8 感情の揺らぎと、灰色の日常
雨が上がり、霧が立ち込める山道を抜けると、そこにはひっそりと佇む小さな村があった。
アステール王国の最果て、魔界の境界線からもほど近いその場所は、どちらの勢力からも忘れ去られたかのような「灰色の村」だった。
「……リゼ、あそこの宿で少し休もう」
ゼファードは、自分の黒い外套をリーゼロッテの肩に深く掛け直した。
彼女の銀色の髪はあまりに目立つ。そして、先日の戦いで覚醒した「漆黒の光」の残滓が、時折彼女の肌の表面を金黒色の細い糸のように走ることがあった。
「ええ……少し、体が重いわ」
リーゼロッテは力なく頷いた。
かつて聖剣を振るっていた頃の、研ぎ澄まされた神経の昂ぶりとは違う。今の彼女を支配しているのは、魂の芯がじりじりと焼かれるような、鈍い痛みと倦怠感だった。
村の入り口にある小さな宿屋「静かなる灯火亭」の門を叩くと、年老いた店主が怪訝そうな顔で二人を迎えた。
「……見ない顔だね。巡礼の旅人かい?」
「ああ。連れが風邪をこじらせてしまってね。数日、部屋を借りたい」
ゼファードは、魔王としての威圧感を完璧に消し去り、どこか影のある物静かな旅人を演じてみせた。その立ち居振る舞いは驚くほど自然で、彼がかつて玉座で世界を見下ろしていた存在だとは誰も思うまい。
案内されたのは、屋根裏に近い小さな一室だった。
使い込まれた木のベッド、煤けた暖炉、そして小さな窓からは、村の平穏な風景が一望できる。
リーゼロッテはベッドに腰を下ろすと、長い吐息をついた。
「……普通ね。すごく、普通だわ」
「ああ。ここには聖教国の騎士も、魔界の軍勢もいない。ただ、今日を生きる人々がいるだけだ」
ゼファードは手際よく暖炉に火を焚べると、村の市場で買ってきたという温かいスープとパンをテーブルに並べた。
「まずは食べろ。君の体は、エネルギーを欲しがっている」
リーゼロッテはスープを一口啜った。
野菜の泥臭さと、荒削りな塩の味。それは王宮で供される芸術的な料理とは程遠いものだったが、今の彼女には、その「生」の味がたまらなく愛おしく感じられた。
「……ゼファード。私、なんだか変なの」
パンを千切りながら、彼女はぽつりと呟いた。
「食べ物の味が、以前よりも鮮明に分かるようになった。風の音も、火の爆ぜる音も、心臓に直接響くみたいに。……でも、それと同時に……自分が自分じゃなくなっていくような、そんな感覚がするの」
彼女は自分の掌を見つめた。
そこには、先ほどの呪いの反動で浮かび上がった黒い紋様が、消えずに残っていた。それは彼女の血管に沿って、ゆっくりと、けれど確実にその領土を広げようとしているように見えた。
数日が過ぎ、リーゼロッテの体調は一時的に回復したように見えた。
彼女は、自分が「王女」でも「聖女」でもない、ただの娘として過ごす時間を楽しもうとした。
村の市場へ出かけ、見知らぬ老婆と野菜の値段を交渉し、近所の子どもたちと追いかけっこをする。
そのすべてが、彼女にとっては奇跡のような体験だった。
「リゼ、あまり無理をするな。君の魔力は今、非常に不安定だ」
市場の帰り道、薪を背負ったゼファードが心配そうに声をかける。
彼は村人たちから「腕の良い炭焼き職人」として受け入れられ始めていた。その強靭な肉体と、時折見せる驚くほどの器用さが、辺境の生活に馴染んでいたのだ。
「大丈夫よ。……見て、この花。子どもたちがくれたの」
リーゼロッテは、野に咲く黄色い花を大切そうに抱えていた。
その笑顔は、かつての氷のような冷たさを微塵も感じさせない、春の陽だまりのような美しさだった。
けれど、ゼファードの目は、その花を受け取ったリーゼロッテの「指先」に釘付けになった。
彼女が触れた部分から、黄色い花弁が、じわじわと「黒く」変色していたのだ。
それは枯れているのではない。
彼女の体から無意識に漏れ出す「漆黒の光」が、植物の生命エネルギーを強制的に別の形――理を越えた何かに書き換えてしまっている。
「……あ」
リーゼロッテもそれに気づき、慌てて花を離した。
地面に落ちた花は、瞬く間に黒い結晶へと変わり、パリンと乾いた音を立てて砕け散った。
「……私、やっぱり壊れているのかしら」
彼女の声が震える。
「感情を取り戻して、幸せだと思えば思うほど……私の周りのものが、壊れていく。……これじゃ、アスカロンを握っていた時と、何も変わらないじゃない」
「……リゼ、それは君のせいじゃない。君の中に宿った力が、まだ君の心に追いついていないだけだ」
ゼファードは彼女の手を強く握った。
けれど、彼の手さえも、今のリーゼロッテにとっては「熱すぎた」。
かつては安らぎだった彼の体温が、今の彼女の異常な感覚器官には、皮膚を焦がす熱量として伝わってくる。
「……触らないで」
咄嗟に手を振り払ってしまったリーゼロッテ。
ゼファードの瞳に、一瞬だけ走った深い絶望の色を、彼女は見逃さなかった。
「……ごめんなさい。違うの、嫌いになったわけじゃないの。ただ……私が、あなたを壊してしまいそうで、怖いのよ」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
灰色の村に、再び冷たい霧が立ち込め始めていた。
その夜、リーゼロッテは鏡の前に立っていた。
月の光が差し込む狭い部屋で、彼女は自分の肩を露わにした。
「……あぁ……」
絶句した。
鎖骨から胸元にかけて、不気味なほどに美しい「黒い銀河」のような紋様が広がっていた。
それは脈動し、彼女の心臓の鼓動に合わせて淡い紫色の光を放っている。
触れても痛みはない。むしろ、その部分は感覚が消失しており、自分の体ではないような錯覚に陥る。
(私、本当にもう……人間じゃないんだわ)
聖王の言った通り。
彼女は「器」として設計され、魔王の闇を取り込んだことで、人としても、聖女としても成立しない、未知の生命体へと変異を遂げつつある。
コンコン、とドアがノックされた。
「リゼ。……入ってもいいか?」
ゼファードの声だ。
リーゼロッテは慌てて服を直し、努めて明るい声で応えた。
「……ええ、どうぞ」
ゼファードは、小さな木箱を手に持って入ってきた。
「市場の細工師から譲ってもらったんだ。……君に、似合うと思って」
箱の中には、銀色に輝く簡素なブレスレットが入っていた。
「これは……?」
「ただの銀じゃない。魔力を抑制する効果があると言われている、魔銀の合金だ。……気休めかもしれないが、これを着けていれば、君の力の暴走を少しは抑えられるかもしれない」
ゼファードは彼女の手を取り、丁寧にその細い手首にブレスレットを嵌めた。
金属の冷たさが、荒れ狂う彼女の内部の魔力を、わずかに鎮めてくれる。
「……ありがとう、ゼファード」
「リゼ。……俺は、君が何者になっても構わない。……たとえ君の肌が黒く染まり、その瞳が人間のものでなくなったとしても。……俺は、あの千年前の約束を果たす。……君を、一人にはさせない」
ゼファードは彼女の額に、そっと口づけをした。
その不器用で、ひたむきな愛。
けれど、その愛を受け入れるほどに、リーゼロッテの胸の奥のアスカロンの残滓が、嫉妬に狂うように熱を帯びる。
「……ねえ、ゼファード。もし……私が完全に理を失って、あなたさえも殺そうとしたら……その時は、迷わずに私を殺してね」
「……そんな日は来ない。俺が、させない」
二人は寄り添い、窓の外の静寂を見つめた。
けれど、その静寂は、長くは続かなかった。
深夜。
村を包んでいた霧の中から、不気味な「声」が響き始めた。
それは、風の音のようでもあり、数千人の呻き声が重なったようでもあった。
宿屋の主人が怯えたように部屋の扉を叩く。
「……お、お客さん! 出て行ってくれ! 呪いだ……呪いが来たんだ!」
ゼファードが瞬時に窓を開け、外の様子を伺う。
そこには、異常な光景が広がっていた。
村を囲む森が、見る間に「結晶化」していたのだ。
草木も、建物も、そして逃げ遅れた村人たちまでもが、美しい、けれど命の通わない半透明の紫色の結晶へと変えられていく。
「これは……『漆黒の光』の共鳴現象か!?」
ゼファードが驚愕の声を上げる。
リーゼロッテの中に宿った力が、彼女の「平穏を願う心」と、同時に抱える「喪失への恐怖」に反応し、無意識のうちに周囲を侵食し始めていたのだ。
「私の……せい? 私が、この村を……?」
リーゼロッテは膝をついた。
彼女が触れた床から、結晶の棘が急速に伸びていく。
「やめて……止まって! お願い!」
「リゼ、落ち着け! 君が動揺すればするほど、力は暴走する!」
ゼファードが彼女を抱き留めようとするが、今やリーゼロッテの体から放たれる斥力は、魔王の力をもってしても容易には近づけないほどに強大になっていた。
その時。
結晶化した村の入り口から、一人の男がゆっくりと歩いてきた。
銀髪を綺麗に整え、汚れなき白の司祭服を纏った青年。
その手には、リーゼロッテが砕いたはずのアスカロンの「もう半分の破片」が握られていた。
「……お久しぶりです、リーゼロッテ王女殿下。……いや、今は『魔王の伴侶』とお呼びすべきでしょうか」
その声を聞いた瞬間、リーゼロッテの全身に鳥肌が立った。
かつて王宮で、彼女の魔力調整を担当していた宮廷魔導師――エリオット。
聖王の側近であり、誰よりも冷酷に彼女を「検品」してきた男だった。
「エリオット……! なぜここに……!」
「陛下が仰せです。……『器が壊れ始めたのなら、いっそ完全に砕いて、その破片を回収せよ』と。……この村の結晶化、素晴らしい成果ですね。聖女の祈りと、魔王の呪い。その融合こそが、神をも殺す究極の毒となる」
エリオットが掲げた聖剣の破片が、禍々しい輝きを放つ。
それと呼応するように、リーゼロッテの胸の紋様が、今までにない激痛を伴って発光した。
「あ……あああああぁぁ!!」
「リゼ!!」
ゼファードがエリオットに向けて漆黒の炎を放つ。
しかし、エリオットは不敵に笑い、聖剣の破片でその炎を容易く切り裂いた。
「魔王陛下。……あなたはまだ、この少女の『真の使い方』をご存知ないようだ。……彼女は、愛を知ることで完成するのではない。……愛したものを、自らの手で破壊し、その絶望を糧にすることで、真の神へと至るのですよ」
エリオットの言葉と共に、村全体が轟音を立てて崩れ始めた。
結晶化したすべてが、リーゼロッテの中に吸い込まれていく。




