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序章

 くしゃり。


 柔らかな花びらの感触が靴底を通じて、足に伝わる。道一面に敷き詰められた花びらをそうして一歩ずつ踏みつけながら、春の陽気を背に受けて、永遠に続きそうな長い坂道を登っていく。この道を次に通るのは、学校が休みの日に限られるだろう。今までのように、満員電車に揺られながら苦労して登下校する必要はもうない。それをほんの少し、寂しく思いながら、けれど自分で決めたことだと足を踏み出す。


 新しい学校への転入初日となる今日だけは、たった一人でこの坂道を登らなければならない。初めて親元を離れ、心細く感じるこの気持ちも、きっと今日一日だけの特別な感情なのだ。そう思いながら、後ろも振り向かず懸命に足を動かしてきたのに、ふと、胸がしめつけられるような孤独を感じた。


「今日から、新しい生活が始まるんだもの。……しっかり、しなくちゃ」


 自分を叱咤するつもりで声に出したはずの言葉が、私の足をぴたりと止めた。

 それまで抑え込んでいたはずの思い出が蓋を開けたように次々に思い出されて、私の足をぐいぐいと引っ張ろうとする。


 いけない、いけない。


 私は首を振って、その思い出にもう一度、きつく蓋をした。そして、これ以上ないくらいに晴れ渡った空を見上げて、両親がいるはずの雲の向こうを見据えた。何も一生会えないわけではないのだ。今はきっと、優雅に空の上のフライトを楽しんでいる頃だろう。


「よし。頑張ろう」


 私は大きく深呼吸をして、素晴らしい一日になるはずの今日への一歩を颯爽と踏み出した。






 事の発端は一か月前に遡る。


 その日、仕事から帰ってきたパパはえらく明るい調子で「ニューヨークに住むぞ!」と声高らかに宣言し、キッチンでお夕飯を作っていたママは理由も聞かずに手を叩いて「素敵!」と叫んだ。

そのとき、ちょうどリビングでのんびりテレビを見ながらくつろいでいた私は、喜び手を取り合う両親の姿を見て、盛大に間抜けな声を出した。


「……へ、へえええ?」


 その後、二時間ほどで落ち着きを取り戻した二人から何がどうなっているのかと問いただしたところ、パパはニューヨークへ転勤することに決まったとかで、ママは仕事を辞めて、パパと一緒について行くから、「有栖も高校は向こうの学校にしましょ。英語も話せるようになって、素敵な彼氏ができちゃうかもね」などと実に軽い調子で私を唐突に帰国子女の道へと誘ったのだった。


 私は急に突き付けられた人生の岐路ともいうべき現実にしばし唖然としながら、目の前で着々と渡航計画を進め始めるパパ達を見つめているうちにはっと我に返った。そして、「そ、そういうのはもっと小さいうちから行かないと無理だって!」と叫び、両親が引くくらいに自分でもわけのわからぬ日本愛を語りに語った末、強引に日本に残ることを了承して貰ったのだった。


 いまだに何故あのとき、あんなことを口走ったのかは今考えてみてもよく分からないが、知らない土地に行くというのはやっぱり、怖いものだし、住み慣れた日本が一番安心できるし、ここは思わぬ自分の日本愛を発見出来て良かったと思うことにする。


 とはいえ、渋々日本に残ることを許してくれた両親だったが、私に一人暮らしをさせるのはさすがに反対して、一人日本に残る条件として、私を寄宿舎のある学校に入れると言い出した。それがほんの数週間前の話だ。


 その学校というのが、ママがまだ高校生だった頃、通っていたという伝統ある由緒正しき女学院なのだとかで、聞くところによると淑やかな女性を育てる為に作られた学校らしい。そんな子達の中ではたして自分みたいな平凡な人間がやっていけるのかと思うと、不安しかないが、熱心な二人の勧めというより懇願にあい、それまで通っていた中高一貫の高校入学を急きょ取りやめ、一カ月遅れの転校生として、私はこの町にやってきたのだった。


「うーん。いい天気」


 上を見上げれば、雲一つない澄み切った青空が視界に広がる。快晴だ。何かを始めるのにこんなに天気のいい日はないだろう。しょげていた心がだんだんと上を向いていくのが分かる。


「ええと、地図では確か、この辺のはず……なんだけど、おかしいなあ」


 携帯に表示された地図を確認しながら歩いてきたはずなのに、一向にそれらしい建物は見えてこない。ママの話では物凄く大きい学校で、お淑やかな女の子達がたくさんいる学校って聞いたけど、どこにそんな子達の為の学校があるのだろうか。視界に映るのは長い坂と、坂を挟んで右側の木々が立ち並ぶ光景だけだ。学校のような建物はやはりどこにも見当たらない。


 もしかして、道に迷ったのだろうか。不安に思いながら、携帯の画面を交互に見て歩いていると、突然、何かの拍子に画面が切り替わった。


「あれれ?」


 現在地点が今まで見ていた場所とは違う場所になっている。そして、その画面上に探していた女学院という表示が現れた。


「ミストレス女学院……なんだ。ちゃんとあるじゃない」


 どうやら電波の入りが悪かったらしい。


「まあ田舎だもんね」


 新しく画面に映し出された現在地は、女学院の敷地にちょうど接するように表示されていた。


「ん?これって、どういうことなんだろう」


 私は携帯から顔を上げて、自分の右側を見た。何かの花のデザインがあしらわれた茶色のフェンスの向こう側に大きな木がわさわさと茂っているのが見える。まるでヨーロッパかどこかの森の中のようで、此方からは木々に阻まれその奥に何があるのか確認することができない。そういえば、ここまで歩いてきた道の右側はずっとこんな感じで緑に溢れていたような覚えが。


「まさかね……?」


 視界を阻むようににそびえ立つ木々を見て、ごくり、と唾をのむ。携帯の表示を確認すると、やはり、今立っている場所の隣、つまりこの木々の向こう側に目指すべき学校があるらしい。


「うわあ。これ全部が学校の敷地だとしたら、どれだけ広いんだろう。……と、とにかく、まずは入口を探さなくっちゃ」


 こちら側と森を隔てるフェンスは坂を上がりながら途切れることなく続いている。その間、入り口らしきものは見当たらない。もう一度、携帯の画面と睨めっこをしながら、くるくると角度を変えたり表示の大きさを変えたりして、自分が見やすいように設定し直す。


「うーん……こっちで合ってるはずなんだけどなあ」


 誰に聞くわけでもなく呟きながら、携帯の画面を見て、慎重に進行方向を確認していると、不意に頭上から、ガシャン!という何かがフェンスにぶつかるような音が響いた。


「……!?」


 一体、何が起きたのかと携帯の画面から顔を上げ、音のした方を見上げる。視線の先には肩につくかつかないか程度の短い栗色の髪を振り乱し、制服を着た美しい女性がいままさに自分の背丈の倍はありそうなフェンスを軽々と乗り越えようとする姿があった。


「え」


 思わず、ぽかんと口を開けてその光景に釘付けになる。


(うわあ……、すごいきれいな人だなあ。制服着てるし、もしかして、同じ学校の人だったりして…って、その前に何でフェンスの上に…というか、こんなところで一体何を)


 そのまま、あっけにとられて見ていると、女性はフェンスに掛けていた手を動かした。


(まさか)


 いやそのまさかだ。女性は下にいる私に気付いていない。荒い息を整えるように、深呼吸をしたのち、あっと叫ぶ暇もなく、女性は素早い身のこなしでフェンスから手を放した。


(嘘、ぶつかる!?)

「きゃあ!」


「……なっ!」


 黒い影が私の頭上に広がる瞬間、初めて、私と彼女の視線が交錯した。深い海の底を思い起こさせるような藍色の瞳が驚愕に見開いている。彼女はそのまま覆い被さるように私の上へと体勢を崩して落っこちてきた。


 柔らかな衝撃と共に私はコンクリートの地面にお尻を打ち付けた。





「あいたた……たっ!?」


 主に下半身に鈍い痛みを感じながら恐る恐る目を開けてみると、目の前に、桁外れに美しい女性の顔がとんでもない近さで飛び込んできた。


(う、うわあ。近くで見ると、綺麗を通り越してもう何というか、め、女神様みたい…!)


 思わず、崇めたくなる気持ちとまじまじと自分を見られているという恥ずかしすぎるこの状況に目を逸らしたくなりながら、しかし、どういうわけか吸い寄せられるようなその瞳の輝きに瞬きするのも忘れて見惚れていると、花のようなかぐわしい香りがふわりと鼻孔をくすぐった。彼女の香水か何かだろうか。


「……!」


 不意に女性が身じろぐと、煙に包まれていた頭の中がさあっと晴れていった。そして、今のこのとんでもない状況が一気に現実として頭の中に流れこんできた。どうやら私は彼女に押し倒されるようにしてその場に寝転んでいるらしい。テレビドラマなんかでたまに見る気まずいあのシーンだ。あれをそっくりそのまま同性同士で再現しちゃっているのだ。私は内心で狼狽えに狼狽えまくった。


「……ねえ、大丈夫?頭は打っていない?」


 目の前の女性は心配そうに眉根を下げて、鳥肌が立つほど色っぽい声音で囁いた。彼女は何故か、起き上がろうとせず、むしろ、この体勢のまま先程よりも密着するように体を寄せてきた。


 その妖艶すぎる迫力に気圧されながら、こわごわと頷く。


「は…はい……」


「本当に?」


 女性は真っ赤に色づいた唇を僅かに開くと、私を気遣うように言った。


「ほ、本当です……」


「そう、良かった」


 私がもう一度頷くと、全てが彫刻みたいに整った女性はうっとりするほど魅惑的な微笑みを浮かべた。しかし、そう言った後も彼女は私の上から一向に退く気配を見せず、むしろ、じりじりと私との距離を縮めていく。


(あれ、な、何で……?)


 やがて、お互いの吐息が唇に吹きかかるほどの距離まで接近されると、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。


(や、いいいくらなんでも、これは近すぎるし、綺麗すぎるでしょ……!)


 これほどの至近距離で美女に見つめられ、パニックになりながら指一つ動かすことができずにいると、彼女は私の顔を通り過ぎて、耳の方へと顔を寄せた。


「……いい、香り」


「え、え?」


 彼女が掠れるような切ない声で囁いた。吐息が耳朶をかすめる。自分の心臓の鼓動がうるさいほど跳ねあがった。彼女は再び、唇を閉じて、すごい体勢のまま、私を見下ろしている。


(お、同じ人間とは思えないよ……)


 改めてまじまじと見るその美貌に戸惑いを隠せない。やや切れ長の大きな瞳にふさふさの睫毛、鼻筋の通った日本人離れした顔立ち。制服を着ているのに、すごく大人っぽく見えるのは彼女自身の雰囲気のせいだろうか。


「ごめんなさい。まさか下に人がいるとは思わなくて……」


 彼女はしなやかな細い指を伸ばすとためらいなく私の頬に触れた。反射的に体がびくりと縮こまる。


「い、いえ……」


(まさか、このままの体勢で会話するの!?)


 私の突っ込みが彼女に聞こえるはずはないのに、一瞬だけ口角が上がった。

 それどころか、彼女の動きはますます怪しくなり、私の頬の感触を確かめる様に指先が輪郭をなぞる。


「……っ」


 彼女の手はぞっとするほど冷たかった。


(……どうして、こんなに冷たいの?)


 彼女の指がしつこく私の肌を這う感触に思わず身震いする。


「本当に、大丈夫?」


「……は、はい!この通り!」


 私は彼女の問いにこくこくと何度も頷いて見せた。


「そう。良かった」


 彼女の声は魅力的な低さの落ち着いた声で、不思議と私の耳によく馴染んだ。

 彼女はにこりと上品そうな微笑みを浮かべ、それからじっと私を見つめると、首を傾げた。


「……あなた、学院の生徒?それにしては見たことがない顔ね」


「あ、私、今日から通うことになっていて……転校生なんです」


 彼女は私が話し続けている間も、指の手を止めず、何度も頬をなぞり続けた。その行為に何の意味があるのかなんて分からずに、私はただ彼女にされるがまま、大人しくしていた。


「そうだったの。あなた、お名前は?」


「星野有栖です」


「ふうん。有栖ちゃん、ね。ずいぶん可愛い子が来たのね。……それに、この香り。何かしら。こんなの、初めて……」


 彼女はすっと獲物を視界に捉えたかのように目を細めて私を見つめた。その色っぽい仕草にどきりと私の胸が高鳴る。相手は同じ女性のはずなのに、先ほどから心臓がうるさいくらい飛び跳ねている。


「か、可愛いだなんて!私、ぜんっぜんそういうタイプの万人受けする顔じゃないですからっ!今どきの女の子みたいに、香水だって何もつけてないですし、お化粧も得意じゃないし、あ、お風呂はちゃんと入ってますので、く、くさくはないと思うんですけど……」


 この香り、と言われても思い当たるものはなく、慌てて自分の体臭を弁解していると、目の前の彼女は先ほどの私みたいに呆気に取られたような表情を浮かべて、すぐに、堪え切れずに吹き出した。


「ふふ、あはははは!」


(え?わ、私、何かおかしいこと言った?)


 呆然とその様子を見つめていると、ひとしきり笑い終えた彼女は目尻に浮かんだ涙を拭って、言った。


「……あなたって、とっても可愛くて魅力的な女の子なのね。気に入ったわ」


 彼女はもう一度、私の頬をするりと撫でて、乾いた唇を潤すようにぺろりと赤い舌先を出した。


「っいいえ!もう、どこに需要があるか分からないような顔なんです、私」


 私は彼女の言葉にぶんぶんと左右に首を振って否定の言葉を述べる。

 自分で言っていて心がしょげてきたが、それでもこれほどの美貌を持つ同性からお世辞でも可愛いなんて言われたら全力で否定するべきだ。


 彼女は私の言葉に瞬きを繰り返すと、今度はくすくすと控えめな笑いを漏らして言った。


「ふふ。あなたって本当に面白い子ね。有栖ちゃん」


「いえ、あの」


 彼女は私の頬から名残惜しそうに手を離すと、軽やかな身のこなしで立ち上がった。


「ほら」


 ふわりと眼前に差し出された手を借りて、私もその場に立ち上がる。


「あ、有難うございます」


「どういたしまして、有栖ちゃん。そして……ようこそ。ミストレス女学院へ。私達はあなたを歓迎するわ」


 両腕を羽ばたくように大きく広げた彼女は、凛々しい声ではっきりと私に告げた。


「え?私達って?」


 説明を求めようとすると、彼女は悲し気に肩をすくめた。


「ごめんなさい。残念だけど、説明している時間はないの。今は急ぐから、またすぐに会いましょうね。……ちゅ」


(なななな!?)

「!?」


 彼女はさらりとそう告げると、驚く私の頬へ軽い口づけをし、颯爽と私が上ってきた坂を駆け下りていった。残された私は呆然とその場に立ちすくみながら、たった今起きたばかりの出来事を一生懸命頭の中でリピートした。頬にかかる息、冷たく柔らかい何か、軽快なリップ音。私は恐る恐る自分の頬に手を当てた。


「が、外国式……?」


 私の呟きは誰に拾われることなく、風にさらわれるように掻き消えた。彼女の去った方向を見つめながら、私は高鳴りだしたこの胸の鼓動のワケを考え始めた。





 私立ミストレス女学院高等部。



そこは良家の子女を世間の荒波から保護し、立派な淑女を育成するべく開かれた、古き良きカトリックの全寮制女学院である。



 そんな乙女たちの神聖な花園で、一人のうぶな少女の魅惑的な女学院生活が今まさに始まろうとしていた。



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