18.二度目の吸血
息苦しい。
もう、どのくらいこうしているのだろう。
馨お姉様は私の唇を貪るようにちゅくちゅくと淫らな音を立てながら吸い付き、隠れていたはずの舌を見つけると容赦なく自身のそれと絡み合わせた。逃げたくても、両手をしっかりと抑えつけられていて身動きが取れない。
「ん…っ」
唇が離れる一瞬の隙をついて何とか酸素を吸いこもうとする。
「ちゅ…」
だがすぐに馨お姉様の唇が私の唇をふさいでしまう。酸欠で頭がぼうっとしてきた。くらくらして、まともに物を考えることができない。馨お姉様から与えられる快楽に身体だけでなく心までもが麻痺してくる。あと、どれくらい続くのだろう。
「んんっ…」
馨お姉様の舌は私の舌へと激しく絡まり、唇の端から滴り落ちる唾液も気にせず私の唇を貪っている。されるがままにじわじわとつま先から忍び寄る快感が私の心を震わす。
(こんなに苦しいのに……どうして…?)
馨お姉様と激しい口づけを交わしながら、ふと、お姉様の唇が私の唇に重なっているこの瞬間がどうしようもなく切なくて、恋しいと思った。こんな気持ちがあるなんて、こんな風に馨お姉様を想うことになるなんて。
(私……)
馨お姉様と過ごす時間が少しでも長く続けばいいのにと願う自分がいる。馨お姉様の唇が僅かに離れる一瞬がたまらなく苦しい。
「ん、ふ…ぁ」
「…有栖ちゃん……ちゅっ」
馨お姉様がわざとリップ音を立てて私の唇から離れた。まだ夢の中にいる私はぼんやりと馨お姉様を見上げる。馨お姉様はにっこりと微笑んでいた。瞳を赤く染め、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべて私を見つめていた。
「……ぁ」
馨お姉様が私の首筋へと顔を埋めた。ぼんやりした意識の中、くすぐったさに身をよじろうとすると、突然、首筋にちくりと針より太い何かで刺されるような痛みが走った。
「っ!」
痛みはすぐに消え去り、次に身体が浮くような独特の浮遊感が私を包んだ。馨お姉様は夢中で私の血をこくり、こくりと嚥下している。私の身体が燃えるように熱くなり、手足がじんじんと痺れていく。あのときと同じだ。あのときも、何か大きな波が来る前に私の身体はどんどん熱く、痺れていった。あの波が、また、私へ押し寄せようとしている。
「あ…ぁ…」
(だめ……だめ……)
馨お姉様を押し退けようとしても腕に力が入らない。私の身体はぐったりとベッドに横たわっている。何かが、くる。それは今の非力な私では防ぎようがないほど大きな波だった。
「だ、だめ…馨…お姉様…っ」
最後の力を振り絞って、声を挙げると、馨お姉様が私の首筋から顔を上げた。
真っ赤に濡れた唇を私の耳朶にかすらせて、ねっとりとした声で囁く。
「有栖ちゃんの全てを、快楽に委ねてしまいなさい」
「…え?……あ、ああっ!!」
馨お姉様が私の首筋に強く噛み付いた。一瞬の痛みの後に凄まじい快感が私を襲う。馨お姉様が私の血を啜る音が響く。
「……っ!!」
私が唇を噛み締めるのと同時に、大きな波が私に覆い被さり、私の意識を白い彼方へと押し流した。目の前が真っ白になり、がくがくと身体が痙攣しているのが分かる。でも、自分ではコントロールできない。ただ、快楽の余韻が私の身体をすっぽりと覆っていて、何をする気にもなれない。今はこの甘い痺れをいつまでも味わっていたかった。
*
「有栖ちゃん」
いつの間にか、私の頬を一筋の涙がつたっていた。
馨お姉様が私を見る瞳はもう赤い色をしていなかった。いつもの馨お姉様の端正な顔が今は心配そうに歪んでいる。その瞳にはこれまで見たことのない馨お姉様の切なそうな感情が溢れていた。何か声をかけてあげたいのに、今は呼吸を落ち着けるのに精一杯で、ろくに首を振ることもできない。
「私ったら…有栖ちゃんの血にあてられたみたい」
馨お姉様は私の頬を濡らす涙を優しく手で拭うと、ベッドから降りた。
「……どうか、していたわ」
かすれたような声で呟くと、私を振り返って気まずそうな微笑みを浮かべた。
「…手、お大事にね」
起き上がることのできない私にそう言い残すと、馨お姉様は無言のまま扉の方へと歩き出した。馨お姉様が行ってしまうのだと思ったら急に馨お姉様の後を追いかけて、その柔らかな背に抱き着き、思い切り顔を埋めたいと思った。
(馨お姉様……行かないで…)
私の願いも空しく、馨お姉様は挨拶もなしに閉まりゆく扉の向こうへ消えて行った。一瞬だけ、垣間見えた馨お姉様の横顔はどこか困惑しているような複雑な表情を浮かべていた。
*
それから二時間後、真理亜ちゃんが膨れっ面でようやく寮に帰ってきた。
「やっと帰れたわ!もう、くたくたっ!」
帰ってくるなり、真理亜ちゃんは共有スペースのソファへごろりと寝転ぶと不満を爆発させて言った。私は扉を開けてすぐのところに放り出した真理亜ちゃんの鞄を持つと、それを彼女のスペースへそっと移動させた。
「気が利くのね、有難う」
「どういたしまして。何か飲む?」
私はいつもよりも明るく振舞って言った。真理亜ちゃんのいない間、何もおかしなことはなかったと、真理亜ちゃんがいなくて退屈だったと、そう思って貰えるように。
「ええ、紅茶をお願い」
真理亜ちゃんは嬉しそうに私の問いかけに頷いた。
私はいそいそとお茶の準備をし終えて、湯気の立ち昇る二つのマグカップを手に真理亜ちゃんのところへ戻る。一つを真理亜ちゃんに渡し、敷かれたラグマットの上に座って真理亜ちゃんを見上げると真理亜ちゃんはせきを切ったように愚痴をこぼし始めた。
「有難う。…でね、シスター早坂が呼びつけるから、一体何事かと思ったら、私に書類の整理をして欲しかったんですって。もっと手の空いている人に頼めばいいのに、シスターったら同じヴァンプじゃないと嫌だって、しかもあの時間に空いているのは私くらいしかいないって言うものだから、もう仕方なく頼まれてあげたのよ」
「え、同じって?今、何て言った?」
私はマグカップを両手で包み込みながら、真理亜ちゃんの言葉にぱっと顔を上げた。
「ん。だから、同じヴァンプじゃないと嫌なんですって」
真理亜ちゃんはマグカップから口を離すと、さも何でもないことのように言った。
「ええええ?」
「あら。言ってなかったかしら」
けろりとした顔で言うものだから、私はちぎれそうになるくらい首を振った。
「まあ人間ほど多くはないし、ここの生徒ではクインテットしかいないけれど…外にでたらちらほらいると思うわよ」
「え?そうなの?」
「ええ。どこにでもいるわ」
真理亜ちゃんが大きく頷く。
「そ、そうなんだ。知らなかった…。じゃあさ、男の人もいるの?」
不意に湧き上がった疑問を素直に口に出してみる。
「まさか。男はヴァンプにはなれないわ」
真理亜ちゃんはくくく、と笑いながら首を振った。
「あ、そうなんだ。じゃあ…そのー、真理亜ちゃんのパパって…」
「ああ、そういうこと。生物学上の父親ならいるわよ。でも会ったことはないわね。私達は…まあ適齢期というかこれも好みの問題だけれど、子供が欲しくなるとしかるべき場所に行って種を貰うの。種を貰ったらそれでおしまい。あとは人間と同じように妊娠して、子供を産んで、育てる」
「へえ…。もし、男の子が生まれたらどうするの?」
「ふふ。面白いことを聞くのね。私達が男を産むことはないわ。宿すのは百パーセント女の子だけよ。宿った子もまたヴァンプとなり、そうして延々と続いていくものなの」
「な、なるほど…勉強になりました」
「また一歩ヴァンプに近付いたわね」
真理亜ちゃんがにやりと笑った。
「ええっ?」
「ふふ。冗談よ。私は馨お姉様みたいに有栖をニエにしようなんて企んでないわ」
そう言うと真理亜ちゃんはマグカップを口元に持っていき一口、紅茶を飲んだ。
「でも、血を飲まないと…駄目なんでしょ?」
「それはそうだけれど、有栖が嫌なら無理にとは言わないわ。それに今までだってニエがいなくてもやってこれていたもの」
真理亜ちゃんは自信満々に胸を張る。
「そっか」
「ええ」
私がマグカップに口をつけると、真理亜ちゃんが身を乗り出して言った。
「ところで、私がいない間、何をしていたの?」
「えっ?う、ごほごほっ」
完全に油断しきっていた私は激しく咳き込んだ。
「もう…有栖ったら。大丈夫?」
真理亜ちゃんがやれやれといった様子でソファから立ち上がり、持っていたマグカップを机に置いて私の後ろに回り込むと、優しく背中をさすってくれた。
「うう、ありがと…」
「落ち着いた?」
ぽん、ぽん、とあやすように真理亜ちゃんは私の背中を軽く叩いた。
「うん。もう大丈夫」
「あら?首筋のここ、虫にでも刺されたの?赤く…なって………っ!!」
真理亜ちゃんの伸ばした指先が私の首筋のある部分をかすめると、真理亜ちゃんは驚いたように固まった。
私ははっとして首筋を押さえ、真理亜ちゃんから離れるように身を引いた。
真理亜ちゃんが触れたのは、馨お姉様から吸血されてまだ数時間と経っていないはずの痕だった。
私は視線を彷徨わせ、俯いた。
「……有栖」
真理亜ちゃんはぼそりと呟くように言った。
「…有栖。正直に話して」
怒りなのか、動揺なのか、微かに声を震わせて真理亜ちゃんは私に言った。
私は何と答えていいか分からず、唇を噛んだ。
「…私のいない間、何があったの?」
私が黙ったままでいると、真理亜ちゃんは声を荒げた。
「有栖っ!貴女の身に何が起きたのか、どうしてこんな痕がついているのか、説明してくれないと分からないわ!」
「…っ」
私は真理亜ちゃんの勢いに怯んで、口を開いた。
「…馨お姉様が…」
「でしょうね。こんなことをするのはあの方しかいないわ」
遠慮がちに呟いた馨お姉様の名前を聞いた途端、真理亜ちゃんは顔を歪めて嘲笑した。
「あろうことか私のいない間に有栖に無理やり吸血をするなんて…許せないわ」
真理亜ちゃんは両手をぐっと握り締めると、怖い顔で奥歯を噛み締めた。
「…っ違うの!」
「何が違うというの?」
思わず否定の言葉を口にしてしまった私に真理亜ちゃんが厳しい口調で迫る。
「…馨お姉様は確かに、ちょっと強引だったけど…私のことを心配して来てくれたの」
「心配して吸血したってこと?」
真理亜ちゃんが分からない、というように眉間の皺を深くする。
「ううん。そうじゃなくて、寮に帰ってきてから、私の不注意なんだけど、指を切っちゃったんだ。びっくりして、どうしようって思ってたら…そしたら急に扉がノックされて、開けたら馨お姉様がすごく慌てた様子でそこにいて」
「…有栖」
「ち、血を見て興奮しちゃったんだって。ほら、ヴァンプなら仕方がないことなんだよね。おかげで指も治っちゃったし…結果的に大事にはならなかったから」
「大事にならなかった?」
「あ、いや、その、血を吸われ過ぎるっていうのはなかったし…」
「……じゃあ、有栖は馨お姉様の吸血を許すって言うの?」
「え?」
「あの方から無理やり吸血されて…有栖は嫌じゃないの?」
「それは…」
私はさっと真理亜ちゃんの問いに目を逸らした。
「…今の貴女が答えられないということは肯定の意味になるわ。…私が有栖を裏切ることがないように、有栖も私と同じだと…信じていたのに。有栖は私を裏切るのね」
「真理亜ちゃん、裏切るってそんな…!」
「有栖が馨お姉様の吸血を受け入れると言うなら、それは私への裏切りだわ」
「う、受け入れたわけじゃ…」
「それなら態度で示して見せて。有栖が、本当に私のことを裏切ってなんかいないって言うなら、私の吸血も受け入れられるはずよね?」
そう言うと、真理亜ちゃんは立ち上がり、その場にへたり込んだ私の元へ膝をつくと、燃えるように真っ赤な瞳を私に向けた。




