30.もう一人のヴァンプ
「はあ、はあ、はあっ……」
三年生の教室は一階にある。そこまでの道のりを、わき目も降らず一息に駆け抜けていく。途中、すれ違う生徒が何事かと訝し気な視線を送ってきたが、そんなものに構ってなんていられない。今はとにかく急ぎ、このことをお姉様方に伝えなければならないのだ。
息を切らして廊下を曲がったそのとき、前方から歩いてきたシスターとばったり遭遇してしまった。
「淑女たるもの、廊下を走ってはいけませんよ!」
シスターの金切り声が耳にきいんと響くが、「すみません!」と叫んで、走り去る。
後ろで名前と学年を問うシスターの声が聞こえるが、聞こえないふりをした。
(ごめんなさい、シスター!でも、今はこのことを早く、馨お姉様達に報せなくちゃ……!)
もしも、学院内で鄙乃ちゃんがヴァンプだと自ら正体を明かすようなことをしてしまったら、ものすごく大変なことになる。そうなったら、鄙乃ちゃんだけじゃなく、真理亜ちゃんだって普通の人間じゃないことがバレてしまうし、クラスメイトだってただの傍観者ではいられなくなる。
(真理亜ちゃんっ……)
一人残してきた真理亜ちゃんの眼差しが頭をよぎった。真理亜ちゃんの言う通り、あの場に残っていても私ができることといったら、鄙乃ちゃんの心には到底通じないであろう弁解を必死で唱えることくらいだ。いくら、私が普通の人間ではなくなったといったって、ハーフヴァンプになりたての私と元からヴァンプの鄙乃ちゃんとでは、圧倒的な力の差がある。特に激昂した鄙乃ちゃんを前にして、彼女を退ける自信など微塵もなかった。
だから、これが正しい行動なのだと私は自分で自分を慰めた。真理亜ちゃんがわざわざ私を逃がそうとしてくれなかったら今頃どうなっていたか、想像するだけでぞっとする。
(今の私にできることは、馨お姉様達にこのことを報せることだ……だから、早く馨お姉様のところへ急がないと)
そう思って、必死に手足を動かし、すれ違う人の視線など気にせず、廊下を駆け抜ける。それでも、心の片隅には、真理亜ちゃんを一人あの場に残してきたという罪悪感が消えない。
(私っていつも、真理亜ちゃんやお姉様達に守って貰ってばかり……。ヴァンプに巻き込まれたのは偶然かもしれないけど、でも、私だってもう普通の“人”じゃなくなっちゃったんだから、私もハーフヴァンプとしてできることを考えなくちゃならないのに……)
いつだって、流されるままに全てを受け入れてきた。気が付けば、そんな私の性格が災いしてか、人ではなくなり、ハーフヴァンプという自分でもよくわからない何かになってしまっている。そんな今の状態を嘆こうとは思わないが、このままでいいのか、なんて考えが不意に鎌首をもたげる。今のまま、優しい真理亜ちゃんやお姉様達に言われるがまま、甘えるばかりでいいのだろうか。
(……ハーフヴァンプになっちゃった私ができることってなんだろう)
走りながら、そんなことを思う。どうして、そんなことを急に思い始めたのか、自分でもよく分からないけれど、真理亜ちゃんから言われ続けているニエの話やお姉様から与えられるだけの吸血のことが、このときふと頭に浮かんだ。
(鄙乃ちゃんが怒るのも無理ないかも。馨お姉様とペアになったのは事実なのに、それを隠して、鄙乃ちゃんと仲良くしようだなんて……虫が良すぎたんだよね)
真理亜ちゃんや倫子お姉様の助言があったとはいえ、あれほど馨お姉様のことを慕っていると公言していた鄙乃ちゃんを傷つけたのは、私だ。そのことをあの場でしっかりと謝らなくちゃいけなかったのに。
(私がもっとしっかりしていれば、こんな風に、お姉様達に助けを求めなくても、済んだのかな)
今更ながら、自分の良かれと思って受け入れてきた性格が仇となっている現状に気付く。私がもう少し、しっかりしていれば。そんな思いから唇を噛み締めた。真理亜ちゃんや馨お姉様に頼るしかない自分の状況が今は何よりもどかしかった。
「……はあ、はあっ……」
息を切らして、どこまでも続くような長い廊下を走っていると、ふと中庭の隅に見慣れぬ人影が揺れている様子が視界に入った。何のことはない、日常の光景のはずが、何故だか酷く胸騒ぎがして、急いでいるというのに気付けば足が止まっていた。
日頃の運動不足のせいもあってか、走るのを止めた途端に脇腹がきりきりと痛み出す。走っているときには分からなかったけれど、だいぶ無理をしていたらしい。だが、幸いにも、三年生の教室はもうすぐそこだ。あと少し行けば、馨お姉様達のところにまで辿りつく。
「……はあ、はあ……ふう」
荒い呼吸を正すように、視線だけは中庭から逸らさず、その場で何度も浅い呼吸を繰り返す。
視界に捉えた二つの人影は随分と親し気に絡み合っていた。その距離感はどう見ても、友情のそれを超えているような気がしたが、目を逸らすことができなかった。食い入るようにその光景を見つめていると、突然、一つの影が崩れ落ちるように倒れた。残ったもう一つの影は動揺した様子もなく、それを一瞥すると、何事もなかったかのように髪を掻き上げる仕草を見せた。そして、緩慢な動作で、その光景を見ていた私の方へ、ゆるりと顔を向けた。
(……っ!)
彼女と目が合った瞬間、私は息をするのも忘れてその美貌に惹き込まれた。馨お姉様や真理亜ちゃん達のような、見る者を虜にしてやまない、あの美しさ。この胸の鼓動を否応にも早める、壮絶な美貌に思考を全て持っていかれる。
(ヴァ、ヴァンプ、だ―――!)
どうして気付かなかったのだろう。こちらを向くまで、彼女の圧倒的ともいえる、他者を巻き込み全てを取り込もうとするほどの荘厳な雰囲気に気付かなかった。
けれど、今はこちらへゆっくりと歩みを進める彼女の美貌に心当たりがある。それがハーフヴァンプとしての能力かどうかはまだ分からないが、彼女の姿をこの目に映した瞬間、今朝聞いたばかりの倫子お姉様の言葉が唐突に頭の中に響いた。
『玖珂姉妹はね、あなたのパートナーである馨の……従妹なの』
(この人がヴァンプだとしたら、それってつまり……)
私の中で警報が鳴り響く。一刻も早くこの場から立ち去らなくては。そう思えば思うほど、脇腹の痛みが増していく。
「ごきげんよう。可愛い小鳥ちゃん」
不意に頭上から美声が響いた。
(嘘!いつの間に……っ!)
見上げた瞬間、目の前に息を呑むほどの整った美貌の女性が腕組みをした姿勢で立っていた。
「盗み見は良くないわよ」
その顔は一点の曇りもない完璧な美貌だが、明らかに目が笑っていない。威圧感さえ感じるほどのこの場を取り囲む重々しい空気に、私は頬をひきつらせた。
はたして、ここで正直にハーフヴァンプだと名乗ってしまっていいのだろうか。それとも面倒なことになる前に、適当なことを言ってさっさと立ち去ったほうがよいのだろうか。
(っていっても、もう面倒なことになりかけている気がしてならないんだけど)
無言のまま、あれこれ悩んでいると、目の前の人間離れした美しさをもつその女性は、ウェーブがかった長髪をたなびかせ、神秘的な藍色の目を細めた。
「いけない小鳥ちゃんねえ。……あら。なんて芳醇な香りなのかしら。こういう思いがけないところにご馳走があるのよね」
目の前の女性は妙に濃く色づいた真っ赤な唇を舌舐めずりすると、思わず後ろに下がりかけた私に向かって、言った。
「ふふ。私、あなたのことを気に入ってしまったわ。私があなたに天国を教えてあげる。そんなに怖がらないで。とても気持ちいいところなのよ」
「あ、あなたは一体……」
とんでもなく危ないことを口にしながら、妖艶に舌なめずりする相手を前にして、かろうじて問いを絞り出すと、彼女は悪戯な微笑みを崩さず小首を傾げた。
「私?私は玖珂静花。三年生よ」
(や、やっぱり!この人が鄙乃ちゃんのお姉様……!!)
私に妖しく微笑みかけるこの妖艶な女性こそ、倫子お姉様や真理亜ちゃん達があれほど恐れていた、玖珂姉妹の一人であり、鄙乃ちゃんのお姉様にあたる人なのだ。
まさか、こんなところで出くわすなんて、私って本当に運がない。
「そういう迷子の小鳥ちゃん。あなたのお名前は?」
これまた正直に答えていいものかとためらっていると、静花お姉様は長い睫毛を灯らせた大きな瞳を瞬かせた。
「あらあら。自分の名前を忘れてしまったの?ふふ。それならそれでいいのよ。無理に聞き出そうとは思わないわ。あなたはもう私の鳥籠に入ってしまった、可愛くてかわいそうな小鳥ちゃんなのだもの」
そう言うと、静花お姉様は両手を伸ばして私の両頬を優しく包み込んだ。逃げる間もないあっという間の出来事に体を固くした私へとまるで口づけでもするかのように、静花お姉様の美しい顔が迫る。
(ええ!?!ど、どういうこと!?)
「まずは迷子の小鳥ちゃんと出会えた記念に、私からのギフトをあげるわ」
「ギ、ギフトって……」
ゆっくりと静花お姉様の美しい顔が私に近付いてくる。
「野暮な小鳥ちゃんねえ。こういうときは、お口を閉じているものよ」
「だ、だめです!こんなこと!今は非常事態で、と、とにかく、私、急いでるんですって」
両手を前に突き出し、何とか静花お姉様を押し退けようとするも、うまくいかない。
「もう、ぴいぴい鳴かないの。ほら、可愛らしいお口を閉じるのよ。こうやって……」
静花お姉様の淫靡で眩い微笑みが迫る。
(ああ、もうお願いだから話を聞いて……!)
振り切ろうにも尋常ではない力で私の抵抗を抑えつけた静花お姉様の麗しい唇が私の唇に今にも重なろうと近付いてくる。僅かに開かれた静花お姉様の唇から漏れた吐息が、私の唇にかかる。
ヴァンプである静花お姉様の前では私の力はちっとも役に立たない。
(嫌、お願い……助けて……馨お姉様!)
心の中でその人の名前を叫んだのとほとんど同時に、その声は響いた。
「―――有栖!!」
馨お姉様の凛とした声がその場に聞こえると、静花お姉様はぱたりと動きを止めて、素早く私から手を離し、後ろへ退いた。すぐに駆け付けた馨お姉様が私の前に立ち、静花お姉様の視線を遮る。
「馨お姉様……」
安堵のあまり、かすれた声で馨お姉様の名を呼ぶと、馨お姉様は安堵したような柔らかい瞳で私を見つめてから、睨みつけるように厳しい眼差しを静花お姉様へと向けた。
「何をしているの、静花」
その声は馨お姉様のものとは思えないほど冷たい響きだった。




