17.お姉様の嫉妬
壁に掛けられた時計の針がちくたくちくたくと忙しなく動いている。寮に戻り、部屋着に着替えた後も、私の心は曇ったままだ。
「…はあ」
真理亜ちゃんはまだ帰ってこない。思えば転入してきてから今まで、なんだかんだ言って真理亜ちゃんが側にいてくれたおかげで、寂しいなんてことを思う暇もなかった。
「…初日が懐かしいな」
こうして一人でいると、転校初日に抱いていたホームシックや新しい学校でやっていけるかどうか心配していた頃の寂しさがふと蘇る。
あれからもう一ヵ月近く経つのだ。月日が経つのは早いなあ、なんて思ってしまう。
この一ヵ月で、私は知らなくていい世界を知り、どういうことかその世界に片足を突っ込んでしまっている。引き返そうにも、前と後ろをクインテットのお姉様方に挟まれていて逃げられないし、私の隣にはぴったりと真理亜ちゃんが寄り添っていて簡単には離してくれそうにない。
(これで逃げたりなんかしたら、どうなることか…)
想像したら鳥肌が立った。
(…でも、ああやってはっきり言われちゃうと、やっぱりこたえるなぁ)
今更、逃げる気も起きないが、私がクインテットから遠ざかることを望んでいる人が近くにいるという現実は私にとって楽しいものじゃない。理解していたとはいえ、面と向かって言われるのは辛いものがある。
「真理亜ちゃん、まだかな…」
ごろごろとベッドの上で寝返りをうちながら、ちらと時計を見る。時計の針は先程から、ちっとも進んでいない。数秒前に時間が経つのは早いなんて言っていた頭で、こういう時の時間の遅さについ文句を言いたくなる。
一人でいる時間は大切だと思うけれど、私の場合、考えなくてもいい余計なことをあれこれ考えてしまって逆効果になるのだということを今、知った。
「あーだめだめっ。私が今一番考えなきゃいけないこと…考えなきゃいけないこと…、そうだ。パートナーって確か、今週までだったよね」
仰向けになり、真っ白な天井を見上げる。
「今週中に提出しないと、自動的に馨お姉様とパートナーになるんだっけ。…普通に考えたら、真理亜ちゃん一択なんだけど」
馨お姉様の女性関係に関するよくない噂は、ここのところ四方八方から聞き過ぎてすっかり耳に馴染んでいる。そんな馨お姉様をパートナーにしてしまったら、私の平凡で慎ましい未来は益々遠ざかってしまうような気がする。いや、どちらにしろ二人がパートナー候補となっている時点で平凡で慎ましい未来は得られないのだが、この際、それについては深く考えないようにする。
「…どうしたらいいのかなあ」
何かと派手な馨お姉様より素直に真理亜ちゃんをパートナーに選べばいいと思う。真理亜ちゃんは確かにちょっと冷たいところもあるけれど、それは多分真理亜ちゃんの照れ隠しというか不器用さってやつで、本当はすごく友達想いの優しい子なのだ。それは数週間、ルームメイトとして暮らしてみてよく分かった。
(……よし)
私はのそのそとベッドから立ち上がると、自分の机の椅子に座り、引き出しを開けて一枚の薄っぺらな紙を取り出した。数日前にシスター早坂から受け取ったものだ。この紙に名前を書いて、今週の金曜日までに提出すればいいらしい。今日は火曜日。金曜日まではもうあと三日しかない。私は筆箱からシャーペンを一本取って、自分の名前を書いた。そして、その下の空欄に、悩んだ末、真理亜ちゃんの名前を書いた。
「……これでいいんだよね」
シャーペンを置いて、たった今記入したばかりの紙を見つめる。これを提出してしまえば、私のパートナーは真理亜ちゃんに決まる。
「……」
しかし、いざ真理亜ちゃんに決めた途端に馨お姉様の悲しげな顔が頭に浮かんだ。
(馨お姉様…)
私が知っている馨お姉様はとても優しい人だ。少し強引なところもあるけれど、決して憎めない人。それに加えてどうしてか、馨お姉様のことを考えるときだけ、私の胸の奥がきゅっと切なくなる。この感じは一体何なのだろう。目を閉じると、あの夜、馨お姉様とした出来事がその感触と共に鮮やかに蘇る。この胸の切なさはあの夜から少しずつ増しているような気がする。
人差し指をそっと唇に当てたところで、部屋の扉がこんこんこん、と三回ノックされた。
「!」
(真理亜ちゃんが帰ってきたのかな?)
急いで椅子から立ち上がると、扉へ向かう。
「はーい」
返事を待たずに扉を開けると、私は目の前に立っている人物の姿に目を見開いた。
「…な、中原さん?」
扉をノックしたのは、先程、たっぷりと敵意を浴びせかけられた中原さんその人だった。中原さんはつんと顎をそびやかし、一通の白い封筒を私に突き付けると言った。
「これ。二年生のお姉様から預かって来たわ」
「え?」
「だから、手紙よ手紙。渡すように頼まれたの」
「ああ、うん、有難う」
真理亜ちゃんへの手紙か、と納得して中原さんから手紙を受け取った。今までも真理亜ちゃんに渡して欲しいと頼まれることは何度もあったし、中原さんもそうした真理亜ちゃんのファンの人に頼まれて、仕方なく引き受けたのだろう。
「じゃあ後で真理亜ちゃんに渡しておくね」
私の言葉を聞いた中原さんはいかにも不機嫌そうな顔をして、眉間に深い皺を作ると忌々しげに言った。
「いいえ。それはあなたに、だそうよ。良かったわね。クインテットの一員となって初めてのファンレターじゃない」
「え?私に?」
手にした封筒をひっくり返してみるが、差出人は書かれていない。だが、よく見ると宛名には星野さんへと書かれていた。
「…本当だ」
「額縁にでも入れて飾っておくのね。まあ一ヵ月も経ってたった一通しかファンレターを貰えないなんて、私なら恥ずかしくて学校になんか来れないけれど」
中原さんは嫌味たっぷりに小馬鹿にした様子で一笑した。
「えーと」
「それじゃ、確かに渡したわよ」
中原さんはそう言うや否や、さっさと行ってしまった。私は手紙を片手に扉を閉めると改めて手にした封筒をまじまじと見つめた。
「…本当の本当にファンレター?まさかね」
そもそも私のような人間にファンレターが来るとは思えない。だが、誰からかも分からない手紙を貰ってしまったことは事実なので、ひとまず開封してみようとハサミを探した。
「ハサミ、ハサミっと」
机の引き出しにしまっておいたハサミを出すと、慎重に封を切っていき、使い終えたハサミを一旦机の上に置いた。
開いた封筒の中から入っているはずの便箋を取り出そうと指を入れた瞬間、指先に強烈な痛みが走った。
「いっ…!?」
すぐさま封筒から指を引き抜き、反射的に口に当てると鉄っぽい味がじわじわと口の中に広がった。見れば中指と人差し指の腹に一直線に赤い血がじわりと滲んでいる。
「な、何なの?」
じんじんする指をそのままにして慎重に封筒の中を覗くと、そこには何枚ものカッターの刃がきらきらと重なっているのが見えた。
「嘘、これって」
ファンレターなんかじゃない。百発百中嫌がらせの手紙だ。中原さんは手紙の中身が何か知っていたのだろうか。いや、そんな風には見えなかったがそれより、今はこの血を何とかしなくては。中指と人差し指からじわじわと滲んでいく血を前にして狼狽える。
「ば、絆創膏はどこだっけ」
救急箱を探そうと部屋の中をうろうろしていると、再び来訪者を告げるノックの音がきっかり三回響いた。
「真理亜ちゃん?ちょっと待って、今開けるからっ」
とりあえずバンソコー探しは中断して、血が垂れないよう右手の手のひらを上にしたまま左手で扉を開けた。てっきり、真理亜ちゃんが帰ってきたのかと思いきや、扉の前に立っていたのは、息を荒くした馨お姉様だった。私の顔を見つめる馨お姉様の瞳は不安そうに揺れていた。
「っ…有栖ちゃん、大丈夫?」
馨お姉様は心配そうな表情で私の顔をぐっと覗き込んだ。
「えっ?あれ?馨お姉様?どうしたんですか?」
思いもよらない事態に首を傾げると、馨お姉様はすぐに私の右手の真新しい傷に気付いてはっと息を呑んだ。
「…入るわよ」
馨お姉様は私を押し込むようにして強引に部屋の中へと入ってくると後ろ手に扉を閉めた。
「あの、どうかされたんですか」
「これ、どうしたの」
馨お姉様は私の質問には答えず、私の右手へ手を伸ばすと労わるように優しく触れた。
「あー、これはその、私の不注意で…うっかり」
まさか嫌がらせを受けたとは言えず、苦笑して見せると、馨お姉様はふーっとため息を吐いて天を仰いだ。
「有栖ちゃんの血の匂いがしたから、飛んできたのよ」
「…わ、分かるんですか?」
馨お姉様の発言に私が目を見開くと、馨お姉様は苦笑を浮かべて頷いた。
「まあね。一度、有栖ちゃんの血を頂いているから、敏感になっているの。…心配したわ」
「すみません」
申し訳ないという気持ちと気まずさから項垂れていると、馨お姉様は静かに首を振った。そして、私の右手をきゅっときつく掴んだ。
「謝るのはまだ早いわよ」
「え?」
「敏感になってる、って言ったでしょ」
「えええっ?」
そう囁いた馨お姉様の瞳はいつの間にか赤く変化している。私の右手に触れている手も心なしかひんやりと冷たい。
(ま、まさか、ここで吸血をっ?)
「だ、駄目です!そんな、真理亜ちゃんがもうすぐ帰ってきちゃうのに!」
慌てる私をよそに馨お姉様は「見せつけてあげればいいわ」と挑発的な発言をして、私の右手に顔を近付けると、人差し指と中指に盛り上がった血を赤い舌先でちろりと舐めた。
「…!」
くすぐったいようなむずむずするような刺激に手を引っ込めようと身じろいだせいで、指先から手首を伝って血が垂れる。それを馨お姉様がすくい上げるように舌で舐め取った。
「…っか、馨お姉様…!」
「なあに?」
馨お姉様は私の指先をたっぷりと舐め回しながら上目遣いに返事をした。
「ば、絆創膏を貼るので…もう…」
「あら、勿体ないわ。それにこうした方が治るのもずっと早いんだから」
「でも…でも…!」
「…しょうがないわね。有栖ちゃんがそんなに嫌がるなら、無理強いはしないわ」
「え…?」
私の懇願に馨お姉様はぱっと指先から顔を離すと、掴んでいた私の手をあっさりと離した。
「嫌なんでしょう?有栖ちゃんが嫌がることはしないわ」
「あ…………」
嫌だと言ったのは私の方なのに、これほど簡単に止められてしまうと、名残惜しいような物足りないような気持ちが胸の奥で渦巻き始める。
そんな私の視線に気づいた馨お姉様がちろりと赤い舌で唇をひと舐めして言った。
「何?やっぱり、私の方法で止血してあげましょうか?」
「っいえ!自分で手当てできますから…っ」
馨お姉様に背を向けて急いで救急箱を探す作業に取り掛かる。確か、真理亜ちゃんが共同スペースにしまっておくと言っていたはず。
しばし馨お姉様を放ったまま必死で救急箱を探していると、唐突に後ろから氷つくような冷ややかな声が聞こえた。
「…有栖ちゃん」
「はい?」
嫌な予感がしてそろそろと振り向くと、馨お姉様は私が先程書いて机の上にそのままにしておいたパートナー申請の用紙を手に、背筋の凍る微笑みを浮かべていた。
「これ。どういうことかきちんと説明して貰えるかしら」
(な!!!)
「そ、それは…」
恐ろしさに顔がひきつる。そういえば、しまい忘れていた。今更、馨お姉様の名前を書いておけば良かったと後悔してももう遅い。私の足は無意識に後ずさりを始めていた。その間を馨お姉様が一歩、一歩と詰めていく。
「パートナーの申請用紙に真理亜の名前が書いてあるわ。書き間違い?それとも、これを提出しようとしていたの?」
馨お姉様は微笑んでいるのに目が全く笑っていない。
「っいえ、提出しようとしていたわけではなくて、た、試しに書いてみたというか」
私の足はすぐにベッドの縁へとぶつかった。これ以上、下がりようがない。
「試しに書く名前が間違っているわ」
馨お姉様の冷え切った声とは対照的に、にこにこと好意的に微笑んでいる表情がとても恐ろしく見える。
「か、馨お姉様…」
「いけない子ね」
馨お姉様はくしゃくしゃにその紙を丸めてしまうと、ぽいとゴミ箱に放った。
「あ…」
「後で同じものを貰ってきてあげるわ。今度は書き間違いのないように、ね」
「あ、有難う御座います…」
馨お姉様がじっと私を見つめている。私は蛇に睨まれた蛙のようにもう一歩も動くことができない。すると、馨お姉様が覆い被さるようにして私をベッドへと押し倒した。
「……っ!」
私はもがくことも忘れて、怯えた目で馨お姉様を見上げた。馨お姉様はその美しい顔を今は酷く悲しそうに歪めて、私を見下ろしていた。
「これまでも、大抵のものは私が欲しがるより先に向こうからこの腕の中に飛び込んできたわ。それなのに、あなたはいくら待っても、私の腕の中に飛び込んでこない」
「それは…」
私が何か言おうとすると、馨お姉様は何も話すなというように人差し指を私の唇に当てた。
「私ね、一目惚れって言葉を馬鹿にしていたの。一目見ただけで相手を好きになるなんて、それこそ相手の外見しか見ていないって公言しているようなものだって。…でも、違うのね。一目でその人の声や香り、雰囲気なんかも全てひっくるめて愛おしいと思えてしまう。そのときには恋だと気付かなくても、知らないうちにゆっくりと身体を、心を蝕んでいくのよ。まるで毒のようにね」
「…毒…」
「私は有栖ちゃんに出会って、初めて本気で誰かを欲しいって気持ちを知ったの。有栖ちゃんを手に入れたくて、有栖ちゃんが喜ぶように優しい言葉をかけてきたわ」
馨お姉様の冷たい手が私の輪郭をなぞる。
「…っ」
「有栖ちゃんがどれだけ真理亜と仲良くしていても、最後は私を選ぶものだと思って安心していたのに。それなのに、真理亜をパートナーに選ぼうとするなんて…」
馨お姉様は舌打ちをすると、その両手で私の両手を押さえつけるようにきつく掴んだ。
「馨お姉様…、それは…っ」
「いいわ。いくら言っても分からない子には、私のやり方で分からせてあげる」
馨お姉様は真っ赤に染まった瞳の奥に妖しさを宿しながら、舌なめずりをすると、その唇で私の唇を無理やり塞いだ。




