2.血の誘惑
ようやく寄宿舎へ辿り着いた時には、この異常な事態に、というより真理亜ちゃんの異常なまでの人気に恐れおののくまでになっていた。だが、当の本人は動揺する様子などおくびにも見せず、淡々と私に学院の説明をしてくれた。
「学校と同じで、一年生の部屋は三階になるの。私達の部屋は角部屋よ」
寄宿舎は校舎から歩いて十分程度のところにひっそりと、しかし、想像していた通り、優雅さの漂う建築物としてそこに建っていた。校舎と同じく、白塗りの外観に、細部に至るまで丁寧に飾りが彫刻された洋風な造りの建物だ。
これまた厳かな正面の扉から、真理亜ちゃんに続いて中へ入ると、まず最初に飛び込んできたのは、私の身長の倍くらいはあるかと思われるマリア様の銅像だった。校舎の中庭や、校長室の近くにも同じような銅像が置かれていたが、それに劣らず立派で美しい銅像だ。
ここでお祈りをするのだろうなあと思いながら、興味深く銅像を眺めていると、真理亜ちゃんがぱっと私の手を離した。
「ここで靴を脱ぐのよ」
(あれ、お祈りはしないのかな)
そんな私の視線に気づいた真理亜ちゃんが小首を傾げる。
「どうかした?」
「あ、ううん。ただ、マリア様って色んなところにいるんだなあって」
「カトリックの学校だもの」
私の呟きに真理亜ちゃんが当然のような顔をして答える。
「真理亜ちゃんもカトリックなの?」
「……私はどちらかといえば無宗教に近いかしら。無神論者といってもいいわ」
「へえ。そうなんだ」
「そうよ。だから、学校では勿論従うけれど、それ以外で祈ることって、あんまりないわね。そういう有栖はどうなの?」
「私は、特にそういう信仰はないけど、マ……母がここ出身だから、キリスト教には慣れてるっていうか、苦手意識とかはあんまりないかな。といっても、母がこの学院出身だなんて最近知ったんだけどね」
「お母様が……?」
「うん。イースターとかクリスマスとか、そういうときだけはりきっちゃって、讃美歌流したりすることもあったんだけど、そういう趣味なのかなって思ってたから、ここが母校って聞いて、驚いちゃった。だから、私が日本に残るってなったときも、ここにしなさいってうるさく言われちゃって」
「そうだったの。素敵なお母様ね。……有栖も、きっとここが気に入るわ」
真理亜ちゃんがにっこりと微笑んだ。その微笑みにどきっと胸が高鳴る。
(た、確かにこんなに可愛いと騒ぎたくなる気持ちも分からないでもないかも)
「そうなるといいけどね」
苦笑を返すと、真理亜ちゃんは「絶対そうなるわ」と妙に確信持った声で私の背中を押したのだった。
それから靴を脱いでその場に突っ立っていると、真理亜ちゃんが気を利かせて来客用のスリッパを持ってきてくれた。私が履き替えると、真理亜ちゃんも自分の下駄箱に履いていた靴をしまい、寄宿舎用と思われる履物に履き替える。
そして、さも当然のように真理亜ちゃんが私へと白い手を伸ばした。一応、それが手を繋ぐ為に差し出されたものだと理解した今、ためらいはありながらも、その手を取ろうと手を伸ばす。その瞬間、弾けたように寄宿舎の中で私達の様子を眺めていた人達が歓声を上げた。
思わず、手を止めると当の本人はくす、と微笑みを零した。
「どうかしたの」
「いや、何か……真理亜ちゃんって、すごい人みたいだね」
寄宿舎の外にまで出待ちのように人影がわんさか見える。
「別に有栖が気にすることないわ。いつものことよ」
「こ、これ、いつものことなの?」
私が目を見開くと、真理亜ちゃんはため息を吐いてうんざりしながら言った。
「そうよ。入学して一ヵ月経つけど、最初からあんな感じだったわ」
「へえ……」
すごすぎて、感嘆のため息しか出てこない。
そんな私の前で真理亜ちゃんは肩をすくめてみせた。
「まあ私なんてお姉様方に比べたらまだマシな方ね」
「え?お姉様って?」
「何でもないわ。ただの上級生のことよ。さ、いきましょう」
そう言って、真理亜ちゃん自ら私の手を取り、入口すぐのところにあった階段へと誘った。
階段を上りながら、真理亜ちゃんが私の方を向く。
「そうそう。寄宿舎も、色々と規則があって窮屈かもしれないけれど、それでもすぐに慣れると思うわ」
「うん。そうだと良いんだけど」
「食事は朝昼夕、学校がある日は朝とお夕飯だけね。学校に行けない日があっても、お昼はきちんと用意されるから安心して。朝は六時から八時半まで、お夕飯は六時からよ」
「…朝起きられるか、ちょっと心配だなあ」
「私が起こしてあげるわ」
「有難う。もし起きてなかったときは、お願い」
「ええ、勿論」
階段を上り切り、三階の長い廊下を歩いて一番奥の部屋の前で立ち止まると、真理亜ちゃんはドアノブに手を掛けた。
「ここよ。さあ、入って」
ぎい、という音と共に茶色の扉が開かれ、その先に明るい室内が飛び込んできた。
(わあ、広い部屋だ……!)
二人部屋だと聞いていたけれど、この広さなら三人でも、いや頑張れば四人でもいけそうなほどだ。フローリングの床に白い壁紙、窓が一つついていてレースのカーテンがそよそよと風に揺れている。広い部屋をちょうど真ん中で半分にして、右側に真理亜ちゃんのスペース、左側が私のスペースというように物が置かれていた。
「一応、綺麗にしておいたんだけど……もし嫌だったら遠慮なく言って」
「嫌なところなんて……わ、可愛い!」
勉強机はそれぞれ左右の壁に一つずつ設置されていて、その横にはふかふかのベッドもある。それよりも真ん中に敷かれたラグマットの上に大小様々なクッションと、大きなクマのぬいぐるみがどんと置かれている光景が目に入った。もしかして、と真理亜ちゃんのベッドを見ると、やはり小さいクッションに混じり、ウサギやクマのぬいぐるみが見える。
「可愛いぬいぐるみがたくさんあるんだね。すごく可愛い」
私がはしゃいでいると真理亜ちゃんは目元と口元を同時に柔らかく緩ませた。しかし、すぐにきゅっと口元を引き締める。
「そ、そう……?」
「うん!もしかして真理亜ちゃん、ぬいぐるみが好きなの?」
真理亜ちゃんは私の問いにぷいと顔を反対側に背けた。
「……べ、別に」
その顔は何だか、照れて恥ずかしがっているようにも見える。そんな真理亜ちゃんの初めて見る姿に胸がほっこりと温かくなった。
「そっか。でも、すごく素敵なお部屋だね。嫌なところなんて、本当、一つもないよ!」
「……気に入って貰えたなら良かったわ」
真理亜ちゃんはこちらを向いて、ぎこちなく微笑んだ。
「うん、色々気を遣ってくれて、有難う」
部屋の扉を閉めてから、真理亜ちゃんが私のスペースに積まれた段ボール箱を指差した。
「有栖の荷物は届いているわ。念の為、確認して貰えるかしら」
「分かった」
「ハサミはこれを使って」
「あ、有難う」
真理亜ちゃんが手渡してくれたピンクのハサミを受け取り、持っていた鞄をとりあえず自分のベッドに置いた。ベッドの側に二つ積まれたダンボールのうち、まずは上にのっている方から作業を始める。中には衣類と生活に必要だと思われる小物類が入っているはずだ。
「降ろした方がやり易いでしょう。手伝うわ」
意外に重いダンボールを降ろす作業に苦戦していると、すかさず真理亜ちゃんが手伝ってくれた。
「助かる」
二人でダンボールを下に降ろし終えると、真理亜ちゃんから手渡されたハサミでさくさくと封を切っていく。中を確認すると、ハンカチや洋服などがめいっぱい詰められていた。もう一つのダンボールも同じように封を切ろうとするが、ぐるぐるにまかれたテープは頑固でそう簡単に剥がせない。
(もう、パパったら)
荷造りの最後にパパが一生懸命、ダンボールに粘着テープを貼っていたのを思い出す。
(女の子なんだから中が見られないように厳重にしておかないと、って言っていたけど、こんなにしたら私まで開けられないじゃない)
手伝ってくれたパパを今更うらめしく思いながら、片方の手でテープを押さえ、もう片方の手で持ったハサミをテープに合わせ、切り込みを入れるべくぐっと力を入れた、そのとき。手が滑ってあらぬ方向にハサミが動いた。
「っ、痛!」
危ないと思う間もなく、鈍い痛みが私の左手を襲う。見れば、左手の甲に手首から親指にかけて一本の短い赤線が伸びている。
「ひー、失敗しちゃった……」
だらだらと出血するほどではないが、ぷっくりと左手に浮かんだその線からは血液が浮き上がっている。
「私って本当、不器用で……」
傷口がじんじんと痛み始める。
「あ、ハサミ汚しちゃって、ごめんね。えーと……真理亜ちゃん?」
「……」
真理亜ちゃんは黙ったまま、食い入るように私の左手を見つめていた。
「……あの、申し訳ないんだけど、ティッシュってあるかな」
痛みを堪えながら、左手と真理亜ちゃんを交互に見つめる。
血を見て、何故か固まってしまった真理亜ちゃんは瞬き一つせずに私の傷口を凝視していた。
私は仕方なく、ティッシュを探して部屋の中を見回した。ちょうど真理亜ちゃんの机の上にボックスティッシュがひと箱置かれている。それを拝借しようと一歩足を動かすと、真理亜ちゃんの手が素早く私の左腕を掴んだ。
「ど、どうしたの……?」
「……」
真理亜ちゃんは何も言わず、先程から私の左手をじっと見つめている。
「ちょっと、痛いかも……」
やんわりと真理亜ちゃんから腕を離そうとすると、真理亜ちゃんはそれより強く私の腕を引っ張り、自分の方へと引き寄せた。
「え?」
そして、何のためらいもなく、血の滲んだ左手に、ちゅ、とその柔らかな唇を当てた。
「な、なななっ……!」
(何してるの?!)
真理亜ちゃんのありえない行動に目を見開き、無意味に口を開閉させる。
「ま、真理亜ちゃん……!」
真理亜ちゃんは私の言葉に構わず、傷口をぺろりと舌で舐め上げた。
「んっ……」
ぴりりとした刺激に思わず声を漏らす。その瞬間、真理亜ちゃんが弾かれたように勢いよく私の手から顔を上げ、右手で口元を拭った。その妙に色っぽい仕草にごくりと喉が鳴る。真理亜ちゃんの虚ろな瞳が私を捉えた。
(め、瞳が……!)
真理亜ちゃんはさっと背を向けると、いつものそっけない調子で言った。
「……ティッシュなら、私の机の上にあるから」
心臓が弾けそうなくらいにうるさく跳ねている。私はすっかり紅潮した頬に手を当てた。
(ま、真理亜ちゃんの目が、一瞬、き、金色に見えた……でも、そんな、馬鹿な……)
真理亜ちゃんが顔を上げたあのとき、瞳がまるで金色に輝いていたように見えた。
「……有栖?」
「あ、う、ううん。何でもない。有難う」
私は真理亜ちゃんの机からティッシュを何枚か取って、左手の血を拭った。傷口から溢れていたはずの血がいつの間にか固まっている。その傷跡も絆創膏を貼らなくても良いくらいの目立たないものになっていた。
(傷って、こんなに浅かったっけ……?)
「今の……痛いことしたときに早くよくなるおまじない、なの」
真理亜ちゃんが何事もなかったようにくるりと振り返った。
「そ、そうなんだ……ちょっと、びっくりしちゃった」
私を見つめる真理亜ちゃんの瞳は茶色のままだ。
(気のせい……だったのかも。光の加減で金色っぽく見えただけ。きっと、そうだ)
無意識に傷口へ手を伸ばすと、真理亜ちゃんが首を振った。
「だめよ、触っちゃ。酷くなるわ。………ほら、絆創膏、貼っておいて」
真理亜ちゃんはそう言うと、絆創膏を取り出し、ハサミと交換するように私へ手渡した。
「……うん」
ハサミを真理亜ちゃんに返し、受け取った絆創膏を貼ろうとする。だが、急に手が震えてきて絆創膏のシールがうまく剥がせない。
「ほら、貸して。左手も」
真理亜ちゃんは私から絆創膏を奪うと、優しく私の傷口に重ねて貼った。
「あ……有難う」
「どういたしまして」
真理亜ちゃんの顔がまともに見れない。
「あ、えっと」
「荷物は私が開けてあげるわ。有栖は確認する作業だけしてくれればいいから」
真理亜ちゃんはそう言って、私が手こずったダンボールをいとも簡単に開封してしまった。
「手間かけちゃってごめんね」
真理亜ちゃんが中身を見るようにと私を振り返る。
「気にしないで。どう?足りないものはない?」
「うん。大丈夫。全部、あるよ」
「そう」
ダンボールの中身を全て確認し終えると、私と真理亜ちゃんはどちらからともなく真ん中のラグマットに座った。
微妙に開かれた距離を埋めるように真理亜ちゃんが私の方へ身体を寄せる。
「改めて、これからよろしくね、有栖」
「……うん。私こそ、よろしく。真理亜ちゃん」
部屋に入るまでは想像もできなかった気まずさを感じながら、私は真理亜ちゃんの笑みを受けて、微笑んだ。
これから、この部屋で真理亜ちゃんとたった二人きりで過ごす日々が始まるのだと思うと、得体のしれない不安感と高揚感が私の胸をぐるぐるに引っ掻き回した。