23.お姉様はお見通し
結局、真理亜ちゃんの反対の甲斐あって、私は空腹のまま吸血されることもなく、無事、昼食を口にすることができた。相変わらず、学食とは思えないほど手の込んだ昼食を食べている間も、あの事件が起きたとき、現場にいなかった二年生のお姉様方があれこれと質問をしてきて、それに三年生のお姉様方まで加わり、私の話が尽きることはなかった。
「何はともあれ、私達が有栖さんを迎え入れる意思に変わりはないわ。それよりも、あなたがこうして、私達と共にここにいてくれることを心から感謝するわ。…困ったことがあったら、馨だけでなく私達もいつでも力になるから、遠慮なく言いなさい」
お腹も満たされ、そろそろ解散かという雰囲気のとき、それまで黙っていた雅お姉様が口を開いた。そして、その言葉を機に、次々と他のお姉様までもが、私に暖かな言葉の数々を送ってくれた。勿論、真理亜ちゃんも。その言葉で、口では冗談めかしたことを言いながら、心の中ではいかに皆が私の体調を気遣ってくれているかを感じることができた。
「有難う御座いますっ…!」
私は自分の中の感謝の気持ちを精一杯こめて、頭を下げた。そうして、柔らかな拍手の中、この日の昼食会はお開きとなった。
*
「有栖ちゃん。話があるの」
昼食会が終わり、真理亜ちゃんと共に教室に戻ろうとした私は馨お姉様に優しく呼び止められた。
これまでなら一緒に残ると言い張っていた真理亜ちゃんも、馨お姉様を私のパートナーとして認めてくれたようで、先に教室へ戻っていると告げて部屋を出て行った。他のお姉様方も皆、互いのパートナーと共に仲睦まじい様子で部屋を出ていき、最後までその場に残ったのは私と馨お姉様の二人だけとなった。
「……」
先程まで賑やかな声が飛び交っていた部屋の中はしんとした静けさを取り戻し、沈黙したままの馨お姉様が私をその藍色の眼差しで優しく見つめ返す。
こうして、馨お姉様を目の前にすると、私の身長の方が低く、馨お姉様を見上げる形になる。馨お姉様はすらりとした体躯をしていて、私は勿論のこと、他のお姉様方の中でも群を抜いて、身長が高い。それでいて、出るところは出て、引っ込むべきところは引っ込んでいるのだから、羨ましいという気持ちを通り越して、もはや同じ女性として、ため息しかできない。
(馨お姉様と私って、釣り合いが取れていないというか、圧倒的に私の方がみすぼらしいというか…)
町中を歩けば、誰もが振り返る様な輝きを持つ、特別な人達の中に自分がいるなんて、白鳥の中に醜いアヒルが一匹紛れ込んでしまったようなものだ。ヴァンプであるお姉様や真理亜ちゃんはまだしも、人間であるはずのニエのお姉様まで選び抜かれた美しさを持つ人達の中に急に放り込まれて、最初は惨めな気持ちでいっぱいだったけど、それでも今は、彼女達の優しさに迎えられて、最初の頃より心境も変化してきている。もちろん、良い方向へ。
(心境だけじゃなくて、体も変化しちゃったけど)
そんな軽口を叩くことだってできる。入学した頃は絶対にありえなかったことだ。
(私って案外、適応力が高いのかも)
自分の順応性の高さに脱帽する。それに、ハーフヴァンプになったことで、それまで感じていた真理亜ちゃんやお姉様達への劣等感のようなものが、少し軽くなった気もする。
(こんな風に、馨お姉様を目の前にしても、前よりうつむかなくても良くなった気がするし…)
思えば、馨お姉様とこうして二人きりになるのは、馨お姉様が寮の部屋に来たあの日以来のことだ。あのときは、パートナーの申請用紙に真理亜ちゃんの名前を書いて、馨お姉様を怒らしてしまったんだったっけ。
(…!)
唐突にそれを思い出した私は、馨お姉様がそのことで私を呼び止めたのだと思って、顔を上げた。
「馨お姉様っ」
「なあに?」
馨お姉様は私を見つめると、一体何を話し出すのかと不思議そうな顔で首を傾げた。
私は一世一代の覚悟を決めて、この思いの丈を馨お姉様にも分かって貰えるように深呼吸をして、真っすぐと馨お姉様を見つめた。
「…っ私、今回のことでやっと分かったんです。私の…私のパートナーには、馨お姉様になって欲しいって」
私の言葉が予想外のものだったのか、馨お姉様は驚き、戸惑うような表情を浮かべた。けれど、すぐに見惚れるほどの眩い笑顔をその顔に浮かべた。
「有栖ちゃん…。あなたが私をパートナーに選んでくれたこと、決して、後悔させたりなんかしないわ」
馨お姉様の声は今まで聞いたどんな言葉よりも力強く、また、優しさに溢れていた。
馨お姉様の柔らかな腕が私の体をぎゅっと抱き留める。
「馨お姉様…」
私は自分の全てを馨お姉様に委ねるような気持ちで瞳を閉じた。
馨お姉様が「取り消しはきかないわよ」と悪戯っぽく囁いたのに対し、私はこれ以上ないくらいの幸せな気持ちで胸をいっぱいにしながら、小さく頷いた。
それから、どのくらい、そうしていただろうか。私と馨お姉様は何も言わず、ただ、お互いの温もりを感じ合っていた。そんなとき、馨お姉様が何の脈絡もなしに口を開いた。
「有栖ちゃん。喉が、渇くでしょう?」
「え?」
質問というよりも強い確信を持ったその響きに私は思いもよらず、狼狽えた。
「そ、それは…どういう…」
そっと体を離し、再び私と視線を交わした馨お姉様は、優しい口調でしかしはっきりと言った。
「ハーフヴァンプとなってから、一度も吸血してないのだから、もうそろそろ限界なんじゃないかしら」
(……!)
さも何でもないことのように言う馨お姉様に私は何と答えていいのか、言葉に迷い、口をつぐんだ。
「有栖ちゃん。私達の間に隠し事はなしにしましょう。もうそろそろかと思っていたの。知識としては知っていたけれど、実際にあなたの様子を見て、はっきりと確信したわ」
馨お姉様がふう、と息を吐いて腕組をすると言った。
「私の様子、ですか?」
(馨お姉様の前で喉が渇くなんて一言も言っていないのに、どうして…)
言葉にならない疑問が私の口から出ていく。
「ええ。真理亜は気付いてないみたいだけれど、今の有栖ちゃん、元気な頃と少し違うわね。瞳孔もほんの少し開き気味だし、唇をよく舐めていたでしょう。それに…ほら。鼓動も早いわ」
そう言って、馨お姉様は何の予告もなしに私の胸へと顔を寄せた。ふわり、と華のような柔らかで上品な香りが私の鼻孔をくすぐる。
「なっ…!」
「ふふ。早くなった」
私を上目遣いで見上げ、いつもとは違う体勢で微笑む馨お姉様に、心臓が飛び跳ねる。
「そ、それは、今、馨お姉様がっ!」
急激に顔が熱くなっていくのを感じながら、言い訳がましく言葉を吐き出そうとすると、馨お姉様が私の胸から顔を離した。再び、私が視線をやや上げる体勢へと戻る。
「ねえ。有栖ちゃん。ハーフヴァンプってことは、ニエも持てるし、ニエにもなれるのよ」
意味深な馨お姉様の発言に私は先ほどのやり取りを一旦忘れることにして、頷いた。
「それは、真理亜ちゃんから聞きました…」
「そう。真理亜はあなたのニエになりたがったでしょう?」
馨お姉様はまるで知っていたかのように、にやりと口角を上げて言った。
「どうしてそれを…」
訝し気に眉根を潜めた私に対して、両手の手のひらを上に見せて、馨お姉様は簡単なことだと笑った。
「あの子の考えそうなことぐらい、手に取るように分かるわ。でも、良い案だと思わない?私は有栖ちゃんのニエにはなれないもの」
「どうしてですか?」
思わず、疑問が口をついて出る。馨お姉様は驚いたように目を見開いて、当然とばかりに言い放った。
「あら。だって、有栖ちゃんは私のニエになるのだから、私が有栖ちゃんのニエにはなれないわ。もしも真理亜が有栖ちゃんのニエになったら、半強制的に真理亜を思いのままにできるし、生意気な真理亜を間接的に私の支配下にも置けるから、色々と都合が良いのよね」
ふふふ、と悪役めいた笑みを浮かべる馨お姉様の姿に悪寒が走る。
(さ、さすが馨お姉様。…でもまさか、真理亜ちゃんが私のニエになるなんて…そりゃあ、考えたことはあったけど…って、あれ、馨お姉様は私をニエにする気満々ってこと?)
私の小さな頭の中で、今言った馨お姉様の言葉がぐるぐると回っている。ここは、私が馨お姉様のニエになるという話は置いておいて、真理亜ちゃんのことを考えよう。
何せ、真理亜ちゃん本人が私のニエになりたいとそう言っているのだから、この先、中々無視できない話になりそうな予感がする。しかし、ニエというからには私が吸血する立場になるわけで、あれを自分がやるとなると、急にこっ恥ずかしいような全身をかきむしりたくなるような羞恥心に襲われる。
「で、でも、私が血を吸うって、さすがにちょっと抵抗があるんですけど…」
吸血時の光景を思い浮かべながら、苦笑交じりに答えると、馨お姉様は「それならそれで」というように特に気にしていないといった様子で答えた。
「無理にとは言わないわよ。別に有栖ちゃんが噛もうとしなくたって、今日みたいに、私の血を直接有栖ちゃんに注いであげることで渇きを癒しても構わないんだから」
「…今日みたいに?」
聞き捨てならない台詞が馨お姉様の口からもれる。
「そう。こんな風に…ね」
馨お姉様は言い終わるが否や自らの手首に牙を立てると、無理やり傷をつけた。
「ああっ…!」
皮膚が破け、ほっそりとした馨お姉様の白い手首に小さな血の玉が幾つも数珠のように」浮かび上がる。ぷくりと膨らんだそれは、次第に大きくなりやがて一つの線になった。
「ほら、早く舐めてくれないと、制服が汚れてしまうわ」
「ええっ?!」
お姉様の困ったような声色とは裏腹にその表情はまるで私の反応を楽しんでいるみたいに微笑んでいる。
ぐっと眼前に突き出されたそれを見て、私の意思とは関係なしに喉が鳴った。それでも、まだ一歩、半分となってしまった人間の理性が私を押し留めようと踏ん張る。
「な、舐めるんですか?この血を…?」
手首から腕を伝い、垂れていく鮮やかな血を見て、舌ですくい上げたい欲求がむくむくと湧き上がる。
「そうよ。有栖ちゃんの喉の渇きはこれでしか癒せないわ」
「で、でも…」
ちらりとお姉様を見上げ、次に血の滴るお姉様の手を見遣る。躊躇う言葉を口にしながら、狂おしいほどの渇望感が私を揺さぶる。
(この血を口にすれば…渇きが収まるかもしれない……飲みたい…お姉様の血……っでも、血を飲むなんて、そんなこと…っ)
これまで人間として生きてきた常識が唯一、私の中の衝動を抑えている。
「もう、しょうのない子ね」
お姉様は傷のついていない方の手で前髪を掻き上げ、ため息を吐くと、自らがつけた傷口へと唇を近付け、そこからとめどなく溢れる血をねっとりとした舌遣いで舐め取った。
「…ん。我ながら悪くないと思うけれど」
何とコメントしてよいか分からず、棒立ちのままでいると不意に馨お姉様が手を伸ばし、私をその柔らかな胸へと抱き寄せた。
「ひゃっ!」
すっかり油断していた私は、馨お姉様のその端正なお顔が眼前に迫ったことで、これから何が行われるのかをようやく理解することとなった。
「か、馨お姉様ぁ」
「有栖ちゃんたら、そんな声を出さないの。一度試したら、これがどれほど甘美な味か分かるわ。だって、有栖ちゃんはもうハーフヴァンプなんですもの」
にっこり、と笑う馨お姉様の美貌に背筋を撫でられるような恐怖を感じたのも束の間、私の唇は馨お姉様の唇によって強引に奪われた。




