35.魔の手
昇降口で靴を履き替えてから、一旦校舎を出て、目の前の噴水を素通りし、寄宿舎のある方向とは反対の体育館やグラウンドがある方へと向かう。クラブ棟などが立ち並ぶその奥の木々に囲まれた空間に温室があると教えて貰ったのは最近のことだ。それも、馨お姉様が自らお気に入りの場所として教えてくれたのだった。
『温室では様々な品種の花々を育てているのだけれど、中でも私はイングリッドバーグマンやクリムゾングローリーといった淡い薔薇が好きなの』
『い、いんぐりっど……くりむぞん……?』
『血のように真っ赤な薔薇のこと』
『へえ。そういう名前のものがあるんですか。馨お姉様に赤薔薇って、すごく大人な感じがして、何だか正面から見られない……じゃなくて、すごく似合いますね』
『ふふっ。大人な感じで直視できない?そんなこと、初めて言われたわ。相変わらず、有栖ちゃんったら面白いこと言うのね』
『え、えへへ』
『有栖ちゃんには可愛らしい薔薇が似合うわ。ほんのり染まったようなピンクやまっさらなホワイトローズもいいわね。……白い花弁に私の血を落としたら、綺麗に染まるでしょうね。あそこはほとんど人が来ないから、二人きりになるのにちょうど良いし、見られる心配もないから、ゆっくりと時間を過ごせそうだもの。近いうちに一度、一緒に行きましょうね』
「ほとんど人が来ない……ふ、二人きりになるのにちょうど良い場所……!」
馨お姉様との会話が頭の中で繰り返される。あのときは馨お姉様と自分が二人きりで過ごせる場所ということで浮かれて話を聞いていたけれど、馨お姉様と二人きりで過ごすのが自分じゃない他の誰かだと思うと、いてもたってもいられなくなる。馨お姉様を呼び出した偽物の私は二人きりになるのに絶好の場所だということを知っていて、温室に呼び出したのだろうか。
(そんなところに馨お姉様を呼び出した偽物の私って、もしかして……)
真理亜ちゃんは鄙乃ちゃんが馨お姉様のところへ行ったと言っていた。あんなに急いで、馨お姉様のもとへ向かった理由は、いや、馨お姉様のところへじゃなくて、もしかしたら別のところへ向かったのかもしれない。そんな考えが急に鎌首をもたげる。
(馨お姉様……!)
とにかく今は馨お姉様に会って、伝言は私じゃないと伝えなければ。不安と焦りではやる気持ちを抑えながら、私は温室までの道を駆け抜けた。
*
「っひ、広い……広すぎるよ……」
立ったまま、前のめりになりながら両膝に手をつき、すっかり上がった呼吸を深呼吸で落ち着ける。クラブ棟を横切り、そのまた奥にある温室に辿りつく頃には私の体力もすっかり底をつきかけていた。その上、喉の渇きも強まってきていて、物凄い疲労感を感じる。
ここが日本だということを忘れるくらいのとにかく広い敷地の為に建物の間隔も普通では考えられないほど広く、その移動には普通の倍近くの時間がかかる。だが、全てにゆとりを持って行動することが求められるこの学院では、急いで何かをするというのはご法度となっている。だから、こうして、行く先々には必ず等間隔でベンチや休憩所が設けられ、あえてのんびり休憩しながら目的地まで辿りつくようにとの配慮がなされている。
(だからって、今はそんな悠長に休憩なんてしていられないよ!)
そうして全てのベンチを通り過ぎ、温室のある森まで辿りついた今、色々な意味で私はへろへろだった。
「か、馨お姉様……」
完全に息を整える前に、ふらふらの両足が体力とは無関係に前へ前へと歩き出そうとする。
(そうだ。休んでいる場合なんかじゃない。お姉様に早く会わなくちゃ……)
ぴりついていた喉の違和感が、燃えるような渇きへとじわじわ変化していっているのが分かる。ハーフヴァンプの体が黄色信号を発している合図だ。私は重たい体を引きずるようにして、温室のドアを押し開けた。
その瞬間、むせ返るような華の濃い香りがふわりと身体を包み込んだ。
「わっ……」
その香りを吸い込んだ瞬間、燃えるような喉の渇きが少しだけ薄れたような気がした。あまりの広さに上を見上げると、ドーム型の半透明な高い天井が目に入る。そこはまるで楽園のように多種多様な花々が美しく、また、華麗に咲き乱れている場所だった。
「すごい綺麗……」
何の名前かは分からないが、どこかで見たことのあるような花々や見たこともない種類の色とりどりの花が視界を埋める勢いで咲いている。疲れや飢餓感も忘れて、それらの花の美しさに見惚れていると、奥の方で何やら話し声が聞こえた。
気を取り直して、その声に導かれるように、奥へ奥へと進んで行く。
「……――ですわ!」
花の香りに包まれながら歩いていると、不意に聞き覚えのある甲高い声が響いた。
(やっぱり、この声は鄙乃ちゃんだ……)
なるべく、音を立てないよう近付いていく。薔薇のアーチをくぐり、少し進んだ先に案の定、二人の影があった。近くの茂みにさっと身を隠す。そこから奥を覗くと、揺れ動く二つの影がはっきりと見て取れた。そのうち一つは鄙乃ちゃん、そして向かい合わせに立つ後ろ姿は馨お姉様のものだった。
(じゃあ、鄙乃ちゃんが私の名前で馨お姉様をここへ呼び出したんだ。でも、一体どうして……?)
湧き上がる疑問をそのままにして、私は目の前の光景を食い入るように見つめた。
「ですから、到底納得できませんの!」
鄙乃ちゃんが苛立ったような表情を浮かべて声を荒げる。
こちらから馨お姉様の顔は見えないが、馨お姉様の声は鄙乃ちゃんとは対照的に随分落ち着いていた。
「……だから言ったでしょう、鄙乃。あなたじゃダメな理由を。それに私達、ヴァンプ同士がくっついたってお互い良いことなんか何もないでしょうに。私達には生きる為に、人間の血が必要なのよ。それはあなたも当然分かっているでしょう」
「そんな当たり前なこと分かっていますわ!でも、でも……それなら尚更っ、あんな子じゃなくても他にもっと馨お姉様に見合うような人間はいくらでもいるじゃありませんの!」
「私にも好み、というものがあるの。人間なら誰でも良いってわけじゃないわ。あなたのお姉様のように人間であれば見境なく手を出すようなタイプじゃないの」
馨お姉様がそっとため息をつく。
鄙乃ちゃんは苦虫を噛み潰したような表情を顔に浮かべて呻いた。
「う……。お姉様のことはまた別の話ですわ。……鄙乃は、やっぱり納得できません。あんな何の取り得もない、マイナス要素の塊みたいな子を傍に置くなんて、鄙乃、絶対に嫌ですわ」
(マ、マイナス要素の塊……)
鄙乃ちゃんの辛辣な言葉がぐさりと胸に刺さる。
「悪いけれど、あなたの許可は求めていないわ。私は私の意志で、あなたではなく、あの子を選んだの。それも、ほとんど運命的にね」
「でもっ」
「それ以上、私の前で彼女を非難するようなら、許さないわよ」
馨お姉様の言葉に、鄙乃ちゃんが悔しそうな顔で唇を噛んだ。
(二人の言うあの子って私のことだよね)
自分の名前がこんな形で言い争いの場に出されて、というよりこの場合、鄙乃ちゃんが食って掛かっているようだが、どうにも居心地が悪い。これでは、鄙乃ちゃんとの関係改善を望んだところでほとんど絶望的だ。
「それよりも、有栖ちゃんの名前で私を呼びだすなんてね。随分、回りくどい手を使うじゃないの」
「それはっ……そうでもしないと、馨お姉様は鄙乃の話を聞いてはくれないんですもの」
「あなたの話はもう飽きるほど聞いたじゃない」
馨お姉様のうんざりしたような表情が透けて見える。
「でも、鄙乃が放課後馨お姉様へ会いに行っても、馨お姉様は会ってはくれないじゃありませんの。いつも理由をつけて鄙乃を遠ざけて、有栖、有栖って、あの子のことばかり。こんな仕打ち、あんまりですわ」
鄙乃ちゃんが唇を尖らせて馨お姉様へ不満を言う姿は、酷く弱々しく可憐なものだった。ヴァンプであることを知らなければ、誰でもたちまち瞬殺されてしまいそうな威力がある。だが、同じヴァンプである為か、はたまた幼い頃から知っているからか、馨お姉様はちっとも動揺した素振りを見せずに、ただ淡々とした様子で鄙乃ちゃんと対峙していた。
「鄙乃もいつまでも私を追いかけてばかりいないで、自分だけのパートナーを持ちなさい。そうすれば、こんな私に執着しようとは思わなくなるわよ」
「ニエならこれまでだってたくさんいましたわ」
「それはエサという意味でしょう。そういうものは持とうと思えばいくらでも持てるけれど、パートナーとなるとまた別の話よ。私は有栖ちゃんと出会って、変わったわ。あの頃の……あなたといた頃の私ではないの。それこそ、この変わりようはまるで別人ね。私も驚いているわ。有栖ちゃんと出会って、私自身、これまでとは違う変化が自分の中で起きたの。これは肯定的に捉えるべき変化よ」
(馨お姉様……)
馨お姉様の言葉に心が少しだけ温かくなる。
鄙乃ちゃんは今にも泣きだしそうな顔で首を振った。
「分かりませんわ。……分かりたくもない」
「いつか分かるときがくるでしょう。でも、それはあなたが抱える問題。その問題に私が手を出すことはできないわ。さあ、話はこれでおしまい。私は戻ることにするわ。やることが山ほどあるの。下手にサボろうとすると雅がうるさいのよね」
「嫌っ、馨お姉様!」
鄙乃ちゃんがひと際悲痛な声をあげて、馨お姉様へと強引に抱き着いた。
「鄙乃……」
馨お姉様が困ったような声で鄙乃ちゃんの名前を呟く。鄙乃ちゃんは馨お姉様の腕の中にすがるように身を寄せたまま、肩を震わせて、すすり泣いているようだった。
(鄙乃ちゃん……)
複雑な思いでその様子を見守っていると、突然、背後から妖艶な囁きが耳朶をかすめた。
「盗み見は駄目って教えてあげたのに、いけない小鳥ちゃんね」
驚いて振り返るより早く、白い手が私の口元を塞ぐ。
「っ……!」
ひんやりと冷たい感触が唇を通して伝わる。無理やり振り返ろうとすると、その人の顔が視界に入った。
(し、静花お姉様……っ!!)
一体全体何が起きているのか。大輪の花が咲くように妖しく、見惚れるほど美しい微笑みを浮かべる静花お姉様に背後からきつく抱き締められ、パニックと喉の渇き、そして息苦しさに私はたまらず声なく喘いだ。




