7 雨の洞窟
雨音は、絶え間なく続く弔鐘のようだった。
森の木々を叩き、地面を泥濘に変え、世界のすべてを冷たい湿気で包み込んでいる。
リーゼロッテが意識を浮上させたとき、最初に感じたのは、心地よいはずの浮遊感ではなく、内側から体を焼き尽くすような「熱」だった。
聖なる光と、魔王の闇。
本来、決して混じり合うことのない二つの力が、彼女の細い体の中で激しく反発し、融解し、新たな形へと変質しようとしている。
「……あ、……つ……」
掠れた声が漏れる。
視界がゆっくりと開けると、そこは岩肌が剥き出しになった、狭く湿った洞窟の中だった。
入り口付近では、雨がカーテンのように視界を遮っている。外の景色は見えないが、時折光る雷鳴が、世界がまだ荒れ狂っていることを告げていた。
「気がついたか。……無茶な真似をするからだ」
聞き慣れた、けれどどこか弱々しい声。
リーゼロッテは顔を横に振った。そこには、彼女の体を支えるようにして座るゼファードがいた。
彼は、騎士団との戦いでボロボロになった自分の上着を、リーゼロッテに掛けてくれていた。
「ゼファード……怪我は……?」
「俺のことはいい。それより、君の体だ」
ゼファードの紅い瞳には、隠しようのない焦燥が浮かんでいた。
彼は震える指先で、リーゼロッテの額に触れる。その指先は、彼女の熱に驚いたように微かに跳ねた。
「あの『漆黒の光』……。君の魂は、聖なる法理を逸脱してしまった。今の君の体は、聖なる力に焼かれながら、同時に魔の力に侵食されている状態だ」
「……不思議ね。全然、怖くないわ」
リーゼロッテは、熱に浮かされながらも、微かに微笑んだ。
「お父様が言っていた『器』としての役割を果たしていたときよりも……今の方がずっと、自分が自分である気がするの。……あなたの闇を受け入れたとき、私は初めて、完成したような気がしたのよ」
「……馬鹿なことを言うな」
ゼファードは顔を伏せ、彼女の肩を強く抱きしめた。
「君をそんな危うい力に目覚めさせるために、俺は君を救ったんじゃない。俺は、ただ……」
「ただ、何?」
ゼファードは答えなかった。
代わりに、彼は苦しげに顔を歪め、自身の傷口を押さえた。
彼の腹部には、騎士団長ヴァレリウスが放った「魂喰らいの長槍」の刺し傷が、どす黒く変色したまま残っている。魔王の再生能力をもってしても、聖教国の禁忌が刻んだ傷は容易には塞がらない。
「ゼファード、嘘つき。……自分のこと、全然よくないじゃない」
リーゼロッテは、朦朧とする意識を振り払い、彼の傷口に手を伸ばした。
「リゼ、やめろ! 魔力を使うな!」
「嫌よ。……あなたは、私のために千年も待っていてくれたんでしょう? なら、数分くらい、私に尽くさせて」
リーゼロッテの指先から、金色の、けれど中心に深い闇を宿した不思議な光が溢れ出す。
それはかつての「浄化」の光ではない。
対象の苦しみを吸い上げ、自分のものとして引き受けるような、慈愛に満ちた混沌の光。
「あ……ぐっ……!」
ゼファードの体が大きく跳ねた。
彼の傷口から黒い澱のような呪いが吸い出され、リーゼロッテの掌へと移っていく。
同時に、彼の傷口は驚くべき速さで塞がり、失われていた生気が戻り始める。
「……はぁ、はぁ……」
処置を終えたリーゼロッテは、糸が切れた人形のように、ゼファードの胸の中に倒れ込んだ。
呪いを引き受けた代償として、彼女の肌には、ゼファードと同じ黒い紋様が微かに浮かび上がっている。
「……リゼ……。君は、どうしてそこまで……」
「……言ったはずよ。……独りには、させないって」
リーゼロッテは、彼の心臓の音を聞きながら、静かに目を閉じた。
洞窟の中、雨音だけが二人を外界から遮断している。
ここでは、彼女は王女ではなく、彼は魔王ではなかった。
ただ傷つき、互いを必要とする、孤独な二つの魂に過ぎない。
しばらくの沈黙の後、ゼファードがぽつりと口を開いた。
「……俺の本当の願いを、聞いたことがなかったな、リゼ」
「願い……? 人間界を滅ぼすこと、じゃないの?」
「そんなものに、興味はない。……魔界も、人間界も、俺にとっては等しく退屈な場所だ。強すぎる力は、周囲を怯えさせ、疎まれ、利用されるだけの対象にする」
ゼファードは、空いた方の手で、洞窟の入り口から吹き込む雨粒を掴んだ。
「俺の願いは……ただ、君と二人で、名前も役割もない場所へ行くことだ。魔王も、聖女も、種族の壁も、何千年の因縁もない場所へ。……そこで、君が美味しいものを食べて笑い、俺がそれを隣で眺めている。……ただそれだけのために、俺は千年の孤独を耐えてきた」
「……それだけ?」
「それだけだ。だが、この世界では、それが一番難しい」
ゼファードの声には、深い絶望と、それを上回るほどの熱烈な憧憬が入り混じっていた。
「リゼ。俺と一緒に、果てまで逃げてくれるか。……たとえこの先、君がその力の代償として、人としても、聖女としても扱われなくなったとしても」
リーゼロッテは、彼の胸に顔をうずめたまま、静かに頷いた。
「喜んで。……私、もうアステールの綺麗なドレスなんて、いらないわ。……あなたの隣にいられるなら、この呪いも、漆黒の光も、私の誇りよ」
その時だった。
洞窟の奥深さ、暗闇の彼方から、チリ、と肌を刺すような冷たい気配が漂ってきた。
「……っ!」
ゼファードが瞬時にリーゼロッテを背後に隠し、剣の代わりに凝縮した魔力の刃を形成した。
雨音に混じって聞こえてくるのは、カツ、カツ、という乾いた音。
それは靴音のようでありながら、どこか硬質の「何か」が岩を叩く不気味な響きだった。
「……まさか。ここを、見つけ出したのか?」
闇の中から現れたのは、人影ではなかった。
それは、白銀の鎧を強引に引き伸ばし、肉と鉄が癒着したかのような、悍ましい姿の「異形」だった。
かつては人間だったのだろう。しかし、その頭部には顔がなく、代わりに巨大な聖印が刻み込まれた滑らかな金属面がある。
「聖王直属、禁忌の執行者……『壊死した聖者』か……」
ゼファードが苦々しく吐き捨てた。
それは、聖教国の歴史の中で、あまりに強大な魔力を持ちすぎたために自我を崩壊させた術者の成れの果てだ。死ぬことさえ許されず、王の命令に従うだけの自律型兵器として改造された、最悪の駒。
『……リ……ゼ……ロ……ッテ……』
異形が、空洞のような音を響かせた。
それはリーゼロッテの声に似ていた。聖王が、彼女の母親の形見を使って、この怪物に「娘を追うための道標」を植え付けたのだ。
「お母様の……声を、そんな汚らわしい姿で出さないで!」
リーゼロッテが激昂し、立ち上がろうとした。
しかし、彼女の体は、呪いを引き受けた反動で思うように動かない。
「下がっていろ、リゼ! こいつは今までの騎士とはわけが違う。……理を持たない、ただの破壊の衝動だ」
ゼファードが地を蹴った。
漆黒の炎が洞窟を照らし出す。
異形の手から放たれたのは、腐敗した光の矢だった。
触れるものすべてを風化させるその攻撃を、ゼファードは片翼で受け流し、至近距離から魔力の爪を叩き込む。
ギィィィィィィィン!!
火花が散り、洞窟の壁が崩落する。
ゼファードの攻撃は、異形の鎧を砕いた。しかし、その下から溢れ出したのは血ではなく、凝縮された聖なる怨念の霧だった。
『……キタレ……ウツワ……ヨ……』
異形の動きは止まらない。
それどころか、霧に触れたゼファードの腕が、見る間に凍りついていく。
「くっ……浄化ではなく、存在の否定か……!」
ゼファードが膝をつく。
異形はその隙を見逃さず、巨大な鉄槌のような腕を振り上げた。
「――やめてっ!!」
リーゼロッテの叫びと共に、洞窟の中に金黒色の衝撃波が吹き荒れた。
彼女は自分の血管が裂けるような感覚を無視して、その身に宿る「漆黒の光」を全方位へと解き放ったのだ。
「あ……あぁぁぁぁ!!」
光は異形を包み込み、その身体を構成する「偽りの聖なる理」を強引に書き換えていく。
漆黒の光は、異形の苦痛そのものを浄化し、彼らを縛る王の命令を消滅させた。
『……ア……リ……ガ……ト……』
異形は一瞬だけ、本来の人間の姿――苦悶に満ちた老術者の顔を露わにし、そのままサラサラと灰になって崩れ落ちた。
静寂が戻る。
残されたのは、疲れ果てた二人と、異形が持っていた母親の形見のペンダントだけだった。
リーゼロッテは泥の中に落ちたペンダントを拾い上げ、そっと胸に抱いた。
「……お父様。……あなたは、ここまで私を……お母様を利用してまで……」
彼女の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは、かつて「感情を削られた器」だった頃には流せなかった、本当の決別の涙だった。
「リゼ……」
ゼファードが、傷ついた体で彼女を背後から抱きしめた。
「……もう、アステールに君の家族はいない。……だが、俺がいる。君の痛みを、君の憎しみを、すべて俺が引き受ける」
「……ええ。分かっているわ、ゼファード」
リーゼロッテは彼の腕の中で、ペンダントを強く握りしめた。
「行きましょう。世界の果てでも、魔界の底でも。……お父様の支配が届かない、私たちの場所へ」
雨は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から、鋭い月光が差し込み、二人の歩む道を照らし出す。
だが、彼らはまだ気づいていなかった。
先ほどの異形が残した灰が、微かに蠢き、聖王のもとへ情報を送り続けていることを。
そして、リーゼロッテの体に宿った「漆黒の光」が、彼女の命を確実に、そして急速に削り始めているという残酷な副作用を。
二人の逃避行は、さらに過酷な局面へと向かおうとしていた。




