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イリニヤの元へは、毎日リクが訪れている。それでも、彼女は月に一度ほど、定期的に王都へやってくる。
最近は、それほど奇異な目で見られなくなってきたらしい。どことなく嬉しそうに、そんなことをポツリとこぼしたのはつい先ほど。
「……それにしても、アハト様。あなた、何でもう引退準備に入ってるんですか?」
一緒に喜ぼうと思った矢先のそんなひと言に、アハトは力なく苦笑いをこぼす。
暖かな日が降り注ぐこの部屋は、居住棟四階の空き部屋だ。ここにいる間は、ドアをきっちりと開け放してある。
「まだ引退はしないよ? というか、今そうなると、いろいろ怖いでしょ?」
「そうですよね。エルミ様もまだ十歳になったところですからね。だからこそ、何でアハト様がこんなところで、子守にいそしんでいるのかが気になるんですけど」
「え? だって、この子たち、本当に可愛いんだよ?」
アハトが小さなベッドに並べている赤子たちを、イリニヤも覗き込む。そして彼女は、盛大的に大げさなため息を吐き出した。
「……色のわからない私にも、この子たちが、ソーニャ様によく似ている気がするんですけど」
「ああ、わかる? 色が見えたらもっとそっくりだって思うよ? 特にラハヤちゃんは……っと、こっちの子ね。この子は見た目はもう、ソーニャさんそのものだから!」
「……あなたは変態ですか」
区別をつけたいのか、イリニヤは必死になって二人の赤子を見つめている。
今、二人はスヤスヤと寝息を立てている。この状態では、ほとんどの人間には区別がつかないだろう。
恐らく、親たちでも間違えるのではないか。
そんな状況なのに、まだ一度も間違えたことがない。それが自慢になるのかどうかは、アハトにはわからなかった。
「ちなみに、もう片方はラーケルちゃんっていって、まあ、魔術師になるだろうね。なかなかいい魔眼の持ち主だから」
「……ということは、ラハヤがユハナ様の、ラーケルはヴァルトの子ですか?」
「うん。二人とも、生まれた日が近いからね。仲良しになるんじゃないかな? ほら、どっちの性格に似ても、うまくやっていけ……る、んじゃ……ない、かな……?」
最後に自信がなくなったのは、中途半端に父親に似た場合を想定したからだろう。そちらは、あまり他者と混ざり合う性格ではない。
ソーニャに似て、優しくて綺麗で強い少女に育つだろう。そんな二人に、あまりに生きにくい性格には、できればなって欲しくなかった。
「じゃあ、予想しておきますね。ラハヤはきっと、ユハナ様とシーヴを足したような子になるでしょう。のんびりして、おっとりして、その上訓練好きです。で、ラーケルは、シーヴにヴァルトの厄介なところを追加したような、微妙な感じになるんじゃないでしょうか。おっとりしている印象に反して、頑固でたくましく、ついでに訓練は大好きでしょうね」
「……ああ、想像できる……できるから、それはやめて欲しいな……」
二人の間で完成されてしまうと、他が立ち入る隙がなくなってしまう。
すでに上がいるラハヤはともかく、まだこれから弟妹が生まれるかもわからないラーケルは、本気で不安しか残らない。
「仕方ないですよ。コスティはどう見ても、色は無理ですから」
「……君は、本当にバッサリとひどいことを……」
ラハヤの兄であるコスティは、かろうじて魔術師になれる魔力はある。だが、それだけだ。決して、優秀ではない。
凡人がどんなに努力したところで、生まれながらの天才には勝てないのだ。
果たして彼は、妹とほとんど変わらない魔術師を身近で見ながら、強く生きていけるのか。そこだけが、心配と不安の尽きない点だろう。
「姫もわかっているみたいでね、殿下には八年後をめどに結婚を勧めるそうだよ。まあ、この二人が青を着てくれないと、この後がどうなるかわからないしね」
八年後ならば、エルミは十八も半ばだ。結婚するには少し遅い年齢ではあるが、早々と次代の女王が生まれてもらっても困る。
それゆえの、八年後だ。
「ちょうどいいですよね。九歳から十二歳でしたっけ? 一人目がハズレでも、二人目に期待できる、ギリギリの時期ですから。もし両方ハズレだったら……諦めるしかないですけどね」
「……その、歯に衣着せない物言いって、セーデルランドのものなのかな?」
「そうだと思いますよ? 一族でも、受け継いだ者しかこうならないみたいなので。そういえば、ヴァルトやシーヴも時々、ひどいことをサラリと言いますね」
「……ユハナは、言わないよ?」
どちらかと言えば、言わないのではない。口を挟む暇がないのだ。それほど、周りに口が達者か、思いつくままに言葉をつむぐ者ばかり集まっている。
そんな中で、やはり何気なく、悪気なく言い放つソーニャもいるのだから、やはり生まれ持った性格なのか。
あれから年月が過ぎて、その傾向はますます顕著になっているようだ。
「一応、殿下に娘が生まれる前には引退する予定なんだけど……さすがに、青が何人もいるのは、ね?」
「青がいないことはあっても、二代に渡って存在したことはないんでしたっけ?」
イリニヤの生まれ育った一族というのは、情報収集に長けた者の集まりでもある。そのおかげか、彼女もほぼ把握しているらしい。
「これまで一度もなかったのは、現王女とその娘の青が同時に存在することだね。他は、どこかであったらしいよ」
青衣の従者がいないことはもちろん、ほんの一時だが、紫衣が不在だったこともある。紫衣が二人きりの代もあれば、最大人数を有した女王もいた。それでも、二代の青衣が同時に存在したことだけは、これまでになかったのだ。
「じゃあ、せっかくだから、エルミ様は王女のまま娘を産んでもらいたいですよね。何かしら、歴史に名を残しておきたいじゃないですか」
「……いや、それって、姫が長居したって話にしかならないでしょ?」
「いいじゃないですか。後々の次代に、そういえば青が二世代同時に存在したことってあったかな? って話になった時、エルミ様のお名前が出るんですから。他はどうしようもなく目立たないでしょうから、そのくらいはいいじゃないですか」
時々、イリニヤに話が通じないと思うことがある。今もそうだ。
それでも彼女は、こうして城まで来ては、顔を見せてくれる。巻き込んでしまった身としては、それだけでもありがたい。
「ぇ……」
「あー、ラーケルちゃんだね。はーい、ここにいるよー」
かすかな泣き声の兆しに反応し、デレデレしながら、とろけそうな甘ったるい声で呼びかける。そんなアハトに、イリニヤは冷ややかな視線と表情を向けた。
こんな彼を見て、いったい誰が、筆頭女王魔術師だと信じてくれるというのか。
そう言いたげなイリニヤには目もくれず、アハトは泣きそうになった赤子をあやしにかかる。
「というか、どうしてアハト様が子守をしているんですか? シーヴはともかく、サーラが放っておくなんて、ちょっと信じがたいんですけど」
サーラはコスティに対して、少しばかり過保護なところがある。将来が心配になるほどではないが、今のところ、コスティは甘えん坊だ。その調子で、ラハヤにもベタベタくっついていると思われても、確かにおかしくはない。
シーヴに関しては、まったく想像がつかなかった。だが、手元に戻ってきている間は、かいがいしく世話を焼いているらしい。幸せそうに笑いながら、ヴァルトがたまに触れ回っている。
そんな二人から、日中の一時とはいえ、強引に取り上げてしまっている気分になることもあるのだ。
「俺がやりたいって頼んだんだよ。だって、ラハヤちゃんなんて、どう考えても小さい頃のソーニャさんそのものに近い見た目なんだよ? 俺が知ってるのは、十二歳のソーニャさんから今までだからね。ラハヤちゃんを見ながら、どうだったのかなって想像して楽しむくらいは、してもいいと思わない?」
スヤスヤと、よく寝る子だったのか。それとも、人がいなくなるとぎゃんぎゃん泣いて困らせる子だったのか。
当時のソーニャを知っている者はいる。けれど、彼らに聞いて正解を知りたいとは思わない。
呆れ果てたように、イリニヤが重々しくため息を吐き出した。
「思いません。そもそも、そんな変態じみたことを、ソーニャ様たちがよく許可しましたね」
「俺の腕は確かだからね。といっても、コスティくんと違って、ご飯以外は寝っぱなしの、本当にいい子たちだけど」
「……ほら、私の予想も、あながち外れているとは言えないですよね」
「君の予想は、外れて欲しいんだよ」
これ以上、訓練が好きで、他人の好意どころか自分の気持ちにも疎い人間が増えては困るのだ。
さすがに、命を狙うようにはならないだろう。そう信じたい。
だが、ラーケルがどこまで強くなるかによって、ラハヤの強さも変わる。どちらも素質はかなりいいものがあるのだから、伸ばそうと思えば伸びるはずだ。
ソーニャとは言わなくとも、ユハナ並の騎士になったら。
「俺としては、見ていて嬉しいけどね……次を考えると、憂鬱にしかならないでしょ?」
「そこは、なるようになるんですよ。ソーニャ様も、ユハナ様も、シーヴもヴァルトも、どうにかなったじゃないですか」
「……なるといいんだけどね」
「アハト様」
開け放していたドアの外から、声がかかる。ふと見れば、イェレミアスが書類の束を抱えていた。
「あー、来たか……しょうがないね。今日はこれで、ラハヤちゃんとラーケルちゃんの見納めかな?」
「なるほど。ユリア様に書類仕事を押しつけて、アハト様は印を押すだけなんですね」
「そういうこと。俺の仕事が一番わかりやすいし、ユリアじゃ判断がつかないやつは、そのまま俺のとこに回してくれればいいって言ってあるからね。決められなくても、読んで、後でどうしたかを教えれば、きちんとユリアの身になるから」
「で、空いた時間で、孫相手に妄想ですか。本当に最悪なおじいちゃんですね」
うっ、と声を詰まらせたアハトに、イリニヤがニヤッと笑う。しかしすぐに、彼女は怪訝な表情へと変わる。
「……ラハヤちゃんにだったら、おじいちゃんって呼ばれたいね」
「……本当に、救いようがない変態ですね」
ボソリと呟いたイリニヤに苦笑いを向けて、アハトはドアの外で待つイェレミアスのところへ向かう。書類を受け取り、もう一度赤子たちの顔を覗き込む。
「これで、サーラちゃんかシーヴちゃんが来たら交代だね」
「じゃあ、私はその前に退散しますね。今月は、どこか、特に見ておいて欲しい場所はありますか?」
「ハハリ地方をお願いしていいかな? 消えたはずだけど、どうなっているかが気になるから」
「わかりました。情報を集めてから向かいますね」
にこやかに微笑んで、イリニヤはクルリと背を向ける。
何も言わなかったが、恐らく彼女は、いずれ成長したこの赤子たちに、今の話をするつもりだろう。
それはそれで一向にかまわないと、アハトは思う。
この手で守りたい大切なものは、時が過ぎるほどに増えていく。けれど、いまわの際に、すぐそこにいて欲しいと願う存在は、いつまで経っても変わらない。
(早ければ、あと十数年かな?)
ソーニャの父親代わりだった騎士イストが、旅立った年齢。エルミの年齢を考えれば、自由になってからそこまで、それほど長くない。もちろん、それ以上に生きるつもりはある。
(命の長さは、決まっているものだからね……俺は、少しでいいから、ソーニャさんより長く生きられるのかな?)
あの、寂しがり屋で、大切なものを失うとひどく落ち込んでしまう彼女より、一日でいい。遅れて旅立てるように、今から毎日、願い続けなければ。
彼女をこれ以上泣かせてしまうことだけは、どうしても避けたいから。