21.ハーフヴァンプの目覚め
一条雅の発言に鳳凰院馨だけでなく、赤坂雪乃、そして宍倉倫子までもが息を呑んだ。
「有栖ちゃんを、ヴァンプに…?」
その方法を何故、忘れていたのだろうかと鳳凰院馨は心の中で自問自答した。だがすぐに、忘れていたのではなく、その方法自体を考えないようにしていたのだと思い直した。星野有栖を自分達と同じ、ヴァンプにするという方法。それは彼女のこれからの人生を彼女の想像とは全く異なるものへと作り変えてしまうことを意味した。
「正確にはハーフヴァンプだけれど、迷っている時間はもうないわ。何もしなければ、有栖さんはこのまま私達の見ている前で死ぬのよ」
一条雅の言葉に、鳳凰院馨は覚悟を決めて、腕の中で目を閉じたままの星野有栖を見つめた。
「有栖ちゃん」
鳳凰院馨にとって、星野有栖との出会いは偶然でしかなかった。
これまでも人間のニエを持ったことのある彼女は、しかし、刹那的な快楽に興じるためだけにこれを利用した。そのため、ニエはいずれも短期間でその呪縛を解いてやり、それを泣いて嫌がった少女達に嫌気を感じて、いずれも冷たくあしらった。鳳凰院馨は周囲のヴァンプがニエに持つような執着を感じることができなかった。だが何度、酷い扱いをしても、幸か不幸か、その容姿のために、鳳凰院馨に付きまとう女子の影は消えることはなかった。これからもずっと、必要な時だけ、彼女達を求めればいいとそう思っていた。
あの日、星野有栖の柔らかな体の上に落ち、彼女と視線を交わすまでは。
あの事件は鳳凰院馨にとって全くの計算外の出来事であった。
「…有栖ちゃん」
ニエを持つ友人達は皆、彼女達のニエとの出会いをまるで運命か何かのように仰々しく愛おし気に語った。
ヴァンプは嗅覚で自分と適合するニエが分かるのだと、彼女達は説いた。
星野有栖と出会ったとき、鳳凰院馨は自らが体験したことのない感覚を味わった。その芳醇な香りは他のどの人間とも違い、これまで嗅いだことのない極上の香りだった。だが、そのときはそれ以上の感情を、星野有栖に抱くことになるなど、考えもしなかった。素晴らしい香りを持つ少女。彼女の血液はどんなに美味だろうかと舌なめずりをするくらいで、せいぜい自分の性格から考えて、二日で飽きるだろうと思っていた。だが、その日のうちに会った彼女は初めて出会った時よりもずっと魅力的に見えた。そして、予期せぬハプニングから彼女の吸血にも成功し、これがまた想像通り、否、想像以上の美味であった。
そして、それで終わりのはずが、何故か、この自他共に認める平平凡凡な星野有栖への執着心が日に日に大きくなっていった。
「有栖ちゃん。私は決して、あなたを傷付けたりしないわ」
鳳凰院馨は意を決して、自らの血を星野有栖の体内へと送り込むため、柔らかな青白い首筋へとその牙をたてた。
*
誰かの声がする。その声は私の名前を何度も何度も呼んでいる。必死に私の名前を呼び続けるその声の切なさに胸がきゅんと疼く。返事をしたいのに、声が出ない。腕も、足も、何も動かすことができない。ただ、体からどんどん力が抜けていくのが分かる。あと一つ、残された欠片が私の中から出ていってしまうと、私はもう、永遠にあの声に応えることができないと分かっている。分かっているのに、どうもできない。せめて、最後に、あの人に、私の想いを伝えたかった。私の愛する友人に、傷つけたことを謝りたかった。けれど、それも、もうできない。ふわふわと柔らかな綿毛にくるまれ、私の魂はどんどん、どんどん、遠くへ去ろうとしている。だめ。まだ、行かないで。そんな悲しい声が私の最後の鼓動を打たせる。ごめんね、真理亜ちゃん。そして、馨お姉様。私、あなたのこと、初めて見たときからずっと。ああ、その先をもう言えない。お別れがきたのだ、と私は悟る。ぼんやりとした、この生と死の狭間で、私は。
*
最初に感じたのは、体のだるさだった。手の先から足のつま先まで、全身に重しがのせられているかのように身動きがとれない。そして、次に感じたのは尋常じゃないくらいの喉の渇き。焼けるようなこの衝動に私の中の何かが狂ったように暴れまわる。
「有栖ちゃん!」
ああ、この声は。懐かしい、馨お姉さまの声が耳元で聞こえる。その声を聴いただけで、私の渇きは嘘のように消えていき、これ以上ないくらいの幸福感で満たされた。
「目が覚めたみたいね」
「どれどれ」
「あら、本当」
続いて、これまた聞き覚えのある声が三つ。この声は、雅お姉様と雪乃お姉様、それに、倫子お姉様のものだ。私の顔に降り注ぐようにして掛けられた声は、雅お姉様はともかく、緊張感のなさを装うとしているが、どれも安堵する感情が滲み出ている。一体何に対してなのか、と聞きたくてもちっとも唇が動かせない。
力いっぱい頑張っていると、ようやく瞼が動いた。ぴくり、という動きに反応するように三人から歓声があがる。
「あ、動いた」
「頑張って」
私の左手が、ぎゅううっと強く握られる。一体、誰に?分からない。けれど、この温もりはきっと、馨お姉様のものだと思う。
「瞼じゃなくて、睫毛に力をこめるのよ」
雅お姉様のアドバイスはよく分からなかったが、力の入れ方を少し変えてやると、ようやく瞼が持ち上がった。同時に、強烈な光が射しこみ、私の視界を奪う。何度かの瞬きの末に、ようやく、外の様子をぼんやりとだが目に映すことができた。次第にそれははっきりと形をなしていき、私の顔を心配そうに覗き込む三人のお姉様と、酷く不安げな馨お姉様の表情を映し出した。
「…か、馨、お姉様…?」
私が懸命に声を振り絞ると、馨お姉様は身を乗り出して私に問いかけた。
「有栖ちゃん!痛いところはない?気分はどう?」
馨お姉様のいつもはクールな顔が、崩れて、すごく人間味溢れる表情を浮かべている。その表情は私が原因でさせているのだと思えば、大きな罪悪感とほんの少しの優越感を覚えた。
私は瞼と同じ要領で全身に力を入れてやった。すると、今度は楽に、指先を動かすことができた。馨お姉様の助けを借りて、上半身を起こす。
(ここは……私の、部屋?)
見覚えのある天井は、寮の中の自分の部屋のものだった。ということは。私はゆっくりと周囲を見回す。どうやら、自分のベッドに寝かされているようだ。その周りを、どういうわけか、クインテットのお姉様方に囲まれている。けれど、自分からベッドに入った記憶はない。眠る前に一体、何をしていたのだっけ、と記憶を呼び起こそうとするがうまくいかない。
「私、どうして…?」
混乱する私に、馨お姉様が優しく話し掛ける。
「覚えてない?有栖ちゃん、死にかけたのよ」
「死にかけた?…私が?そんな…つっ!」
馨お姉様から自分の状態を知らされると、何かが脳裏にちらついた。そして、首筋に刺すような痛みが走る。ちくりとしたその痛みが、蓋をされていた記憶の箱をいとも簡単に開けてしまった。
「私…真理亜ちゃんに……」
恐ろしいあの夜の光景がフラッシュバックする。真っ赤な瞳をした真理亜ちゃんが私に近付き、夢中で血をすするあの瞬間。痛みと快感が入り混じる恐怖。
「そうよ。その首筋は、真理亜による咬み傷。あの子も手加減なしで吸血したから、数日は痛むでしょう」
雅お姉様の説明にふと違和感を覚える。
「で、でも…、もう一つ、何か…」
真理亜ちゃんの残した傷跡をなぞったはずの指先が、そこにないはずのもう一つの傷口へと触れた。
「それは、馨の」
雪乃お姉様が、雅お姉様が説明する前にさらりと言ってのけた。
「え?」
さっぱり状況が呑み込めず、目を白黒させる私を見て、雅お姉様が今の雪乃お姉様の発言を短絡的だと言わんばかりにため息をついた。
お姉様方が顔を見合わせる中、馨お姉様だけが私の左手を固く握り締めたまま、口を開いた。
「…有栖ちゃん。それは私がつけたの。…貴女に最初に、言っておかなければならないことがあるわ。とても、酷なことを」
「馨お姉様?」
覚悟を決めたような、私への憐憫を含ませるような、そんな眼差しを私に向けながら、馨お姉様は言った。
「有栖ちゃん。貴女はもう、人間ではないの。私達にとても近いモノ…ハーフヴァンプとして、私が生き返らせたのよ。それしか、あのとき、有栖ちゃんを救う手立てがなかったの」
「ハーフヴァンプ…?」
私は聞き覚えのないその言葉を繰り返した。“ハーフヴァンプ”。初めて聞く言葉だ。
「ええ」
馨お姉様は私の問いに静かに頷いた。
「ヴァンプでは…なくて?」
私の問いには、自分でも意図したわけではないが、それを残念がるような響きがあった。どうやら想定していたものとは違う反応を見せたらしい私に馨お姉様が一瞬の動揺を見せた。
「…っ、そうよ。ヴァンプじゃないの。あれはあくまで応急処置としてだったから、有栖ちゃんを完全なヴァンプにする必要はなかったのよ。生きる為に必要な血をほとんど失いかけていた有栖ちゃんの体を、私の血で一定量以上満たしてやることで、半分人間のまま、あなたを半分、ヴァンプの性質を持つ体へと強制的に変化させたの」
馨お姉様の説明を聞いて、自分が別の何かへと変わらざるを得なかったことを知る。
(さっきの喉の渇きは…だから…)
「じゃあ、私は半分ヴァンプで…半分、人間なんですか?」
「ええ。でも、ヴァンプの血の方が濃いから、私達ほどではないにしても、その影響を強く受けることになるわ」
馨お姉様は深刻そうな顔でそう言うと、雅お姉様や雪乃お姉様、倫子お姉様までが神妙な顔で頷いた。
「私が…ハーフ、ヴァンプ」
告げられたばかりの現実に戸惑いながら、私はそれを自分の中で何とか呑み込もうとした。あの状況では、死んでいてもおかしくなかった。それが、今、こうして生きていて、普通に話をすることもできる。それは、人間ではなく、ハーフヴァンプとしての生を新しく受けたからこそ、できることだ。
そこで、ふと、一番大事なことを聞きそびれていたと、私は身を乗り出すようにして、そこにいる全員へこの場にいない、彼女の行方を問いかけた。
「っ真理亜ちゃんは…真理亜ちゃんはどうなったんですか?な、中原さんは?」
倫子お姉様が両手の平を私の前にかざす動作を取りながら、口を開いた。
「はいはい、落ち着いて。真理亜はすこぶる元気よ。なんたって、二人の人間からたっぷり生き血を頂いたんだもの。で、今は外にいるわ。有栖ちゃんに合わす顔がないって、死にそうな顔してる」
続けて雪乃お姉様が、中原さんの状態を口にする。
「かわいそうに、運悪くあの場に居合わせて、真理亜のターゲットとなってしまった中原夕子さんは生きているわ。ただ、相当の量の血を吸われたみたいだから、今は病院に入院中よ。命に別状はないそうですって」
「中原さん、生きてたんだ。良かったっ…」
心からの安堵がため息となって口から漏れた。
馨お姉様が私の左手の甲を優しく撫でる。
「…そういえば、私、どれくらい眠っていたんですか?」
「ぴったり、一時間よ」
馨お姉様が答える。
「それで。有栖さんが会いたくないのなら、このまま一生、真理亜に会わなくてもいいようにできるけれど…有栖さんはどうする?」
雅お姉様が私を気遣うように、問い掛けた。
それを聞いた馨お姉様が即座に、厳しい口調で反応を返した。
「私は会わないことをお勧めするわ」
馨お姉様の、真理亜ちゃんに対する頑ななこれまでの態度も、全て、私の為を思って言ってくれていたことなのだと今なら分かる。
「…馨お姉様。私、真理亜ちゃんに言わなきゃいけないことがたくさんあるんです。私、いっぱい、真理亜ちゃんを傷つけたから。…だから、きちんと、会って謝りたいんです」
「謝るのは真理亜の方なのよ」
馨お姉様が眉根を寄せる。
「でも私も真理亜ちゃんに酷いこと、しちゃったから…」
「…有栖ちゃん」
馨お姉様のその声の響きに、馨お姉様が渋々ながら私の願いを聞き届けてくれることを感じ取った。
「真理亜ちゃんが許してくれるなら、もう一度、やり直したいんです」
あのとき。もう二度と、真理亜ちゃんとの関係を修復することはできないのだと、覚悟した。言いようのない後悔が私の胸に押し寄せても、それを伝える術がないことに、どれだけ落胆し、悔やんだか。あのような思いはもう二度と味わいたくない。
(だから真理亜ちゃんに、正直に話そう。私の中に芽生えたこの想いを)




