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完全に雷鳴が通りすぎて、しんとするほど静かになってから。フラリと食堂へ入ったシーヴに、誰も何も言わなかった。
いつもシーヴが座る場所に、ヴァルトが黙って食事を用意する。
「遅くなってすまなかった」
謝ってから椅子に座り、シーヴはゆっくり食べ始めた。ユリアは食器を洗うために、調理場へ入っていく。二人を残して、他は自室へと引き上げた。
シーヴが来て、二年。そこまでは、この季節になると、シーヴがやたらと昼寝をして夕食の時間に遅れると思われていた。しかし、それが毎年続くと、リクやユハナでもさすがに察した。
自分たちには馴染み深い雷を、怖がっているのだと。
誰しも苦手なものくらいある。だから、そのことには触れないように。気づいていることを、本人に知られないように。そつなく振る舞うことが、いつしか暗黙の了解になっていた。
カチャカチャと、食器がぶつかり合うかすかな音を聞きながら。シーヴは、匂いだけでなく見た目まで甘ったるいパンを、もそもそと食べる。
長い髪を、ユラユラと小さく揺らして食器を洗うユリアの、後ろ姿をぼんやりと眺めた。
シーヴから見れば背が高く、スラリとしたユリアであっても、性別を間違える人はいない。シーヴは逆に、短い髪と似た顔立ちから、誰もが真っ先にユハナを連想してしまっていた。
髪型が変わるまで、私服の後ろ姿はユハナそのものだったのだから、そこは仕方がない。
手入れが面倒だから、髪を伸ばす選択肢はないくせに。何となく、ふわふわと揺れる長い髪が、無性に気になって仕方がない。
真っ直ぐ立つと、絶対に肩に触れない自分の髪を、左手でちょいとひと筋つまんで。シーヴは右手で持っていたパンの残りを、強引に口へ押し込んだ。
「ごちそうさま」
空にした皿を重ねて、ユリアのそばに置く。
(訓練でもしてくるか)
考えごとは、どうも性に合わない。
縮こまっていた後と、頭を真っ白にしたい気分の時は、無心で体を動かすに限る。
いつもならば腰に下げている剣を確かめようとして初めて、そこに何もないことに気づいた。
(……剣を、忘れた?)
これまで、一度もしたことのない失態に。やけに体が軽いことへの違和感に、まったく気づけない自身に。
シーヴはザッと青ざめて、震える左手で口を覆う。
「どうしたの?」
様子がおかしいと振り向いたユリアが、何か尋ねてくる前に。シーヴは何も答えず、厨房を飛び出して自分の部屋へと駆け戻った。
勢いよく開けたドアを思い切り閉め、ドアにしっかり背を預けてため息をつく。
何気なく視線を左側の壁に向ければ、部屋にいる時の定位置に、愛用の剣が置かれている。
うっかりがないようにと、ドアの真横──自分の目線とほぼ同じ高さに、わざわざ置いている意味がなかったらしい。
「僕は、ここにあるものを忘れていけるのか……」
ふうっと息を吐き出してから、シーヴは体をひねって剣をグッとつかんだ。
剣帯に差し込んでもいいのだが、どうせ素振りから始めるのだ。このまま持って歩けばいい。
そんな気分で、右手につかんだまま、そっと部屋を出た。
すでに外は暗くなり始めている。けれど、クタクタに疲れ果ててしまわなければ、考えごとに振り回されて眠れそうになかった。
‡
シーヴが妙な表情を見せて、慌ただしく走り去った。そのことがどうにも気になって、ユリアは首を傾げながら階段を上がっていく。
どうやらシーヴは、誰にも、胸のうちを明かすつもりがないらしい。
もう、六年近いつき合いだ。その程度はわかる。
シーヴからの信用がないとは、もちろん思っていない。
単に、シーヴ自身が理解していないから、腹を割って話せないだけだろう。こういう時は、問答無用で年長者に放り投げることが得策だと知っている。
「お母さん、ちょっといい?」
言葉で巧みに言いくるめるならば、断然アハトが向いている。しかし、今のシーヴに必要なものは、彼女の心を静かに聞くことのできる人間だ。
シーヴが気負うことなく、素直に話せそうな。しかも、今すぐ都合のつく身近の大人といえば、母しか思いつかない。
「珍しいな。どうした?」
相変わらず優しい声に、肩からフッと力が抜ける。
「あのね、シーヴの話を聞いてあげて欲しいの。何か悩んでるっていうか、混乱してるっていうか、絡まってるみたいだから」
「シーヴが?」
「うん……私たちには話せないみたい。私、シーヴが剣を忘れて部屋を出てくるなんて初めて見たから、本当は私が力になりたいけど……私にも話してくれないんじゃ、さすがにどうしようもないから」
やや沈んだユリアの声を聞きながら、ソーニャは小さく苦笑した。
元々シーヴは、大して深く悩む性質ではない。その彼女が、迂闊にも剣を忘れて部屋を出てくるのは、異常事態としか受け取れないのだ。
「それとなく聞いてみるが、話してくれるかどうかはわからないぞ?」
「うん、いいの。わかっても、お母さんの中にしまっておいてね。私は、シーヴが話してくれるまで待つから」
そう言って、ユリアは元来た道を戻っていった。
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この場所を知っているのは、王族用の居住棟に暮らす者だけだ。だから、どこよりも安心していられる。
王城と居住棟から、少し離れた木立の中で。シーヴはギュッと膝を抱えて、大きな木の根元に座り込んでいた。
どうしても、剣を振るう気になれなかったのは初めてだ。
「──っ!」
かすかな草を踏む音に、シーヴはビクッと全身を警戒させる。彼女の耳に、高くも低くもない落ち着いた声が届いた。
「シーヴ、ここにいるんだろう?」
「……伯母上? なぜ……」
「少し、話をしないか?」
探しに来た理由を問いかけようとするが、あっさり遮られる。
「シーヴは、なぜ騎士になりたかった?」
思いがけないことを聞かれ、すぐに答えられなかった。
「マルグレットに、私のようになれと言われていたから、か?」
それもある。だが、それだけではない。
頷いてからシーヴは首を横に振り、一度深呼吸をしてから、ゆっくり口を開いた。
「剣が好きだからです。訓練している間は、嫌なことも忘れられた。伯母上のように強くなれば、自由に生きても文句を言われないと思っていた」
だから、もっと強くなって、自由を確保したくて、この国へ来たのだ。
「ここへ来て、自分のためだけでは強くなれないことを知りました。伯母上たちはみな、守りたい人のために強くあろうとする。だから、誰よりも強いのだと」
来た当初は、エリサに何度か、エルミの騎士になる気はないかと尋ねられた。今でも、ふと思い出したように聞かれることがある。
それでもまだ、決心はつかない。
「僕には、守りたいと思うものがない……」
うつむいたシーヴに、ソーニャは母親の優しい笑みを向けた。
「私が五歳の時、孤児院から歩いていける村がひとつ、呆気なく消えた」
唐突に語られ、シーヴは思わずソーニャを見上げる。
「幼い私は、孤児院で、みんなと寄り添って、ただ震えているしかできなかった。失われた命を嘆き、悲しみの涙を流す、よく知った人たち。彼らのような人を二度と見たくなくて、できれば守りたくて、私は剣を取った。その気持ちは、今も変わらない」
穏やかな表情の中で、瞳だけが。はるか遠い昔の痛みへ、心を馳せているようだ。
「実は、王女騎士になることを打診された時、私の願いとは違う道へ歩くことになるのでは、と不安になり、ひどく迷った。お母さんに、王女騎士として名を馳せることで、守りたいものを守る方法があると諭された。だから私は、姫様の騎士になったんだ」
王都の目が届かない地方の荒れ様は、悲惨のひと言に尽きる。
いつだったか、エリサがそう言っていた。
今では、国境近くにも、リュイスやリクのおかげで目が届く。ソーニャが騎士を目指した頃よりは、治安はずっとよくなった。
「幼い私が願った世界が、姫様たちの尽力で、ほぼ現実になりつつある。そのことが、私は何より嬉しい」
見ているだけで、胸がギュッと締めつけられるほど。
ソーニャの表情は穏やかで優しくて、切ない。
「守りたいものは、人それぞれだ。知っているか? リュイスは、リリヤとリクが守れるならばそれでいい、と常々言っているし、アハトは論外だな」
「論外……」
ついつい苦笑してしまう。
もっとも、四六時中、視界にソーニャしか入っていなさそうなアハトだ。論外扱いも仕方ない。
「たとえば、考え方を変えてみるのも手だな。自分の身近な人間を助けたい。そう考えれば、強くなる理由にもなるだろう?」
身近な。
その瞬間、なぜかヴァルトの顔が浮かんだ。ほぼ同時に、先日の少女が、ふわりと過ぎる。
グッと痛みを堪えるような、苦しげなシーヴに慈しむ視線を投げて。ソーニャはシーヴの頭を、そっとなでた。




