ひよ子
ある夏の事である。私は特急に乗って上野駅に向かった。
あのいとおしいお菓子が食べたかったのである。
その為に二時間の時間と少しのお金を消費して向かったのだ。
小学校の頃は親戚や友人が上野に行った時、お土産としてくれたものだが、近頃は沢山の土産物が登場し、『ひよ子』は貴重な土産物となっていた。
熱狂的なひよらー、つまるところ『ひよ子』を愛してやまないファンである私は、最早我慢ならなくなっていた。
禁断症状が出てきてしまっていた。
大学を自主休講し、東京に向かった。
ひよ子が食べたい。あの食べるに勿体無い薄皮…中に詰まる白餡。暫し、その『ひよ子』の有り様を目に焼き付け、それを食べる。とてつもない罪悪感に飲み込まれそうになるが、その美味しさたるや罪悪感を忘れさせるほどだ。
甘さがたまらない。絶妙な甘さだ。
『ひよ子』の体を壊すという罪悪感を与えるといい、絶妙な甘さで上品な味といい、二つの意味で罪な御菓子だと思う。
鉄道は長い、何時にもまして長く感じる。ひよ子を求める私の炎は留まることを知らない。
集中力が切れてきた。急に魂がそわそわし始めた。真っ先にあの売店に駆け込み『ひよ子』を買って食べようと思っている。
上野動物園や、忠犬ハチ公、西郷隆盛像、東京スカイツリー、それらの観光地なんて私にはどうでもいいのだ。
ただ、ひよ子が欲しい。それだけである。それならインターネットで買えばいいだろうと思われるが、ひよ子は包装までがひよ子であり、箱を手にとって買わなければならないと思っている。
これは、ひよ子道の求道者としての務め、いやポリシーである。
着実に東京駅は近づいている。
「東京銘菓の『ひよ子』お一ついかがですかー。」車内販売の声が聞こえた。悪魔の囁きである。
誘惑に負けてしまった。東京銘菓…ひよ子の一個を手に取ってしまった。包装を開ける。香しき匂いが鼻をくすぐる。
もう我慢ならない。何せ三年ぶりのひよ子だ。胸が高鳴る。
もう見るたびに罪悪感を覚える、残しておきたい。そう思うけども食べなければならないのだ。
頭から豪快にかぶり付く。薄皮と白餡が絶妙にマッチしている。
ひよ子解禁で心は落ち着いた。
「次は、上野、上野です。降り口は左側です。」
よし。急いで降りて買わん。
電車が止まり、ドアが開いた。急いで外へ出る。9月は残暑が厳しく、ホームは蒸し暑い。猛ダッシュで階段を上り、改札を出て、売店に入った。
刹那、一人の少女を見てしまった。
「ねぇ!お母さん。ひよ子買いたい。ねぇ!」少女は駄々をこねていた。
「ダメよ。金がないんだから。」
「これで足りるか?」気づいたら604円を差し出していた。
今まで散々、他人のためにする偽善なんて価値のないと思っていた私がだ。
「良いんですか?」
「返さなくていい。私には妻もいないし、子供もいない。だから気にすることはない。受け取ってくれ。」
「おじさん。有り難う。」
「良いんだよ。ひよ子の神様が見守ってくれるから。このくらいの布施は問題ないよ。」
「じゃあ、僕もひよ子を買おうかな。一番大きいの下さい。」
ひよ子を買い終えて特急に乗り込む。私は家に帰った。
五年くらいたった頃だ。家の近くに新築の住宅ができた。
その人は近所に配るのにタオルではなく、ひよ子を買ってきてくれた。彼らはあの時の娘と母、そして父であったのだ。
「あの時はどうもありがとうございました。」
母親は私に感謝していた。娘さんは中二、あの頃駄々をこねていた小学三年生の姿はなく、美しいお嬢様に変わっていた。
「おじさん。今度、一緒にひよ子を買いにいきましょ?」
人生初の恋愛の始まりであったのだ。私は23歳であった。