9 裏切りの聖域
「――やめて。聞きたくない……!」
リーゼロッテの叫びは、結晶化し崩れゆく宿屋の轟音にかき消された。
視界に入るものすべてが、毒々しい紫の輝きを放つ鉱石へと変貌していく。かつて彼女に野菜を分けてくれた老婆も、共に笑った子どもたちも、今は物言わぬ美しい彫像と化し、エリオットの振るう聖剣の破片が放つ波動に共鳴して、微かな音を立てていた。
「素晴らしい。これこそが陛下が夢見た『聖魔融合』の極致。リーゼロッテ様、あなたは今、ご自身が最も愛したはずの日常を、ご自身の力で『永遠』に封印されたのですよ」
エリオットは、阿鼻叫喚の地獄絵図を、まるで名画を鑑賞するかのような陶酔した瞳で見つめていた。
「人間は死ねば腐り、記憶は薄れる。しかし、あなたの漆黒の光によって結晶化した彼らは、概念として永遠に固定される。これこそが救済。これこそが真の平穏だと思いませんか?」
「ふざけるな……ッ!」
ゼファードが地を這うような低音で吼えた。
彼の背後に広がる一枚の漆黒の翼が、怒りに呼応して巨大な影を地面に落とす。
「リゼの心を弄ぶのは、そこまでにしろ。……貴様ら人間は、どこまで強欲になれば気が済むのだ!」
ゼファードが指先を弾くと、漆黒の炎が槍となってエリオットを襲った。
しかし、エリオットは動かない。彼が掲げた聖剣の破片から放たれた「拒絶」の光が、魔王の炎をいとも容易く霧散させた。
「魔王陛下、忘れないでいただきたい。その破片には、リーゼロッテ様の『心の一部』が封じられている。……あなたが私を攻撃するということは、彼女の魂を直接切り裂くことと同義なのですよ」
「……っ、卑怯な……!」
ゼファードの動きが止まる。
その隙を見逃さず、エリオットは呪文を紡いだ。
「――虚空を裂き、因縁を呼び戻せ。裏切りの果てに待つは、忘れ去られた神の庭。転移門、開門!」
村の広場、結晶の棘が最も高くそびえ立つ場所の空間が、鏡が割れるように粉砕された。
そこから漏れ出してきたのは、かつて二人が過ごした「精霊の聖域」によく似た、けれど、より冷たく、淀んだ空気。
「さあ、お帰りなさい。あなたたちの本当の戦場へと」
逃れる間もなく、強力な重力波が二人を飲み込んだ。
再び目を開けたとき、そこには見覚えのある、紫色の花が咲き乱れる草原が広がっていた。
けれど、何かが違った。
空はどす黒い紫に染まり、かつて清らかだった小川は、淀んだ銀色の液体へと変わっている。
ここは、二人が過ごしたあの聖域ではなかった。
聖王がリーゼロッテの記憶を媒体にし、アスカロンの魔力で再構築した「偽りの聖域」――精神の牢獄だった。
「……あ、あぁ……」
リーゼロッテは地面に手をつき、嘔吐するように激しく咳き込んだ。
体内の「漆黒の光」が、この空間に満ちる歪んだマナに反応し、内側から彼女の血管を焼き切ろうとしている。
「リゼ! 意識を保つんだ、リゼ!」
ゼファードが彼女を抱き寄せるが、今の彼には彼女の苦痛を和らげる術がなかった。
この偽りの聖域では、彼の魔力は絶え間なく吸収され、周囲の結晶を育てる「肥料」へと変えられていく。
「ようこそ、我が娘よ。……そして、忌まわしき魔王よ」
空間の揺らめきの中から、一人の男が姿を現した。
アステール王国の支配者、聖王。
その顔には、父としての慈愛など微塵もなく、ただ「完成品」を眺める職人のような冷徹な満足感が浮かんでいた。
「お父様……なぜ……」
「なぜ、だと? 決まっている。千年前、エルシィが成し遂げられなかった『神への昇華』を、お前という完璧な器で完成させるためだ」
聖王はゆっくりと歩み寄る。
「お前が魔王を愛し、共に絶望を味わうこと。それこそが、アスカロンを修復し、この世から魔族も人間もいない『静止した神の世界』を創るための、最後の触媒だったのだよ」
「静止した、世界……?」
「そうだ。争いも、飢えも、悲しみもない。すべての命が結晶となり、永遠に美しく輝き続ける世界。……リーゼロッテ、お前はその世界の『中心』となるのだ。魔王の命を最後の一滴まで吸い上げ、完成したアスカロンをその胸に抱くことでな」
「そんなの……誰も望んでいないわ!」
リーゼロッテは、震える足で立ち上がった。
手首の魔銀のブレスレットが、彼女の激昂に耐えきれず、パキリと音を立ててひび割れた。
「私は……私は、ただの女の子として生きたかった。彼と二人で、美味しいものを食べて、笑って、明日が来るのを怖がらずに眠りたかっただけなのに……!」
「明日などという不確かなものは、苦痛しか生まん」
聖王が冷酷に告げた瞬間、空間から無数の「光の鎖」が放たれた。
鎖はゼファードの四肢を貫き、彼を虚空へと吊り上げた。
「ぐああぁぁぁッ!!」
「ゼファード!!」
「触れるな、リゼ!」
ゼファードが、口から血を流しながら叫ぶ。
「鎖が君の魔力を吸い取ろうとしている……! 来てはいけない……逃げろ、ここから……!」
「逃がさぬよ。……さあ、見よ。これが、お前が愛した男の最期だ」
聖王が杖を振ると、鎖がさらに強くゼファードを締め上げる。
鎖が食い込むたびに、ゼファードの命の灯火である漆黒の魔力が、目に見えるほどの輝きとなって引きずり出され、リーゼロッテの胸の紋様へと流れ込んでいく。
(やめて……私のために、彼を壊さないで……!)
リーゼロッテの心の中で、何かが音を立てて崩れた。
愛すれば愛するほど、彼は傷つく。
彼を想えば想うほど、彼女の力が彼を殺していく。
エリオットの言った通りだった。
彼女の「愛」こそが、魔王を滅ぼし、世界を終わらせるための最悪の毒。
「……だったら……」
リーゼロッテの瞳から、光が消えた。
代わりに、彼女の全身から、これまでのどの瞬間よりも濃密で、冷たい「黒」が溢れ出した。
「私が……私を壊せば、いいのね」
「リゼ!? 何をする気だ、止めろ!」
ゼファードが絶叫するが、もはや彼女の決意は止まらなかった。
リーゼロッテは、自分の掌に「漆黒の光」を凝縮し、それを自らの心臓へと向けた。
外部からの侵食を拒むのではない。
自分という「器」そのものを破壊することで、聖王の計画を根本から打ち砕こうとしたのだ。
「馬鹿な! 自ら命を絶つか! 器を失えば、アスカロンは暴走し、この空間ごとすべてが消滅するぞ!」
聖王の顔に、初めて焦燥の色が走った。
「それでいい……。彼を傷つける私なんて……いらない……」
リーゼロッテがその手を胸に突き立てようとした、その時。
「――させるかよ」
低く、けれど絶対的な拒絶を含んだ声が、空間を震わせた。
吊るされていたはずのゼファードが、自らの四肢を貫く鎖を「自身の肉体ごと」引きちぎって着地した。
その姿は、もはや魔族ですらなかった。
右半身は完全に崩壊し、そこから溢れ出すのは魔力ではなく、生々しい「執念」そのもの。
「リゼ……。君が自分を壊すなら、俺は世界を壊す」
ゼファードは、血塗れの手でリーゼロッテの腕を掴んだ。
「死なせない。……君が神になるというなら、俺は神を殺す悪魔になる。……絶望しろ、人間ども。……俺たちの『愛』を、そんな安っぽい完成のために使わせてたまるか」
ゼファードが残った左の翼を羽ばたかせると、偽りの聖域の空が、彼の怒りに呼応して文字通り「剥がれ落ちた」。
「……ゼ、ファー……ド……」
「いいか、リゼ。……目を開けろ。……俺を見ろ。……絶望なんて、俺が全部食ってやる」
彼は、崩れ落ちるリーゼロッテを抱きしめ、その耳元で囁いた。
「千年前も、今も、俺が欲しいのは……君の笑顔だけだ。……それ以外、何もいらない」
ゼファードの全身から、漆黒の魔力を超えた「真紅の輝き」が溢れ出す。
それは、魔王としての命そのものを燃焼させる、最期の覚醒。
偽りの聖域が崩壊を開始し、聖王の悲鳴が遠ざかっていく。
次元の狭間に投げ出される二人を包むのは、もはや聖なる光でも、魔の闇でもない。
ただ、互いを離さないという、狂おしいまでの執着の熱。
「……行きましょう、ゼファード。……本当の、私たちの場所へ」
リーゼロッテは、彼の首に手を回した。
意識が遠のく中、彼女が見たのは、どす黒い紫の空でも、灰色の村でもない。
ただ、初めて出会ったあの日に見たような、どこまでも澄み渡る「青」だった。




