15.警告
「あら、もういじめているの」
開口一番、放たれた雪乃お姉様の言葉にももかお姉様は首がちぎれるのではと思うくらいの勢いで首を横に振った。
「雪乃お姉様ったら、なんてことを言うんですかっ。可愛い後輩と仲良くしていただけですよ。…ごきげんよう」
慌てて否定するももかお姉様に対し、雪乃お姉様はあくまでにこにこと微笑んだまま表情を変えずに挨拶を返した。
その後ろからひょっこりと倫子お姉様が顔を出して、雪乃お姉様の後を引き継ぐ。
「とか何とか言って、先輩風吹かしていたんじゃないの?」
「ち、違いますって」
「有栖さんの質問に答える形で、ニエについて説明していたところです」
芙美お姉様がももかお姉様をフォローする形で答える。
「そうなの?葵」
倫子お姉様が葵お姉様の方へ視線を向けると、葵お姉様はこくりと静かに頷いた。
「なあんだ。つまらないの」
倫子お姉様がそんなことをぼやきながら雪乃お姉様と共に席へ着くと、少し遅れて雅お姉様と馨お姉様が二人一緒に現れた。
その姿を目にした途端、忘れていた緊張がふつふつと胸の内に湧き上がる。
「ごきげんよう…っ」
何かに急かされるようにして目が合う前にいち早く挨拶をすると、馨お姉様は私へ憂いを帯びた眼差しをゆっくりと向け、口角を少し上げて「ごきげんよう」と挨拶を返してくれた。隣にいる雅お姉様も同様に、目を見張る美しさを隠そうともせず、いつもと変わらない態度を私に向けた。
(普通に挨拶できていたよね…?)
二人がそれぞれ席へ着くと、すぐに温かい料理が運ばれてきた。食欲をそそる香ばしい香りに束の間、緊張を忘れる。どうやら上の空でいた際に、真理亜ちゃんが私の分まで注文してくれていたようだった。
寮生活を始めてみて、どうも偏食のきらいがあるようだということが分かった。それに目ざとく気付いた真理亜ちゃんがここ最近はせっせと、私の食生活を改善すべく、世話を焼いてくれている。食事ではなるべく緑をはじき、お肉などメインのものをたくさん食べたい私に、真理亜ちゃんは毎回お皿に緑をてんこ盛りにして笑顔でトレーを渡してくる。
(うーん。気遣ってくれるのは有難いけど、正直野菜ばっかりじゃ物足りないよぉ)
そういうことがあって、今日のお昼も真理亜ちゃんに任せっきりになっていたので、てっきり私の分は野菜いっぱいのお料理かと見る前からがっかりしていたのに、私の目の前に置かれたお皿には野菜よりもお肉の方が多めに盛り付けられていた。
(……!)
顔を上げた拍子に、真理亜ちゃんと目が合った。真理亜ちゃんは私のお皿を見てから、その視線を私に向けて、大胆にも微笑んでみせた。
これは彼女なりの励ましと受け取っていいのだろう。私は真理亜ちゃんに感謝して、緊張でがちがちになった心を目の前の料理でほぐそうとした。
「有栖ちゃん。よく眠れた?」
「っ!」
ナイフとフォークに手を伸ばしかけたその瞬間、馨お姉様から声を掛けられ、思わず手が止まった。
「そんなに緊張しないで。別に獲って食べようなんて思っていないから」
馨お姉様はペーパーで口元を軽く拭うと、小首を傾げて言った。
(う…)
「はい…」
「昨日と今日とでは全く異なる世界に足を踏み入れてしまったんだもの。有栖ちゃんが驚くのも当然だわ。でも、いずれは慣れて欲しい…怖がらないで、有栖ちゃんの方から近付いてきて欲しい、と思うのは我儘かしら」
馨お姉様の眉尻がやや下がる。そんな顔をされたら、嫌だなんてとてもじゃないが言えやしない。
「いえ…でも、正直に言うと、私、皆さんに対して怖いって気持ちはあんまりないんです。怖いというより、何か、恥ずかしいとかそういう気持ちの方が大きくて…」
「吸血のこと?」
「はい…」
「そうねえ」
馨お姉様が何もないはずの宙を見つめて、何かを考えているような仕草をした。
「こればかりは回数を重ねるしかないわね」
「馨お姉様!」
え、という私の反応と同時に真向かいに座る真理亜ちゃんが立ち上がる勢いで抗議の声を上げた。
「冗談よ」
さして気にした様子もなく、馨お姉様はすぐに私との会話を再開する。
真理亜ちゃんは居心地が悪そうに、席に座り直した。
「ところで、来週で有栖ちゃんがこの学院に来てからもう一ヵ月が経つのね」
「え、もう一ヵ月になるんですか?」
「ええ。時間って早いわね」
「はい…」
(一ヵ月と言えば、そろそろパートナーを決めなくちゃいけないんだっけ…)
そんなことを考えているとまるで心の内を見透かされているように、馨お姉様が言った。
「パートナーの期限は一ヵ月よ。有栖ちゃんがこのまま何も言わなければ、自動的に三年生である私とパートナーになるわ」
「え、そうなんですか?」
「何か異論があるのなら、早めに言うことね。でないと、後で後悔するわよ。まあ、有栖ちゃんに後悔させる気はないけれど」
馨お姉様は自分がパートナーの座を奪われるとは微塵も思っていないという態度で言ってのけた。相変わらず、すごい自信だなあと此方が感心してしまいたくなる。
「その…どうして、私なんですか?」
「パートナーのこと?」
気付けば私は、ずっと聞きたかったことを馨お姉様本人を前にして、直接問いかけていた。
「…はい。どうして、こんな普通な私に皆さんが良くしてくれるのか、ずっと不思議で…。クインテットの人達みたいにずば抜けて綺麗な顔をしているわけでもないし、人を惹き付ける特技もないし、どこからどう見ても一般人の私が、こうして馨お姉様にパートナーの申し込みをされるなんて、何か、どっきりというか、騙されてるんじゃないかなんて思ったりもして」
「ふふ。どっきりだなんて、相変わらず面白い事言うのね、有栖ちゃんは」
「え?」
「私が有栖ちゃんに惹かれたのは……内緒」
そう言って、馨お姉様は生唾を呑み込みそうになるくらい、妖艶な表情をぐっと私に近付けると長い人差し指を私の唇に押し付けた。
「有栖ちゃんが晴れて私のパートナーに、そしてニエとなった暁に教えてあげるわ」
「ええっ?」
「馨お姉様っ!」
間髪入れずに真理亜ちゃんが抗議すると馨お姉様は「はいはい」と軽く手を振る動作をして、あしらった。
「有栖ちゃん。そう深く考えなくていいのよ。自分の直感に従いなさい」
「……直感…」
「そう。直感」
馨お姉様の柔らかな声が何故だか私の心にしっとりと染み渡った。
「…はい」
私が頷くと、馨お姉様もまた満足そうに目を細めた。
それからは他愛もない会話をし、食事もそろそろ終わりに近付いた時、倫子お姉様が思い出したように声を上げた。
「そういえば、私達が来る前にニエについて話していたって言ってたわよね?」
「…はい…」
葵お姉様が頷くと、倫子お姉様は更に葵お姉様に問いかけた。
「その説明は誰がしたの?」
「…真理亜様が説明して下さいました…」
葵お姉様が倫子お姉様の問いに答えると、倫子お姉様だけでなく雪乃お姉様や隣の馨お姉様までが同じような表情を浮かべた。
「ふうん。真理亜が説明したんなら、肝心なことは言ってないわね」
「肝心なこと?」
倫子お姉様がにやついた顔で言った言葉に私が首を傾げると、馨お姉様が私の方を向いた。
「ニエを持つことは、ヴァンプである者にとって大人への通過儀礼みたいなものなの。だから、ニエを一度として持ったことのない者は、私達の世界では半人前として扱われるのよ」
なるほど、と頷いていると倫子お姉様がまだにやついた顔で真理亜ちゃんの方をわざとらしく向いて言ってのけた。
「馨の言う通り。つまり、ニエを持ったことのない真理亜は、ヴァンプの中でもまだまだお子様ってわけ」
「は、はあ…」
それが言いたかったのか、と困惑していると真理亜ちゃんはこれ以上ないくらい不機嫌そうな表情でこめかみをぴくつかせながら、嫌みたっぷりに言った。
「…補足して下さり、有難うございました」
「どういたしまして」
そんな真理亜ちゃんの言葉をまたしてもにこやかに退けた馨お姉様は、「そろそろお開きにしましょうか」と声を掛けた。
馨お姉様の一言で、昼食会は終わりを告げ、各々が立ち上がり、束の間の別れの挨拶を交わし合った。
私も馨お姉様に挨拶をして、真理亜ちゃんと共に部屋を出ようとすると、それまで黙っていた雅お姉様が立ち上がり、私を呼び止めた。
「有栖さん。ほんの少し、お時間良いかしら」
「あ、はい……?」
真理亜ちゃんと互いに顔を見合わせて、その場に立ち止まる。
「馨もここにいて。芙美と真理亜は先に教室に戻っていなさい。事務的なことで話したいことがあるの」
「どうして、馨お姉様もご一緒なんですか?」
帰れと言われた真理亜ちゃんは一人納得のいかない表情を浮かべ、雅お姉様に噛み付いた。
「馨は副委員長だもの。雪乃は用事があるらしいから、代わりに彼女に居て貰うわ」
真理亜ちゃんは納得してなさそうな顔をしていたが、雅お姉様に言われては真理亜ちゃんも渋々頷くしかなかった。
「…なら、私は外で待っていますから」
「好きにしなさい」
「有栖。私は外にいるから」
「うん、有難う」
真理亜ちゃんはわざわざ私に向かってそう告げると、名残惜しそうにしながら扉を開けて外へと出て行った。これで部屋にいるのは私と雅お姉様、それから馨お姉様の三人だけとなった。
雅お姉様が私に向き直った。馨お姉様はその横で壁にもたれかかるようにして立っている。私は自然と背筋が伸びるのを感じた。
「…さて。有栖さんにこの場で、話しておかなければならないことがあるの」
「話しておかなければならないこと?」
雅お姉様は先程の和やかな表情とは打って変わって、真剣そのものと言った表情で頷いた。
「単刀直入に言うわ。真理亜のことよ」
雅お姉様はその言葉通り、まどろっこしい前置きは一切省いて、たった今出て行ったばかりの真理亜ちゃんの名前を口にした。
「真理亜ちゃんのことですか?」
私の眉間にぐっと力が入るのが分かる。真理亜ちゃんが何だと言うのだろう。
「ええ、そう。あの子には…真理亜には今後、十分に気を付けて欲しいの」
雅お姉様は一段と深刻さが滲んだ表情で私を見つめて言った。
「有栖さん。しっかり聞いて。これは冗談なんかで言っているんじゃないの。今、真理亜の一番近くにいるあなたに危険が迫っているわ」
突然の発言に耳を疑う私に雅お姉様はもう一度、はっきりと真理亜ちゃん自体が私にとって危険な存在であるとの警告を放ったのだった。




