9.お手伝い
「ああ、やっぱり! ウルス、教会の犬ですよ!」
「……なんで犬がここにいるの?」
ひとり残った“森の魔法使い”の弟子の名前を呼びながら小さく縮こまっている“巫女”を抱え、リヒトの後を追うように歩くレナトゥスの前方から、のんびりとした男女の声が聞こえてきた。フードを目深にかぶり、顔もあまり見せないふたりに一瞬警戒するが、その柔らかい声と尻尾を振るリヒトの様子に、問題はなさそうだと思い直す。
「……すみませんが、このあたりに、休める場所はありませんか。この子の手当てをしたいのです」
「騎士さんも一緒なんですね。やっぱり何かあったんですか?」
「さっきまで結構な魔法を感じてたのに、また気配が消えたんだ。たぶん、魔力隠しが得意なんだろうね」
レナトゥスたちが来た方向を伺いながら、男の方が首を捻る。
「……あの、ヴィルムを助けてください! まだ追いついて来ないんです!」
「ヴィルムくんて、パメラちゃんの弟子のヴィルムくんですか?」
フードの奥で、目がきらりと光った気がした。ふたりは顔を合わせ、「まずは手当てを先にしましょうか。ついてきてください」と言った。
ウルスとソーニャと名乗るふたり組に洞窟を整えたのだという立派な屋敷に案内され、ふたりが目深に被ってたフードを取ると、さすがのエルナとレナトゥスもぽかんと呆気に取られて言葉を失った。
細長い瞳孔に尖った長い耳、頭に生えた2本の角……黒と金の2色が並ぶさまに、息を呑む。
「噛み付かないから大丈夫ですよ?」
驚き固まるふたりにそう笑いかけ、中へと招き入れた。
手当てを受けながらあの地下室と魔物の話をし、治癒の魔法までかけてもらうと、エルナの怪我はすっかり良くなっていた。もう歩いても走ってもなんともないだろう。リヒトが寄ってきて、擦り傷の消えたエルナの手をぺろりと舐めた。
レナトゥスとエルナ、ふたりの話にソーニャもいくつかの魔法を唱えてから、安心させるように笑う。
「事情はなんとなくわかりました。大丈夫、さっきの魔法でヴィルムくんの気配はちゃんとあったし、無事ですよ。だから、諦めないでヴィルムくんを助けて、魔物をやっつけましょうね」
もふもふもふもふと黄金色の犬を忙しなく撫で回しながら彼女が言うと、同じように撫で回しながらエルナも力強く頷いた。
「ヴィルムはあたしのこと助けに来てくれたんだもの、今度はあたしが助けに行かなきゃ」
「魔物はあれだけでしょうか。このあたりでは見たことのない魔物でしたが」
レナトゥスが考え込むようにそう述べると、ウルスが「たぶん、それは魔物じゃなくて魔神だよ」と呟いた。ソーニャの後ろで、渋面を作って彼女を眺めながら。
「魔神? しかし、魔神は伝説の中にしか……」
「たまにね、こういうことがあるんだ。この森にはそういうところが多いみたいでね」
ウルスが肩を竦めると、レナトゥスは感慨深げに「では、あの伝説はただの伝説ではなかったのですね」と噛みしめるように呟いた。
その間にも、エルナとソーニャが犬を撫でる手は止まらない。
「エルナちゃんのその勢い、わたしは好きですよ」
にっこりと笑いながらもしゃもしゃと撫で回していると、そのうち犬はお腹を見せてごろりと横になってしまう。すっかり寛いでいるようだ。
「リヒも手伝ってくれるよね」
わしわしとお腹のあたりを撫でながらエルナが犬の顔を覗き込むと、ぺろりと鼻の頭を舐められた。
「この犬はリヒって言うんですか?」
「教会の犬は、代々リヒトって名前で決まってるの。光り輝く御使いの竜に連れられてやってきたから、光って。この子は確か60代目くらいのリヒトかな」
「あの犬がこんな風に大切にされて続いてるなんて、素敵です」
にこにこと笑顔になりながら、「毛の感触もそっくりですし」とソーニャは続けた。
「あの犬?」
「はい。昔、ここに迷い込んできた黄金色の犬がいたんです。主人に返そうと思ったはずが、ウルスが教会に渡しちゃったんですよ」
くすくすと笑うソーニャに、何か妙なことを聞いた気がしてエルナの手が止まる。レナトゥスを見ると、彼も何かすごいことを聞いてしまったような顔で、瞠目していた……けれど、ま、いいかと気にせずまたエルナは犬を撫で始めた。犬のお腹の毛はひときわもふもふでふわふわで柔らかくて暖かくて、触ると幸せな気持ちになるのだ。
「ソーニャ、犬はそのへんで終わりにしよう」
背後からウルスがソーニャの腕をぐいと引っ張った。「あ、もふもふが」と手を伸ばすソーニャに構わず、自分の方へ引き寄せる……渋面を浮かべたまま。その表情に、あ、そうかとエルナは思いついて、ついくすくす笑ってしまった。
「……ウルスさん、ソーニャさんがリヒばっかり構うから、やきもちね」
「えっ」
とたんに赤面し、「べつに、そういうわけじゃないよ」と少しふて腐れるウルスに、エルナは「やっぱり」とくすくす笑う。それから、よし、と頷いて、もう一度だけリヒトの長い毛をわしゃわしゃ掻き混ぜた。
「うん、ちょっと元気が出てきた」
リヒトを撫でると頑張ろうって気持ちになる。さすが太陽と正義の神の御使いの犬だ。
「あたし、ヴィルムを助けに行ってくる」
「私が行く」
立ち上がるエルナを止めるように、レナトゥスが手を伸ばした。
「だから、“巫女”殿はこのことを町へ知らせてくれ」
「でも、レナトゥス様ひとりで行くんですか?」
「……お手伝い、しますよ」
ソーニャはうふふ、と笑った。
「ね、ウルス?」
「ソーニャがそう言うなら」
少し憮然としたままのウルスも頷く。
「でも、相手は魔物……魔神? だし、ソーニャさん、たまたま手当てしてくれただけで、町の人じゃないのに……」
「魔神相手は得意なんです。任せてください。ね、ウルス」
「僕らがついていったほうがいいだろうね。それに、“森の魔法使い”の弟子なら、僕らもまったく無関係ってわけじゃないし」
「そうなんですか?」
不思議そうに見上げるエルナに頷いて、一緒に行きましょう、とソーニャは手を差し伸べた。
「急がなきゃ」
“巫女”に逃げられてしまった。代わりになるものは手に入れたけど、すぐにでも、守るものといるものには気付かれてしまうだろう。そうしたら、これは失敗してしまう。
描き上げたばかりの魔法陣を、それでも念入りに確かめて、これで大丈夫だろうと頷いた。染料や埃で汚れた手で汗の浮いた額を拭い、息を吐く。
それから、部屋の片隅で、気を失ったまま転がっている“森の魔法使い”に目を向けて……彼から感じるこの感覚は、たぶん間違いなく、この地にいるものの血筋だということを示していた。本当は100人目の“巫女”が最高だけど、きっと彼でも代償としては十分なはずだ。
カツカツと靴を鳴らして“森の魔法使い”に近づき、ずるずると用意した台座のほうへと引きずった。さすがに体格のできてきた男の子は重く、ひとりで持ち上げるのはかなりの骨だ。こんなことなら、強化魔法ももう少し習得しておくべきだったか。小さな魔神にも手伝わせ、どうにか台座の上に引き上げたときには、かなり息が荒くなっていた。
もう一度額の汗を拭い、魔法陣の傍らに置いたままだった本を取る。腰に付けていた、複雑な模様を彫り込んだ銀の短剣を片手に持ち……そこで、ばたばたと誰かが来る気配がして、部屋の扉が開いた。
「アリア! 無事か!? ……アリア?」
「アー……ガイン」
ひゅっと息を呑み、振り返ったままの姿勢でアリアは固まった。
扉を開けたアーガインは、無事なアリアを見て安堵し、それから足元の魔法陣と傍らに浮かぶ魔神、台座の上に乗せられた少年を順番に見て、たちまち厳しい表情になる。
「彼は、ヴィルム……? アリア……いったい、何をしようとしてるんだ、君は」
「どうして、ここに」
「もう日が暮れるのに、君がこんな危険な森の中にいるとわかったから、迎えに来たんだよ」
厳しい表情のアーガインが、ゆっくりとアリアへと近づいていく。その後ろには剣を抜いたハインも従い、魔神に油断なく注意を払っていた。
「そんな、なんで……」
「いや、そんなことはいい。何をしてるんだ、アリア。ヴィルムを使って、君は──」
「……あなたには、関係ないことよ」
「アリア!」
「VOHDRS……この人間たちを、排除して!」
アーガインたちを指差し、まるで悲鳴のように命令を放つと、傍らに浮いていた魔神は待ちかねたとでもいうように、爪をぎらりと光らせ、閃かせ……ギィンと金属が打ち合う音に阻まれた。
「アーガインさん、どうするんですか!」
ギリギリと剣で爪を止めてはいるものの、力勝負は向こうに分がありそうだ。小さくてもこれが魔神ということだろうか。
「アリア!」
魔法の障壁を張り巡らせるアリアに、アーガインが「やめるんだ、アリア!」と叫んだ。




