1.一カ月遅れの転校生
「は、初めまして。えーと、ごきげんよう。星野有栖です。両親が仕事の都合で海外に行くことになり、急遽、この学院に転校してきました。一人暮らしは初めてで、分からないことだらけなので、色々と教えて貰えたら嬉しいです。よろしくお願いします」
私は一年桜組の教壇に立ち、期待に満ちた目を私に向ける同級生達の視線に耐えながら、自己紹介をしていた。
(ごきげんようってすごくお嬢様っぽい挨拶。ていうか、そういう子しか使わない言葉だよね)
ここでは、挨拶として“こんにちは”の代わりに“ごきげんよう”を使うのだと、担任であるシスター早坂が会って早々教えてくれた。
*
『ここではね、挨拶は基本、ごきげんようの一言。これで朝も昼も夜もすべてカバーできるわ。ほら、午前の挨拶って“おはようございます”と“こんにちは”があるけれど、どちらを使えば良いか微妙な時間帯もあるでしょう?その点、“ごきげんよう”はこれ一つだから、悩まなくても良いし、上級生へのちょっとした挨拶にもなるから、使い勝手が良いの。ね?便利でしょう?』
「はあ、まあ、確かに……」
*
実際に使うのはやっぱり少し抵抗があったけど、使ってみると意外に悪くない気もする。
(こういうのって、形から入るのが大事なのかも)
同級生にも上級生にも同じように使えるという点は便利だと思う。
そんなことを考えていると、シスター早坂がそっと私の肩に手を置いた。
「皆さん。仲良くしてあげてね。席は……そうねえ。君瀬真理亜さんの隣がちょうど空いていたわね。じゃあ、有栖さんはあそこの一番後ろの窓側の席に座って」
「はい」
シスター早坂に言われた通り、教壇を降りて、窓際の一番後ろの空いている席へと向かう。その間も皆の視線がちくちくと刺さって、気恥ずかしい。
指定された席へつくと、隣の席の“君瀬さん”と呼ばれた女性が私をゆっくりと見上げた。
(わあ……す、すごく綺麗な子)
黒髪ロングヘアーのお人形みたいに整った顔立ち。こちらを見つめる眼差しはどこか冷たく、他者を寄せ付けないようなクールな印象を感じさせる。制服の上からでもわかる細身で色白で、こういう子を儚げって言うのだろうなと思いながら、彼女の顔を思わずまじまじと見つめる。
(それにしても……さっき会った人といい、この子といい、女優さんみたいに綺麗だなあ。そういう子が多い学校なのかな)
私の視線に、君瀬さんはいささかむっとしたような声音で第一声を上げた。
「何か?」
「あ、ううん!ごめん。つい、すごく綺麗な子だなって見惚れちゃって」
さすがに見すぎたようで、君瀬さんの睨むような視線を受けて、慌てて謝罪の言葉を述べる。すると、君瀬さんはさっと目を逸らし、容姿から受ける印象通りのそっけない態度で言った。
「……君瀬真理亜よ。次は国語だから」
刺々しい口調に少々面食らいながら、隣の席に座ると、君瀬さんは取り出した国語の教科書を二人の机のちょうど真ん中に置いた。私がよく見えるようにとの彼女の配慮に、君瀬さんが印象通りの冷たい人ではないのだと分かって、ほっとする。
「教科書、見せてくれて有難う」
お礼を言うと、すぐにそっぽを向いてしまった君瀬さんは「転校生なんだから当たり前でしょ」と冷たく言い放ち、その後、数ミリ私の方へと教科書を押した。
「それじゃあ、そろそろ授業を始めましょうか。昨日の続きからいきましょう。さあ、教科書を開いて」
シスター早坂の合図で、それまでのひそひそ声がぴたりと止んだ。彼女は国語の教員だそうで、にこにこと慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら生徒達を見渡すと、おっとりとした口調で授業の開始を告げた。
初日の授業は全て、君瀬さんが教科書を見せてくれたおかげでこれといって不便さを感じずに授業に参加することができた。休み時間も、他のクラスメイト達が入れ代わり立ち代わり優しく声を掛けてくれて、クラスで浮いてしまうかもという心配は転入早々、綺麗に消し飛んでしまった。
(皆、いい人そうで良かったあ)
全寮制の女学院というだけあって、どの子もおっとりと穏やかな雰囲気ののんびりとした女の子らしい子ばかりが揃っている。
(やっぱり、前の学校の子達とはなんか違うかも……)
やはり、ここはそういう学校なのだなあと改めて認識する。
午後の最後にきていた数学の授業も無事終わり、帰り支度をする生徒と委員会や部活動があるという生徒で教室はとても賑やかだ。
(賑やかと言っても、前の学校はこの倍うるさかったけどね)
隣の席の君瀬さんも、周りの皆と同じように鞄に教科書を詰めている。彼女もまた、そのまま寄宿舎に帰るのだろうか。
休み時間のときも、彼女は誰とも話そうとせず、黙々と読書をしていた。私に話し掛けにきてくれる子達も、時折、君瀬さんの方をちらちらと見ていて、その視線からは嫌われているという要素は微塵も感じられなかった。
(さしずめ、クラスのアイドル的な存在といったところかな)
これほど綺麗な子なのだから、そういう存在としてクラスの皆から一目置かれていたとしても不思議ではない。確かに話し掛け辛いオーラは横にいても肌で感じられるくらいだが、彼女の方は特別、こうした雰囲気を気にしていないように見える。
(君瀬さんとも仲良くなれたらいいな。これからしばらくは隣の席で顔を合わせるわけだし)
そう思って、帰り支度をすすめる君瀬さんに勇気を出して、声をかけてみた。
「あの、君瀬さん。今日は有難う。教科書、見せてくれて」
君瀬さんは、一瞬、驚いたような顔をしてこちらを見ると、不愛想な返事を返した。
「……別に」
そうしてまた顔を戻し、帰り支度を始めてしまった。私はめげずに言葉を紡ぐ。
「えっと、おかげで、初日から心細い思いをしなくて済んだよ。本当に有難う。教科書は明日から貰えるって」
「……そう」
もう一度、君瀬さんはちらりと私の方へ視線を飛ばした。会話が終わってしまわないように、頭に浮かんだことをそのまま口に出していく。
「こ、この学校っていい学校だね。皆、ほんわかしている子ばかりだし、君瀬さんも優しいから、心配して損しちゃった」
すると、君瀬さんがぴたりと動きを止めた。
「……優しい。私が」
そして、私が言った言葉を不思議そうに繰り返した。
「う、うん。最初はちょっとびっくりしたけど、君瀬さん、すごく優しいから、隣の席になれて良かったなって」
君瀬さんは先程よりも難しい顔をして、私をじっと見つめた。
(あれ、何か変なこと言ったかな)
真っすぐ向けられた君瀬さんの視線に困惑していると、君瀬さんはふっと表情をやわらげた。
「……真理亜でいいわ」
「え?」
聞き間違いかと驚いていると、君瀬さんはぶっきらぼうな口調で口早に言った。
「さん付けじゃなくていいって言ったの。名前で呼んでくれて構わないわ」
「え?いいの?」
「……そう言っているじゃない」
心なしか君瀬さんの頬がほんのり赤くなっているように見える。
「でも、呼び捨ては何だから……良かったら、真理亜ちゃんって呼んでも良い?」
「……!」
そう尋ねると真理亜ちゃんはぱっと顔を背けた。
(あれれ、ちょっと馴れ馴れしかったかな?でも、呼び捨ての方がもっとハードル高いと思うし……)
「えーと、真理亜ちゃん?」
真理亜ちゃんは顔を背けたまま、私の方を見ずに首を縦に振った。どうやら、OKということらしい。
(君瀬さん……じゃなかった、真理亜ちゃんってもしかしてものすごい照れ屋さんだったりして)
そんなことを思って、顔を緩ませながら、そっぽを向いたままの真理亜ちゃんへ尋ねる。
「良かった。ねえ、真理亜ちゃんはもう帰るの?」
「……ううん。私、風紀委員なの」
そう言いながら落ち着いたらしい真理亜ちゃんが私の方をそろそろと向いた。先程よりも頬が赤い。やっぱり、思った通りだ。にやけてしまうのを我慢しながら、平静を装って、会話を続ける。
「へえ。風紀委員。そっか。そうなんだ」
「……星野さんは?」
真理亜ちゃんが初めて、私の名前を呼んでくれた。そんな小さなことに何故だかとてつもなく感動しながら、彼女の問いに答える。
「あ、私はそのまま帰ろうかと。実はまだ、寄宿舎がどこにあるのか分からないんだけど、あ、でも、シスターに案内して貰うから大丈夫!」
これだけ敷地が広いと一人で地図なしで寄宿舎まで辿りつくのは難しいだろうから、シスターに案内して貰おうと教卓の前に立つ彼女を見る。
すると、真理亜ちゃんが考え込むような顔をしてから、ぼそりと呟いた。
「…………やっぱり、今日は風紀委員の集まりはなかったわ」
「え?でも、今」
「勘違いしていたみたい。今日は私も星野さんと一緒に帰ることにするわ」
「い、いいの?本当に?」
すっかり元通りのクールな彼女に戻った真理亜ちゃんは何ともないような顔をして頷いた。
「ええ。私に案内させて」
「わあ、すごく助かる!有難う!真理亜ちゃん」
真理亜ちゃんに案内して貰えるなら、すごく嬉しい。願ってもないことに喜んでいると、真理亜ちゃんはまた黙々と帰り支度をし始めた。私は喜び醒めぬまま、自分も帰り支度をするべくカバンへ手を伸ばした。
帰りのHRが終わり、真理亜ちゃんと共に教室を出ようとしたところ、突然、シスター早坂に呼び止められた。
「星野さん。待って。少し良いかしら」
私と真理亜ちゃんは足を止めると、揃って顔を見合わせた。何事だろうか、と考えながらとりあえずシスター早坂へ返事をする。
「あ、はい!ごめん、真理亜ちゃん。そういうわけだから、ちょっと待ってて貰える?」
「ええ。外にいるわ」
真理亜ちゃんは廊下を指してから、すたすたと教室を出て行った。
私は手招きをするシスターの下へと速足で駆け寄った。
シスターは教卓でプリントをまとめていたが、その手を止めると、顔を上げた。
「どう?一日目は?」
「えっと……何とか、やっていけそうです」
シスターの問いに苦笑交じりに頷いてみせる。今まで自分が過ごしてきた環境とは百八十度違うと言っても良いが、馴染めないというほどでもない。
(案外、私にもお嬢様の素質があったりして……)
シスターはにこやかな笑顔のまま、口を開いた。
「そう。なら良かったわ。といってもまだ一日目だから、油断するのはまだ早いわよ~……なんてね。どう?この学院の制服は。中々、可愛いものでしょう?」
そう言いながら。シスターが手を伸ばして、私の制服の白いリボンを軽く整える。
「あ、はい。ワンピースだから着替えるのも楽ちんで」
「うふふ。星野さんて、長い髪もきちんとお手入れされていて、礼儀正しいし、ここの子たちに負けず劣らずお淑やかな女の子に見えるのに、性格の方はちょっと変わっているのね」
「あ、あはは。そうでしょうか……」
「褒め言葉よ。個性があって素晴らしいわ。それに、その制服もよく似合っているわね」
実を言うと、暗い緑色のワンピースの胸元に白いリボンがついた形の制服は、この学院へ転校する決め手にもなった。
「……えへへ。有難うございます」
思わぬ賛辞を受けて、素直に照れていると、シスター早坂が「そうそう」と思い出したように言った。
「寄宿舎の場所だけれど、校舎の中庭から出た先の森を抜けたところにあるの。これから一緒に行きましょうか」
「あ、それなら、真理亜ちゃ……君瀬さんが案内してくれると言ってくれて、今、廊下で待っていてくれているんです」
私が廊下をちらりと見遣ると、シスター早坂が驚いたような声を出した。
「まあ、君瀬さんが?もう仲良くなったのね。君瀬さんに気に入られるなんて……星野さんも、中々やるわねえ。ああ、変な意味じゃないのよ。ただ、あの子って少し気難しいところがあるから。でも、根はとっても良い子なのよ。仲良くしてあげてね。とにかく、そういうことなら二人も案内はいらないわね。荷物はもう届いているから、足りないものがないかだけ確認してね」
「はい」
私が頷くと、シスター早坂も同じように頷いた。
「あと、そうだ。言い忘れていたけれど、ここの子達は大体の子が二人部屋なの。星野さんの同室の子は確か、君瀬さんだったと思うから、彼女に案内して貰えるならそれが一番でしょうね」
「ええーっ!真理亜ちゃんと!?」
二人部屋なのは知っていたけれど、相手が真理亜ちゃんだなんて知らなかった。これは嬉しい驚きだ。ここの子達となら誰と一緒でも優しくしてくれそうだけど、真理亜ちゃんなら特別嬉しい。
「ふふ。困ったことが起きたら、遠慮なく私に言うのよ」
シスター早坂はぱちり、と片目を閉じてウィンクをした。
「はい、シスター早坂。それじゃ……さようなら」
「ここでの挨拶はごきげんよう、でしょう?」
「ご、ごきげんよう」
ぎこちなく言われた通りにシスター早坂に挨拶をすると、シスター早坂は「よくできました」と浮かべていた微笑みを一層濃くした。その場で会釈をし、私は真理亜ちゃんが待っている廊下へと急いだ。
(……この挨拶にも慣れなくっちゃ)
廊下では真理亜ちゃんがぼうっと窓の外の景色を眺めていたが、声を掛けるとすぐにその澄んだ眼差しを私の方へと向けた。
「ごめんね、お待たせ」
「……ええ」
二人並んで歩き出してからすぐに、通りがかる他のクラスの女生徒達が私達を見ては何やら小声でひそひそと囁く様子が目に入った。よく耳を澄ませていると、「マリア様」とか「どうして」とかいう単語が聞こえてくる。
(マリア様……?)
「どうかしたのかな……?」
思わず真理亜ちゃんの方を見遣ると、真理亜ちゃんは別に何ともないような顔をしていた。
「何でもないわ。転入生が珍しいのよ」
「そうなのかなあ」
真理亜ちゃんはそう言うけれど、向けられる視線は主に真理亜ちゃんの方をうっとりと見つめているような気がする。
「ほら、行きましょう」
何となく腑に落ちないでいると、真理亜ちゃんは私の左手をさりげなく取った。そして、手を繋ぐように真理亜ちゃんの柔らかな右手が私の左手をやんわりと包み込んだ。
(ん?)
「きゃああああああ」
「真理亜様が!!」
「どうして?!」
「嘘よ!!!」
その瞬間、弾けるような女生徒達の叫びが一斉に廊下に響き渡った。
「な!?」
(マリア様って、マリア様じゃなくて、真理亜様っていうか、真理亜ちゃんのこと!?)
これには私も驚いて、思わず、真理亜ちゃんの方を見る。
「い、一体、どういうこと?」
「さあ。何かしらね。……それより、星野さん。一つ、お願いがあるのだけれど……星野さんのこと、有栖って呼んでも良いかしら?」
この事態に、真理亜ちゃんは何も聞こえていないかのようにごく当たり前な調子で答えたかと思えば、今度は妙に照れた様子で話を変えた。
「え?あ、う、うんっ、勿論」
「良かった!じゃあ、これからは有栖って呼ぶわね。……ね、有栖」
真理亜ちゃんは私の回答に、初めて見る満面の笑みを浮かべた。その微笑みは驚くほど美しく、また、可愛らしいもので、私はこの騒ぎを一瞬だけ忘れて見惚れてしまった。
真理亜ちゃんは私の手をしっかりと握ったまま、黄色い悲鳴にぴくりとも表情を変えることなく校内を歩き続けた。その間も、通り過ぎる人達が私と真理亜ちゃんを見て、次々に悲鳴か驚愕の表情を浮かべていったが私には何が何だか分からないままだった。
(真理亜ちゃんって、もしかして、クラスのアイドルどころか、この学院のアイドルとか、はたまた有名人か何かだったりして……?)
校舎を出て、中庭を抜け、寄宿舎へと続く森の小道を歩いていても、その悲鳴は途切れることなく続いた。