ボスの嫌いなその名前
その日から数日後。
「タルテッサ・ファミリーから、会食の申し込みが来たって本当っすか!??」
玄関ホールに響き渡った声は、つい最近本部屋敷配属になった新人の組員のものだった。
「あ…馬鹿、ここでその名前を口に出すな!」
他の組員の制止も空しく、あたしとボスは丁度そこを通りがかっていた。
ボスの眉間には、あからさまに不機嫌な皺が刻まれる。
「ボス、今日もお疲れさんですっ」
何も知らないその組員は元気よく挨拶したけど、ボスはその存在にも気付かないフリをして横を無言で通り去った。あたしはその半歩後ろを歩きながら、不安な表情を浮かべるその組員に「お疲れさん」と声をかけてやった。
ボスが角を曲がると、後ろで強い拳骨が振り下ろされる音がした。大方、若い組員が隣にいた組員に叱られたんだろう。
あの日から、“タルテッサ”の名前は、この屋敷では厳禁用語となっていた。
聞いた瞬間に、ボスの機嫌が最高に悪くなること請け合いの言葉。
最初にそのとばっちりを受けたのは、それまで一番ボスに懐いて仕事をしていた執務室の秘書官だった。可哀想に、その日の業務を途中で切り上げて帰るほどの落ち込みようだった。
その次は、古参の幹部の一人だった。
昼食を交えた会議の後、世間話の延長で話をしていたはずが、ボスは勝手に席を外してそのまま、日没を過ぎても誰の前にも姿を現さなかった。
そして5日目にもなる今日には、屋敷中に“タルテッサ”禁止の命が暗黙の了解で届き渡っていた。普段は寛容で温厚で、めったなことでは不機嫌になったことのないボスの豹変ぶりに、本部屋敷はピリピリしていた。
それにしても…タルテッサ・ファミリーとの会食の話なんてあたしは聞いてない。
まさか、あたしに内密にしたままにしようとしていたのか。
おそらく、こちらのボスを呼んでの会食ともなれば、あちらのボスも出てくると分かっているから…。
黙って前を歩くボスを睨んでいると、「来週だ」と言われた。
「は…なんて?」
聞き返してから、そりゃ会食の日のことだよな…と思い当たる。
「気になるんだろ、会食の日程が」
「あ…いや、んなことねーよ」
「…お前は連れて行かないからな」
あたしはまだなんも言ってないのに、ボスは先に釘を打った。けど、あたしも別について行くことを考えたりはしてなかった。
あたしには今、あの男との関係よりも、ボスとの関係の方が大切だったから。
その『大切』という思いに何が含まれているのかまでは、よく考えないままだったが。
「ああ。その方が良いだろ」
間を置かず答えたあたしの回答が想定と違ったのか、ボスはそこで足を止めて振り返った。
「…なんだ、行きたくないのか」
振り向いた顔には驚きがありありと見えていて、口元にはかすかに笑みも見えるようだった。
「行かねーよ。
大体あたしには、今そんな暇はねーんだ。屋敷にはひよっこの組員が大量に就職してきたばかりだし、あちこちの調書の整理もまだ全然進んでねー。
それに、ロッソ プローヴァのボスが本部を開けてる間、誰が屋敷の面倒を見ると思ってんだよ」
とん、とボスの胸にあたしの拳を当てて、本当に会食に興味はないと、それよりもボスを支える今のあたしを優先するという意思をアピールする。伝わったか…?
そのまま止まっているのもなんか気恥ずかしくて、あたしは先に歩き出す。
ここ数日のもやもやも晴れたようで、ちょっとすっきりしてた。
「マリアッ…!!」
後ろから、抱きすくめられた。
「行くなっ…何処にも行くな!!!」
嬉しいんだか辛いんだか喜んでるんだか悲しんでるんだか分かんない声があたしをすっぽり包み込んでいた。以前よりずっと、子供のような激しい独占欲を見せるようになったボスにあたしは母性本能、というやつをくすぐられたのかもしれない。
とりあえず、あたしの居場所はここだと、ボスの手を包み返してそう信じた。