22.清らかな心が通じ合うとき
固い決意のこもった私の言葉を聞いて、雅お姉様が黙って席を立った。しばらくしてから、うつむいたまま、別人みたいに暗く、沈んだ様子の一人の少女を連れて雅お姉様が戻ってきた。
「真理亜ちゃん」
雅お姉様の影に隠れるようにして佇む真理亜ちゃんへ、そう呼びかけると、真理亜ちゃんは僅かに反応するようにして、おずおずと顔を上げた。
「有栖……」
悲痛な表情を浮かべる真理亜ちゃんは、いつもと変わらぬ色の瞳に私を映すと、唇を震わせた。何と声をかけたら良いのか、分からないといった彼女の戸惑いが私にも伝わってくる。私も、いざ、真理亜ちゃんを目の前にして何と声をかけたら良いのか、分からなくなった。言いたいことはたくさんあるし、言わなければならないことも山ほどある。けれど、それらを何と言って切り出したら良いのか。私は一度開きかけた口を閉じた。
そんな私達を見て、クインテットのお姉様方は、示し合わせたように揃って無言のまま部屋から出て行った。馨お姉様は最後まで心配そうに私の手を握っていたけれど、雅お姉様にそれとなく促されて渋々、席を離れてくれた。
二人きりになって、真理亜ちゃんは気まずそうにその場に立ち尽くしていた。私も私で、目の前にいる真理亜ちゃんが、普通の真理亜ちゃんだと分かっていても、その傷ついた表情を目にしたら、罪悪感で胸がいっぱいになった。お互いが黙ったまま、数分が過ぎた。もしかしたら、ほんの数秒の出来事だったのかもしれない。けれど、そのときは、一秒が一分みたいに長く感じられた。
「……真理亜ちゃん。ごめんね」
互いが息をひそめる中、最初に口火を切ったのは私だった。
真理亜ちゃんははっとして顔を上げると、慌てたように言った。
「っな、何故謝るの?私が、私の方が有栖に、あ…あんな、酷いことをしたのに…」
その瞳にみるみる涙が溜まっていく。真理亜ちゃんの泣き顔を見るのはこれで二回目だ。
「そ、そのせいで…有栖は、…っ」
「ハーフヴァンプになっちゃった?」
「……」
明るく振る舞ったつもりの言葉に真理亜ちゃんが気まずそうに口をつぐむ。その様子を見て、どうやら意図せず傷つけてしまったらしいと反省の気持ちを抱いた。
今、この場で無理に取り繕うことは逆効果だ。きちんと自分の気持ちを真理亜ちゃんに分かって貰うために、正直な今の気持ちをすべて話すのだという気持ちを持って、彼女へ伝える言葉を一つ一つ慎重に選んでいく。
「もう人間じゃないって言われても、全然そんな自覚はないんだけど…でも、その“ハーフヴァンプ”になったことで、真理亜ちゃんを恨む気持ちはこれっぽっちもないよ。何ていうか、その、まだ全部を受け止めきれたわけじゃないから、こんな風に言えるのかもしれないけど、私、今の自分をそこまで悲観していないみたいだし」
後半は苦笑交じりになりながら、それでも自分の今の正直な思いを真理亜ちゃんに伝える。
「そんな、そんなはずないわ」
けれど、真理亜ちゃんはきっぱりとした口調で頑なに首を振りながら答えた。
「どうして?」
私は真理亜ちゃんがそんな風に否定する理由を優しく尋ねた。
「だって、普通の人間は…」
そう言いかけた真理亜ちゃんの言葉を途中で遮る。
「私、もう普通の人間じゃないのに?」
「あ、有栖…」
真理亜ちゃんが動揺したように瞳を揺らした。危ない。危ない。私は急いで、訂正するように言葉を続ける。
「っていうと、意地悪かな。ごめん。…ねえ、真理亜ちゃん。私、今まで、すごく優柔不断だったよね。真理亜ちゃんにも、馨お姉様にも良い顔して、二人から優しくしてもらうばっかりで、どちらが良いかなんて、はっきり口にしたことなかったけど……あの日、真理亜ちゃんが、私に教えてくれたんだ」
「私は、別に何も…」
真理亜ちゃんが伏し目がちに答える。
「ううん。自分でも、薄々だけど、気付いてはいたんだ。それを自覚するのが怖くて…ずっと二人の間で迷っているふりして、逃げていたの。でも、私のそんな行動が一番誰かを傷つけることになるなんて、思わなかった」
「有栖…」
真理亜ちゃんが顔を上げて、私を見つめている。私は大きく深呼吸をした。
「真理亜ちゃん。…私、馨お姉様の、パートナーになりたい」
ずっと、言いたかったことをこの場で初めて言葉として口に出す。
真理亜ちゃんは静かに私を見つめている。
「今度のことで、私、真理亜ちゃんにずっと謝らなきゃって思っていたの。真理亜ちゃんのパートナーになれなくて、ごめん。そして、ずっと、自分の気持ちを言えなくて…ごめん」
私が言いたかったこと、言わなければいけなかったことを真理亜ちゃんにようやく伝えることができた。
真理亜ちゃんは私の言葉を聞いて、すっと目を閉じた。もう一度、目を開けたとき、真理亜ちゃんの瞳の奥に感じられた揺れはずいぶんと凪いでいた。真理亜ちゃんの声はもう、震えていなかった。
「…有栖が眠っている間に、全て、雅お姉様が話してくれたわ。私が有栖や関係のない人を傷つけたこと、そして、死んでしまうかもしれなかった有栖を馨お姉様が救ったこと。私、有栖に、あんなに大切に思っていた貴女に酷いことをしてしまった…。謝っても謝りきれないくらいの酷いことを。そんな私に、もう有栖をパートナーにしたいと言う資格はないわ。これは負け惜しみから言っているんじゃないの。今度のことで、はっきりと、私も分かったの」
「真理亜ちゃん…」
真理亜ちゃんの言葉は、私の心に強く響くものがあった。私だけじゃなく、真理亜ちゃんもまた、あの事件によって何らかの気付きを得ていたようだった。多分だけど、真理亜ちゃんが話してくれたことは、私が真理亜ちゃんにずっと伝えたかったことと同じくらい、真理亜ちゃんもまた、私に伝えたかったことなのだろう。
「これ、言い訳みたいに聞こえるかしら」
ふと、真理亜ちゃんはつい数時間前の穏やかな頃の真理亜ちゃんみたいに、拗ねたような顔をして言った。私は何だか急におかしくなって、笑いと共に否定の言葉を口にした。
「っううん」
「なら良かった」
そう言って少し微笑んだ真理亜ちゃんの顔は、真理亜ちゃんが豹変してしまう前の姿の懐かしい真理亜ちゃんだった。私はそれを見て、どうしても聞かずにはいられなくなった。
「ねえ、真理亜ちゃん」
「何?」
真理亜ちゃんが首を傾げる。
「これからも、私と友達でいてくれる…?」
恐る恐る問いかけた私の言葉に、真理亜ちゃんはむっとしたような表情を浮かべた。
「…そんなに薄情じゃないわよ、私」
「真理亜ちゃん!」
私はいつもの真理亜ちゃんが戻ってきたみたいに思えて、嬉しくてたまらなくなった。
「何よ」
つんとした表情を浮かべる真理亜ちゃんは、もうすっかり元の真理亜ちゃんになっていた。
「…有難う」
真理亜ちゃんは私の言葉に目を丸くすると、すぐに呆れたような口調で言った。
「たくさん謝った次はお礼の言葉?もうお腹いっぱいだわ。言っておくけど、あなたのパートナーは馨お姉様に譲っても、ニエは諦めたわけじゃないわよ」
「え!?」
真理亜ちゃんの驚くべき発言に、今度は私が目を丸くする番だった。
「パートナーになっても、その人のニエにまでなるとは限らないじゃない」
「ま、真理亜ちゃん?さっき、はっきり分かったって」
「だから、それはパートナーの話。ニエについてはまた別問題よ」
「ええええ?って、私、もう人間じゃないならニエの話もなくなったんじゃないの?」
「いいえ。有栖は微妙な立場にいるのよ。望めばあなたがニエを作ることもできるし、ニエになることもできると思うの。だって、ハーフ〈半分〉なんですもの」
真理亜ちゃんが誇らしげに胸を張って言った。
「えええー?」
私の叫びがむなしく室内に響き渡る。
「私が有栖のニエになるっていうのも、まあ悪くないけれど」
何故かぽっと頬を桃色にした真理亜ちゃんは両手を頬にあて、目を伏せた。私は今の状況をやっぱり受け止めきれていなかったようで、今になってこの先、自分がどうなるのかと想像し、大いに慌てるのだった。
*
真理亜ちゃんと仲直りした後も、クインテットのお姉様方が戻ってくることはなかった。もしかして、気を利かせてくれたのかなという私の呟きに、真理亜ちゃんは「珍しいこともあるのね」とそっけない口ぶりで言っていたけれど、その口元には笑みが浮かんでいた。
お姉様達の計らいのおかげで、私と真理亜ちゃんは長い時間を二人きりで過ごし、他愛ない話をすることによって互いのわだかまりを徐々に溶かしていった。
だから、今日のこのクインテットの集まりが、私がハーフヴァンプとなって以来、馨お姉様と顔を合わせる二回目の日だった。
「ほら、行くわよ。有栖」
「う、うん。でもなんか、改めて行くのも、こう、気が重いというか」
「何言ってるのよ。お姉様方は有栖がいつ登校してくるのかって、もう、しつこいんだから。早く顔を見せて、休み時間ごとにわざわざ一年生のクラスを見に来なくなるよう、安心させてさしあげて」
あれから、大事をとって、私は数日間、学校を休んだ。事情を知る担任のシスター早坂は快く了承してくれ、ゆっくり休むようにとの言伝を真理亜ちゃんが預かってきてくれた。
放課後、クインテットのお姉様方とニエのお姉様方も心配して来てくれたけど、真理亜ちゃんが「安静にしなさいとのことですから」の一言でもって、お姉様方を部屋に入れることはしなかった。その時の真理亜ちゃんの毅然とした態度が目に浮かぶようで、真理亜ちゃんからその話を聞いたときは笑いを堪えることができなかった。真理亜ちゃん曰く、看病は同室の者がするべきことであり、ある意味、特権なのだとか。
案の定、倫子お姉様が大分渋ったようだが、馨お姉様は案外大人しく引き下がったそうで、けれど、そのことを真理亜ちゃんはパートナーの余裕だ何だといって、文句を言っていた。正式には申請用紙を提出してないから、まだパートナーとは呼べないんだけど。
私は思いがけず手に入れたこの休みで心身をじっくりと静養させることができ、自分の体の変化と向き合うことができた。
真理亜ちゃんが教えてくれたハーフヴァンプの体の変化については今のところ、ぴったりとそれに当てはまっている。ハーフヴァンプはヴァンプと違って馨お姉様が私にしたみたいに人間をハーフヴァンプやヴァンプにしてしまう力はないらしい。太陽の光やニンニク、それに十字架だって平気だ。
ヴァンプとハーフヴァンプの共通点としては、水を飲んでも満たされない喉の渇きが起こることとニエを持てるということ。喉の渇きの度合いは個人差があるようで、私はそれが日に日に強くなっている気はするけど、真理亜ちゃんにそれを言うとまた心配をかけてしまいそうで言えずにいる。が、そろそろ限界かもしれないと思い始めている。
ちなみに、ハーフヴァンプのみの特性として教えてくれたのは、ヴァンプが自らニエになれないのに対し、ハーフヴァンプはニエも持てるし、自分が誰かのニエにもなれるということ。だから、ここ最近の真理亜ちゃんは冗談か本当か分からないけど、私のニエになると日に何度か宣言している。
「さあ、あなたが扉を開けて」
「うん…」
真理亜ちゃんと食堂までやってくると、昼食の注文を済まし、料理を運ぶのは食堂の人に任せて、二人でクインテット専用の個室の前に立った。
真理亜ちゃんに急かされるようにして、カードリーダーに学生証を通し、ピッという電子音で扉が開錠したことを確認すると、扉に手をかけた。私の後に続いて、真理亜ちゃんが部屋に入り、後ろ手に扉が閉まる。
その瞬間、わあっという歓声が、その場に集まっていたお姉様方からあがった。
「有栖さん!」
「有栖ちゃん!」
「有栖…!」
久しぶりに会う気がする二年生のお姉様方は、前回会った時と変わらず、いやそれ以上に親し気な雰囲気を醸し出していた。
「芙美お姉様、ももかお姉様、葵お姉様…!」
と、その奥に三年生のお姉様方の姿もある。私の視線がつい、馨お姉様の方へと向いてしまったことに、ももかお姉様が気づいた。
「もー、有栖ちゃんったら、馨お姉様しか見えてないよー」
「え!」
その指摘に慌てていると、葵お姉様が口を開いた。視界の隅で、馨お姉様がそっと微笑みを浮かべているのが目に入る。
「それはそうでしょ…。命の恩人だし、パートナー最有力候補なんだから…」
「ほ、ほら、二人とも。有栖さんの前ですよ」
芙美お姉様があわあわした様子で、ももかお姉様と葵お姉様を諫めようとする。二人は、いや、真理亜ちゃん以外、私が馨お姉様をパートナーに決めたということはまだ知らないのだ。
「すみません、つい」
私がそう言って頭を下げると、その場にいた全員が、一瞬の無言の後、何か面白いことでも聞いたかのように笑い出した。真理亜ちゃんまでもが、口元に手を当てて笑みを零している。馨お姉様を恐る恐る見遣ると、馨お姉様は声を発せず、口の動きで何やら言葉を話した。
「か・わ・い・い・わ・ね」
「!」
私の顔が猛烈に赤くなるのが分かる。ぱっと自分の頬に手をやって、冷やしていると、倫子お姉様がにやにやした表情を浮かべながら言った。
「どうしたの?吸血したくなった?」
倫子お姉様の言葉に、私が馨お姉様を吸血している姿を想像してしまい、ますます顔を赤くさせていると、雪乃お姉様が不思議そうな顔で言い返した。
「あら。有栖さんはまだ飲まれる側でしょう」
「それも、そうね」
あっさりと納得した倫子お姉様は、続けてさらりと恐ろしいことを言ってのけた。
「じゃあ、昼食を頂く前に頂かれとく?」
私が抗議の声を上げようと口を開いた瞬間、馨お姉様がぽつりと「それもいいわね」と呟いたのが聞こえて、私は言うべき言葉を忘れ、ゆでだこのように真っ赤な顔をしたまま、その場に立ち尽くした。そんな私の代わりに、真理亜ちゃんはどこぞの街頭選挙よろしく声を張り上げ、繰り返し、異議を唱え続けた。
「断固反対!断固反対ですわ!」
雅お姉様だけは額に片手を当て、困ったようにため息をついていた。




