32.ぎくしゃく
教室に戻ると、当然ながらそこに鄙乃ちゃんの姿はなかった。
「鄙乃ちゃん、どこ行っちゃったんだろう……」
鄙乃ちゃんの机に置いてあったはずの鞄もなくなっている。
(もう一度、ちゃんと謝りたかったんだけどな)
あんな大勢の前では謝った気もしないし、余計に鄙乃ちゃんとの仲がこじれてしまった気もする。
(庇ってくれた真理亜ちゃんが悪いってわけじゃないんだけど……やっぱり、クラスメイトなんだし、このままずっと険悪な関係が続くのは辛いと思うんだけどなあ。一対一で会って話せたら一番なんだけど、真理亜ちゃんが許してくれるとは思えないし……それに、鄙乃ちゃんを怒らせて、またあんな風に緊迫した状況になったらさすがにまずいもんね)
そんなことを考えてため息を吐いていると、横にいた真理亜ちゃんが言った。
「どうせ拗ねているだけなんだから。有栖が心配してあげる必要なんかないわよ」
「拗ねてるだけかなあ」
あの騒ぎを“拗ねている”の一言で片づけてしまう真理亜ちゃんってすごいと内心思いながら言葉を返す。
真理亜ちゃんは大きく顎を引くと、横目で鄙乃ちゃんのいない席をちらりと見て、短く嘆息した。
「そうよ。昔からそう。自分の気に入らないことがあると、すぐ周りのせいにして逃げるんだから。馨お姉様に関しては昔からべったりだったけれど、馨お姉様も適当にあしらうものだから、鄙乃ったら調子に乗って……」
そう言い終えると、真理亜ちゃんは視線を戻して、教科書などを鞄にしまっていく。
その様子を見ながら、私はふと浮かんだ疑問を口にした。
「昔からって言うけど、真理亜ちゃんと鄙乃ちゃんって、どれくらいの付き合いになるの?」
真理亜ちゃんが手を止めて、考えるように視線を宙へ動かした。
「どれくらいの付き合い……そうねえ。生まれた頃から、っていうのかしら」
「ええっ、そんなに小さい頃から?」
真理亜ちゃんがこくり、と頷いた。
「以前、年に数回ヴァンプの集まりがあるって話したでしょう。新参者のお披露目もそこで行うから、私達も生まれてすぐに強制的に参加させられて……それが初顔合わせね。それから招集があるたびに顔を合わせているわ。小学校の頃までは一緒にいる時間も多くてうんざりしたけれど、あの子が別の場所に移ってからは本当に平和になって、どんなに嬉しかったか……」
真理亜ちゃんが私の肩の向こうを見つめて、はあ、とため息を零す。
「あ、あはは。二人とも、小さい頃もきっとすっごく可愛かったんだろうなあ。あ、そうだ。その、新参者のお披露目ってことは、私もいつか出なくちゃならないんだよね」
ハーフヴァンプとなったからには挨拶しておく必要があるのではないか、と思って真理亜ちゃんに確認するように問うと、真理亜ちゃんは曖昧に頷いて言った。
「そうね。有栖にも出席する権利は与えられるんじゃないかしら。無理にとは言わないけれど、周りへの牽制も兼ねて、馨お姉様が連れて行かれるんじゃない。そんなに堅苦しいものじゃないし、紹介さえ終われば、あとは自由にしていていいんだから」
「そっか。でも、紹介って言われると緊張するなあ」
たくさんの美しいヴァンプの女性達が勢ぞろいしている姿を想像して、ぶるりと身震いした。それを見て、真理亜ちゃんがふっと口の端を上げる。
「大丈夫よ。取って食べたりしないから。私がちゃんと見張っていてあげるわ。ただ、次の集まりがいつ、ってはっきりと言えないのがもどかしいのよね」
「集まる日って決まってないの?」
首を傾げると、真理亜ちゃんが困ったように頬に手を当てた。
「ええ。一族の長役のヴァンプが招集をかけるんだけど、基本的にこの日に集まるっていうのは決まっていないの。まあ大体年始に集まることが多いんだけど、それ以外でも、あの方、自分が騒ぎたいからって招集かけたりするから」
まるで手のかかる子供か何かのように、だが親しみのこもった口調で真理亜ちゃんが言った。
「へえ。お姉様達よりもっと上の、しかも長ってことは一番えらいヴァンプの人だよね。なんか、ちょっと想像つかないなあ……」
今のクインテットのお姉様方よりもずっと偉い人だと思うと、興味をそそられるが、全くイメージが掴めない。
(きっとものすごく美人でものすごく華やかで、ヴァンプの長っていうくらいだから、多分厳しくて、でも宴会好きってことは賑やかな人……?うーん)
あれこれ想像を巡らしていると、真理亜ちゃんが微笑んだ。
「ふふ。会えば分かるわ。……ああ、いけない。これ以上話していると、お姉様達が待ちくたびれちゃうわ。さあ、早く行きましょう。有栖」
話している間にも準備を終えていた真理亜ちゃんが鞄を持って、私を急かす。
「え、嘘。ちょっと待って」
すっかり話に夢中になっていた私は空っぽの鞄を前に、慌てて帰り支度に取り掛かった。
その後、真理亜ちゃんと共に遅れて風紀委員の集まりに参加すると、予想していた通り、そこで出される議題の全てが静花お姉様や鄙乃ちゃんに関するものだった。
倫子お姉様などはいかに静花お姉様の女癖が悪いかという実話を再三持ち出し、私が目撃した静花お姉様が一般生徒を“毒牙にかけた”証言と合わせて、このままでは今後、さらに静花お姉様の犠牲者が増えるだろうと強い危機感をあらわにした。これについては、他のお姉様達も皆揃ってため息をつき、いつもならば話し合いにあまり積極的でない馨お姉様に至っても、いつになく真剣な様子で対策を話し合っていた。
私やニエのお姉様達はそんな様子を大人しく見守っているしかなかった。
「じゃあ、静花については私達ができるだけ見張っておくということで異論はないわね。鄙乃については静花ほど害はないと思うし、放っておいてもいいでしょう。何かあれば、真理亜や有栖さんから報告をお願い」
「分かりました」
「あ、はい。分かりました」
雅お姉様の言葉に真理亜ちゃんと私が頷く。それで今日の集まりは解散となった。
帰り支度をしていると、馨お姉様が私を呼び止めた。
「有栖ちゃん」
「はい、馨お姉様」
振り向いた私の肩に馨お姉様がそっと手を置く。
「くれぐれも気を付けて。私達が見張っているといっても、四六時中というわけにはいかないから……。なるべく一人で行動することは避けて、できるなら真理亜と一緒に動いて欲しいの」
「勿論、そのつもりですわ。有栖は私に任せて下さいな」
横から真理亜ちゃんがずずっと進み出て、馨お姉様へ答える。馨お姉様は何か言いたげに片眉をぴくりと動かしたが、真理亜ちゃんには何も言わなかった。
「それから、鄙乃が何を言おうとも気にしないで。私のニエは有栖ちゃんだけしか考えてないわ。その気になったらいつでも私の部屋へいらっしゃい」
「馨お姉様……」
馨お姉様が冗談めかして茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた。その仕草に私の胸がきゅんと高鳴ったのは言うまでもない。
それから馨お姉様は一転して真剣な顔を浮かべ、「それと」と前置きして言った。
「喉が渇いたら我慢しないで私のもとへ来ること。いいわね」
「はい。の、喉が渇いたら……そのときは、お姉様のところに行きます」
やや気恥ずかしい思いで私が頷くと、馨お姉様は目を細めて柔らかく微笑んだ。こんな風に馨お姉様が優しく微笑んでくれるのは私の前でだけなのだ。そう思うと、鄙乃ちゃんには申し訳ないけれど、馨お姉様との絆をそう簡単にほどくことは考えられなかった。
馨お姉様が一息置いて、私と真理亜ちゃんを交互に見つめた。
「話し合いでも言っていたように私はこれから静花を探しに行かないといけないの。雅はまだしも、あの二人では……ね。どうやら、匂いからしてまだ校内にいるみたいだし。そういうわけだから、真理亜と一緒に気を付けて帰るのよ」
「あ、はい。十分に気を付けるようにします」
「お任せくださいな」
馨お姉様に二人で会釈をしてから、真理亜ちゃんと歩き出そうとすると、馨お姉様があっと呟いた。
「ちょっと待って、有栖ちゃん。忘れ物をしているわよ」
「え?」
そう言って振り返った私の頬に柔らかな感触が当たる。
「……っ!」
馨お姉様の唇が私の頬に触れていたのはほんの一、二秒のことだったが、私には一分、いやそれよりも長く感じられた。
「それじゃあね」
「馨お姉様……」
馨お姉様はさっと私達を追い越して、夕暮れの校舎に消えて行った。
「馨お姉様ったら、こういうところはさすがに抜かりないわね」
真理亜ちゃんが馨お姉様が消えた方向を見て、唸るように呟いた。私はというと、まだじんと痺れる頬に手を当てて、馨お姉様の温もりを感じていた。
「私達も帰りましょうか」
「うん、そうだね」
真理亜ちゃんが差し出した手に自分の手を重ねると、私達は二人で帰路に着いた。
その日は特に心配することは何も起きなかった。
その次の日の朝、何事もなかったかのように登校してきた鄙乃ちゃんにはありありと敵意を剝き出しにされて気まずい思いをしたが、あの日以上に緊迫した空気になることはなかった。
*
だがそれから数日後。奇妙な噂がまことしやかにクラスメイト達の間で囁かれ始めたのだった。その噂はしばらくして、すぐに私や真理亜ちゃんの耳にも入ることとなった。
それは真理亜ちゃんが授業終わりのシスターに呼ばれて黒板の前へ出ている休み時間のことだった。私が転校してきた初日に親しく話し掛けてくれた初井恵美さんというクラスメイトがおずおずと私の座る席へと近付いてくると、声を潜めて言った。
「ねえ、有栖さんはもうご存知?」
「え?何を?」
何のことかと首を傾げると、初井さんがずずっと思い切り顔を近付けて、突然怖い顔をした。
「こわあい話よ。最近、夜になるとね、寮にお化けが出るんですって」
「お、お化けっ?」
思わず口から素っ頓狂な声を出し、顔をひきつらせる。この手の話は昔から大の苦手で、テレビで心霊特番なんかやっている日にはその後一週間は引きずるほどなのに、まさかここへ来てそんな話を聞くとは思わなかった。と今すぐにでも耳を塞ぎたいのを堪えていると、初井さんは真剣な顔で頷いた。
「そうよ。何人も見た子がいてね。顔も体も真っ白なお化けが、ふらふらと真夜中の廊下を彷徨っているんですって」
そう言って、初井さんは自分の両手を胸の前に出して、お化けの手みたいにぶらぶらと動かして見せた。
「り、寮にお化けが出るなんて、そんな話、今初めて聞いたよ」
(というか、ここにいる間は一生聞きたくなかった……)
私がひくつく頬を抑えながら答えると、初井さんは“なら知っておかなきゃ駄目よ“と言わんばかりに身を乗り出す勢いで話し始めた。
「目が合うと、あ、正確にはお化けに目はないみたいなんだけど、向こうに気付かれてしまったら、あの世へ連れていかれてしまうらしいの。隣のクラスの佐伯さんって子がずっと休んでいるのは、そのお化けに魂を抜かれてしまったからなんですって」
初井さんのおどろおどろしい喋り方に恐怖を引き立てられ、ますます顔をひきつらせていると、後ろでぷっと噴出したような音がした。
振り返ると、鄙乃ちゃんが私達の話を聞いていたらしく、心底呆れたような小馬鹿にするような顔を浮かべていた。




