように笑った。
「私に失望したでしょう。正直に言って」
馨お姉様が珍しく感情を表に出して言う。
(馨お姉様……)
朦朧とする意識の中で与えられた甘美な潤い、あれはやはり静花お姉様の血だったのだ。怖い目に遭ったのは確かだが、静花お姉様は今や私を助けてくれた恩人と言える。
馨お姉様は自分が私に血を与えられなかったこと、そして血を分け与えてくれた人物があの静花お姉様だったことを心の底から悔やんでいる様子だった。
(でもそれは馨お姉様が責任を感じることじゃないのに……)
私が、馨お姉様と鄙乃ちゃんが話しているところに無理やりにでも割って声を掛けるべきだったことで、もっと言うなら、休み時間にでも馨お姉様のところに行けば良かったのだ。
「馨お姉様に失望することなんてないです。絶対にありえないです。私の方こそ、馨お姉様のところにもっと早く行くべきでした。そうすれば、こんな迷惑をかけずに済んだのに」
そう言葉をかけても馨お姉様は納得した様子もなく悔しげに言葉を吐いた。
「有栖ちゃんは悪くないわ。さっきはああいう風に言ったけれど、そもそもあの場で私が気付いてさえいれば、防げた事態だったのよ。あの静花にあんな役回りをさせるなんて、自分が憎らしくて仕方がないの」
「馨お姉様……」
馨お姉様の後悔は私が思っている以上に深いものに見えた。そんな風に馨お姉様を悩ませてしまっていることに私もまた責任を感じる。どんな言葉をかけたら、今の馨お姉様の心に響くのだろう。馨お姉様の憂いを晴らすにはどんな言葉があるのだろう。そんなことをぐるぐる頭の中で考えていたら、馨お姉様が不意に私の両頬をその温かな手で優しく包んだ。
「もっと私を頼って、有栖ちゃん。私は貴方の……パートナーなのだから」
(……!)
馨お姉様の口から躊躇いがちにパートナーという言葉が呟かれた。いつもなら聞き流してしまえるはずの些細な反応が、このとき私の中で大きく引っ掛かった。
(パートナー……)
私達の関係はパートナーという学院の制度によって結ばれているに過ぎず、それ以外で二人の間にあるのは互いが人間ではないという共通点だけだ。
(今、私と馨お姉様繋いでいるのはパートナーという制度だけ……)
だからこそ、馨お姉様は軽口とはいえニエという言葉を繰り返し出していたのだし、真理亜ちゃんも冗談めかしてニエという言葉を口にしていたのだ。
(ニエになるって、ただ血を分け与えるだけじゃなくて二人の関係を今よりずっと強くすることなんだ……きっと)
ニエというものに対して、これまでとは違う視点を得た私の中に、一つの思いが浮かんだ。それはとても自然な流れで起こった当然な感情だと思えた。
私は私の頬を包む馨お姉様の手に自分の手をそっと重ねた。
「馨お姉様、私……、私を馨お姉様のニエにして下さい」




