7.消えた“巫女”
彼女と出会ったのは、彼が自分の研究に手応えを感じ始めた頃だっただろうか。
「あなたの研究しているものに、わたしも関心があるのです。同じものを研究する魔法使いとして、少し情報の交換でもしませんか?」
そう言って彼女が語る内容は、どれも彼の考えに天啓をもたらすほどのものばかりだった。
多少の行き詰まりを感じつつあった彼にとって彼女の出現は福音と呼んでもいいほどで、共同研究者となることをもちかけると、すぐに彼女は了承してくれた。「ひとりよりもふたりで進めたほうが、きっとこれが実を結ぶのも早いでしょう」と微笑んで。
それから毎日意見を交換し、時には戦わせ……彼が彼女をただの共同研究者以上の存在として見るようになったのは、当然の成り行きと言えるだろう。彼女ほど聡明で美しい魔法使いはいない。彼が悩めば的確な意見をくれ、彼女が迷えば今度は自分が最善の意見を述べる。自分は彼女と出会えて本当に幸せだ……できることなら、彼女と一生を添い遂げたい。
「アーガイン、もう少しよ。もう少しでわたしたちの研究も、身を結ぶと思うの。そうしたら、わたし……」
彼女は少しだけ頬を赤らめ、条件付ながらも彼を受け入れ、それから、口付けを交わした。
──約束の口付けを。
「そうだね。これが実を結んだら、その時こそ……アリア、愛してる」
黒くうねる彼女の長い髪を撫でながら、アーガインはアリアにそっと囁いた。
何か冷たいものが顔に滴ったのを感じて、急に目が覚めた。
「あれ……?」
空気はひんやりとして、この季節にしてはずいぶんと肌寒さを感じさせる。冷たく湿った水の匂いもして、もしかして雨が降るのだろうかと考えて……それから、自分が倒れているのが冷え切った石畳の地面であることに気づいた。慌てて起き上がろうとして、腕が拘束されていたことにも初めて気がついた。
「な……私、どうして」
教会を出てからのことを、ひとつひとつ思い出してみる。今日はヴィルムが少し遅くなると言ったから、教会の前で待っていたらリヒに挨拶ができなくなってしまう。なら、ヴィルムのことはリヒと一緒に待てばいいと、先に教会を出ることにしたのだ。たぶん、レナティス様なら構わず一緒に待ってくれるだろうし、そのほうがヴィルムも安心だろう……リヒの散歩コースまでの道に、特に危ない場所はないし、誰かが自分を待ち伏せるようなことも心当たりはない。
「どうしよう、なんで?」
“巫女”なんて、ただの、お祭りを盛り上げるために適当に選ばれてるお飾りなんだと思ってた。毎回、大司教様がこっそりくじ引きか何かでこのあたりの女の子から選んで、それを神託だと発表してるのだと。“巫女”が本当に何か意味を持ってるなんて、考えてもみなかった。
……だから、ヴィルムやおばあちゃんが気をつけなさいと言うのも心配性なんだからと思ってるだけだった。それで毎日ヴィルムが送り迎えしてくれるのはちょっと嬉しかったけど、大袈裟すぎるんじゃないかと考えてたのだ。なのに……。
「どうしよう、さらわれちゃったんだ」
襲われた時のことは、あまりよく覚えていない。突然意識が遠くなって、目が覚めたら今の状況になってたのだ。誰か怪しい人影なんてものも目にしていない。
ヴィルムは気がついてくれるだろうか。明日の朝……いや、夜にうちの親がヴィルムのところへ聞きに行って、それで初めてようやく私のことに気付くんじゃないだろうか。
──気付いたら、私のことを助けに来てくれるんだろうか。
思わず涙ぐんで、それから……ぐっと歯をくいしばる。だめだ、こんなんじゃ。ヴィルムに、それ見ろ、言うことを聞かないから自業自得だぞ、と言われてしまう。いつもの、あの呆れた声で。せめて自分でできることはやらなくちゃ。
冷たい石の床からどうにか起き上がり、自分の今いる場所を見回してみると小さな部屋になっていた。壁に掛けられた小さな灯りが、かろうじて全体に届くくらいの広さだ。エルナの自室とさほど変わらないくらいだろう。壁の一角からはじくじくと水が滲み出ていて、床もしっとりと湿り気を帯びている。扉は錆の浮いた鉄で補強された木の扉だ。壁にも床にもところどころ苔のようなものが生えていて、長い間使われていなかった地下室だろうということが伺えた。町にこんな場所があっただろうか? 少なくとも、エルナが知っている限り、こんな地下室がありそうなのは領主のお屋敷くらいだろう。だけど、領主が自分を捕らえ、縛り上げてこんなところに閉じ込める理由なんて何一つ思いつかない。
背中のほうで縛られた手首の縄をなんとかして緩められないかと動かしてみるが……どうにも固く結ばれているようだ。
「どうしよう」
ぽつりと呟いて、心細さにぶるりと震えてしまう……おばあちゃんもヴィルムもグラールスと森を護る“森の魔法使い”で、だからきっと、魔法でちゃちゃっと私のことだって見つけてくれる。
一生懸命そう考えても、不安は晴れなかった。石畳みの床は冷たくて、横座りになった脚からどんどん寒さが上ってくる。
このままここでじっとしてたら、見つけてもらう前に寒さで凍えてしまうんじゃないだろうか?
慌てて周りをもう一度見回して、割れた石に目が止まった。この、割れて尖ったところに縄を当てれば、どうにか切ることくらいはできるんじゃないだろうか?
「エルナ、帰ってますか?」
エルナの自宅まで走り、どんどんと扉を叩くと、エルナの母親が窓から顔を出した。
「あら、ヴィルム、エルナはまだよ。どこかで寄り道してるのかしら」
「そうですか」
答えだけを確認してくるりと踵を返し、元来た道を戻りだす。
「ヴィルム、どうする?」
厳しい顔を崩さないままのレナトゥスに問われ、ヴィルムは考えながら口を開く。こうまできれいにエルナが消えたということは……。
「いつもの道を戻って、途中に何かないか探します」
レナトゥスも「やっぱり、まずはそれだね」と呟き、ふたりはそれきり無言のまま元の道を戻り始めた。エルナがいつも帰りに通る道を逆に辿りながら、ヴィルムは時折魔法をかけなおす。レナトゥスも、道に何か痕跡が残されていないか目を皿のようにして探った。
そうやって、暗くなり始めたころ見つけたのは……。
「魔法の、痕跡だ」
いつもの道に、不自然に残された魔法の跡。感知魔法を使って念入りに見なければわからないくらいの……。
「魔法?」
レナトゥスも眉を潜めてヴィルムのそばへと寄る。いったい、誰が何の目的で……。
「エルナは、魔法使いにさらわれたのか?」
「やっぱり、魔法使いが関わってるんだ」
レナトゥスの疑問に頷きながら、ヴィルムは考えた。こうまで誰にも気取られずにエルナをどうにかするなんて、普通の手段では無理だろう。それに、相手が魔法使いだとすると、それなりに熟練した者だとも思われる。そうでなければ、感知魔法をかけっぱなしにしている魔法使いのいる町で、こんなに巧妙に魔法を隠すことなんてできない。
「リヒト?」
突然レナトゥスが声を上げた。ヴィルムが目をやると、リヒトが急に駆け出していた。いきなり強く紐を引かれ、よろけたレナトゥスはリヒトの紐を離してしまう。
「リヒト、待て!」
レナトゥスは慌てて紐に手を伸ばすが間に合わない。追い縋る騎士をするりと躱して一目散に走る犬に、ヴィルムも一瞬だけ呆然とする……が。
「──レナトゥスさん、エルナだ! エルナだよ!」
ヴィルムの言葉に瞠目し、次の瞬間にはふたりで犬を追って走り出した。そのまま町を出て……門で慌てる警備兵に、レナトゥスが「巫女が消えたと教会に伝えてくれ!」と一言だけ叫んでふたりはそのまま走り去ってしまった。