8.脱出
どれくらいの時が経っただろうか。ひたすら石でこすり続け、ようやくぷつりと小さな音と共に縄を切ることができた。手首や腕は痣と擦り傷だらけになったが、少しだけ希望が見えてきた。今度は両手と石の欠片で同じように足首の縄を切る。
手足が完全に自由になったところで、エルナはすっと立ち上がった。
「扉、開くかしら」
頑丈そうに見える扉に手を掛けてぐいと押してみると意外にもガタガタと不安定に揺れて、どうにか出来そうな気がする。
「……ヴィルムがいたら女の子らしくしろって怒られそうだけど、誰もいないし、緊急事態だし、仕方ないよね」
誰に聞かせるともなくそう頷くと、エルナは大きく息を吸って足を振り上げた。
「ハイン、アリアは?」
宿に戻ると、アリアは部屋にいなかった。護衛に聞けば、つい少し前に出掛けたと言う。
「どうしてついていかないんだ! 彼女に何かあったらどうする!」
「しかし、ひとりで行くと仰いましたので。魔法もあるからと」
「魔法を使えない状況などいくらでもある。もうすぐ日が暮れるのだぞ!」
しれっと答える護衛に、いらつきを覚えながらアーガインは魔法を唱えた。
「……町の中にいない?」
何者かに連れ去られたのかと青くなり、すぐに立て続けにいくつもの魔法を唱え出す。いくつめかの魔法でようやくアリアの気配を捉えて、ようやく息を吐いたが……。
「この方向は……? 何があったんだ」
アーガインは護衛を連れて、すぐにアリアの気配を追った。
魔力を込めた染料で、床に描かれたものを慎重になぞる。古く、ところどころ掠れてはいるけれど、まだまだ十分に使える。もっと時間があれば何日もかけて床にしっかりと刻みつけ、何があっても絶対に消せないようなものにしあげるのだけど……。
この地を守るものと、この地に眠るものと、この地にいるものの、全員に見つかる前にやり遂げなくてはならない。
だって、ずっとこの日を待っていたのだから。自分に出来うる限りさまざまなものを調べ、さまざまなものを学び、そうして見つけた魔法使いに取り入り、ひとりでは知り得なかったことも知り……そこまで考えて、ひとつだけ息を吐き、それから頭を振る。雑念は、余計なことは考えてはいけない。考えるならひとつだけだ。そう、考えるべきはひとつだけ。間違っても、彼のことを考えてはいけない。
ここに描くのは、自分の知る限り、もっとも強力な魔神を呼び出す魔法陣なのだ。集中しなくては。
「……こんな国、滅んでしまえばいいの」
そう、かつて魔王が滅ぼしたと言われる、“前王国”のように。
ふと、何か物音がした気がして顔を上げる。描くことに集中し過ぎて、周りに気がいってなかったようだ。首を回して、ふう、と一息吐く。魔法陣は、あと少しだろうか。もう少しで描き上がり、そのあとは細かいところをチェックして問題がなければ完成だろう。
……目を瞑ると、未だにあの光景が脳裏に浮かぶ。たくさんの銀槍騎士団の鎧に、陽の光を反射してきらめくたくさんの剣。肉を断つ音、飛び散る赤。怒号と悲鳴が錯綜し、寄って集って斬り刻まれ、倒れる……そこまでを考えてぶるりと震え、そして、本当に物音がすることに気付いた。誰かがここに入ってきた? ここの入り口は隠してあるはずなのに?
つい先日、試しにと呼び出してみた魔物に、音のした場所を見てくるようにと命じた。こいつがもう少し賢ければ、もっといろいろなことに使えるのに。けれど、さすが魔神というか、小さく弱いとはいっても並の人間よりはずっと強く恐ろしい魔物だ。
とにかく、今はこの魔法陣を完成させなければいけない。もうひとつだけ息を吐いて、再び目の前の紋様に集中し、続きを描き始めた。
思ったよりも派手な音を立てて、ようやく扉が割れてくれた。鉄枠も分厚い板も、相当ガタが来ていたらしい。
「ちょっと、足が痛いかな……」
軽い痛みに顔をしかめながら、走るのは無理そうだなと考える。だいぶ腐っていたとはいえ、何度も何度も分厚い扉を蹴りつけたのだ。しかも結構な力を込めて。
「ハンゼルに蹴り方教えてもらっておいて、ほんとによかったわ」
ヴィルムはこれ以上お転婆になってどうするんだと言ったけど、ハンゼルはおもしろがって蹴る時のコツや力の入れ方などをひととおり教えてくれたのだ。こんな風に役に立つ日が来るなんて。使うとしたら、町の裏通りでゴロツキに絡まれたときかなって考えてたのだけど。
「まあ、何事も覚えておいて損はないってことよね」
ふふ、と笑い、壁の灯りを外して上に掲げる。扉の向こうをどうにか透かし見たあと、エルナはぺろりと指を舐めて目の前に立て、じっと集中した。
「んー……こっちかな?」
頷き、かすかに風を感じたほうへゆっくりと向かった。
──多少は迷ったかなと思わないでもないけど、通路の先にそれが現れたときは、ものすごく驚いた。町の中はもちろん、森の中ですら見たことのない……。
「あれ、きっと魔物だわ」
出口を塞ぐようにうろうろと漂っているのは、大人の半分くらいの大きさの、コウモリのような翼をはためかせてひらひらと飛んでいる魔物だった。
ということは、自分をさらったのは魔物ということなのだろうか。てっきり、“巫女”だから高値で悪い魔法使いに売れるとか考えた人攫いだと思ってたのに、よりによって魔物だなんて。
ちょっとだけ……いや、本当はかなり迷ってぐるぐる歩き回ったのがよかったのだろうか。とにかく、あの魔物に見つからず、出口が見えるところまでは来れたのだ……肝心の出口を塞がれているけど。
「どうしたら、出られるかな……」
ぐずぐずしてたら見つかって捕まって元の木網だろう。どうにかあの魔物を突破しなきゃいけない。エルナは通路の角に潜んだまま、必死で考えた。物語ではこういうときどうしてた? 自分もヴィルムみたいに魔法を習っておけばよかったのだろうか。それとも、ハンゼルに剣を教えてもらえば、あの魔物をやっつけられただろうか。
「ああもう、そんなこと今更考えたってしかたないし!」
爪を噛んだところで、ふと、ひとつだけ思いついた。あとは正面突破くらいしかないんだし、それよりはきっとマシだろう。
思いついたら即実行と、エルナは足元の石を拾い、自分の潜む場所とは逆側の通路に向かって思い切り投げた。カランカランと転がる音が響き、魔物がこちらを振り向く。
「あいつが来たら走るのよ。がんばって、走って、逃げ切るのよ……」
息を潜めて数を数える。あの魔物が十分こちらへ来たところで飛び出して、いっきに走り抜けるのだ。
「7、8、9………今だ!」
ちょうど魔物が横に来たところで、エルナは飛び出した。足が痛いけど、構ってはいられない。とにかく走れ。力の限り走るんだ。
「……!」
後ろで魔物がよくわからない言葉で叫んだ気がするけれど、振り向いたらきっと転んでしまう。エルナは必死に足を動かした。
「あっ」
ようやく出口から外へ……というところで、何かに足を取られて派手に転んでしまった。勢いのままごろごろと転がっていく。ようやく止まり、また立ち上がろうとしたところで目を上げると、そこには既に魔物がいて……「ひっ!」と声にならない悲鳴が出る。
赤黒く、まるで蛇か何かのような細かい鱗に覆われた皮膚に、じっと自分を見つめる瞳孔のない黄色い目。まるで刃のように鋭く尖った爪と、長く伸びた尻尾……。
「や、やだ……たす、け……」
じりじりと後退るエルナを見て、魔物はかすかに首を傾げ、手を振り上げた。
反射的に頭を伏せてぎゅっと目を瞑り、身を縮こまらせ……なかなか来ない痛みを不審に思ったところで、魔物がキィキィと声を上げていることに気が付いた
「リヒト!?」
顔をあげると、魔物の腕にしっかりと噛み付き、地面に引き倒している黄金色の犬がいた。すぐに後ろから「エルナ!」と叫ぶ声も聞こえてくる。もしかして、助かった?
「ヴィルム! ……レナトゥス様も!」
立ち止まり、息を整えて魔法を唱えようとするヴィルムの後ろからは、剣を抜いたレナトゥスの姿も見えた。
「エルナ、立って走れ!」
後ろでもがく魔物は、すぐにリヒトの牙を逃れて、また空中へと飛んだ。そこへ、ヴィルムが唱えた魔法を放ち、レナトゥスが斬りかかる。
「エルナ! 早く!」
「……た、立てないの」
「どうして?!」
「足が……」
扉を蹴って痛めた場所を、転んでさらに酷くしてしまったのだろう。立とうとしたとたん鋭い痛みに襲われて、どうしても立ち上がることができなかった。
「──レナトゥスさん、エルナをお願いします! 俺が足止めしますから!」
「大丈夫なのか?」
「なんとかします!」
ヴィルムは魔法を唱え、魔物とエルナたちの間に障壁を作った。すぐにレナトゥスは剣を納め、エルナを抱え上げてまた走り出す。リヒトもその後を追う。
「君もすぐに逃げろ!」
「わかってます!」
エルナを抱え上げたまま横を駆け抜けるレナトゥスを確認して、ヴィルムは次の魔法を唱え始めた。宙に浮かぶやつを拘束するには、一度地面に叩き落す必要がある。だからこれを……。
完成した魔法を、魔物に向かって解き放ち……けれど、魔物を叩き落すはずの魔法はなぜか消えてしまった。
「え?」
「あなた、“森の魔法使い”ね」
いつの間にか現れていた魔法使いに、どうして、と言おうとしたヴィルムを、周囲の草や蔦がたちまち縛り上げる。ヴィルムの使う束縛の魔法よりも、数倍強い魔法だった。
「せっかくの100番目の“巫女”なのに、もう一度捕まえなきゃいけないなんて……あら?」
眉根を寄せながら近寄ってきた女はヴィルムをまじまじと見つめた。
「……あなたでも大丈夫そうだわ。思わぬ拾いものね」
微笑む女はまた魔法を唱え……ヴィルムは意識を奪われた。