6 聖王の影
雨は、世界のすべてを洗い流そうとするかのように、激しく大地を叩いていた。
洞窟の入り口から見える景色は、立ち込める霧と激しい雨脚によって、鉛色の境界線が曖昧になっている。
かつてリーゼロッテが「灰色の世界」と呼んだその光景は、色彩を取り戻した今の彼女の瞳には、よりいっそう残酷な無機質さを伴って映し出されていた。
「……来たわね」
リーゼロッテは低く呟いた。
雨音の隙間を縫って聞こえてくる、規則正しい金属の擦れる音。それは、彼女が十九年の人生の中で、誰よりも信頼し、そして今は誰よりも忌むべき音――アステール王国最強の軍勢「白銀騎士団」の進軍音だった。
「リゼ、俺の後ろに」
ゼファードが、まだ癒えきらぬ体を引きずるようにして彼女の前に立った。
彼の背中には、再生の途上にある漆黒の翼が一枚、痛々しく震えている。魔王としての威厳はボロボロに傷ついていたが、その背中から放たれる「守護」の意志は、全盛期の魔力よりも強固なものに感じられた。
「ダメよ、ゼファード。あなたはまだ、魔力が安定していない。……それに、これは私の戦いよ」
リーゼロッテは、彼の腕をそっと押し戻した。
彼女の掌には、かつてのアスカロンのような輝きはない。けれど、彼女の指先からは、静かで温かな、陽だまりのような金色の光が微かに漏れ出していた。
それは「破壊」ではなく、「拒絶と再生」の光。
洞窟の霧を切り裂いて、銀色の鎧に身を包んだ一団が姿を現した。
その先頭に立つのは、リーゼロッテが幼い頃から剣の手解きを受けてきた、騎士団長ヴァレリウスだった。
「……王女殿下。このような場所で、魔族の長と何をなさっているのですか」
ヴァレリウスの声は、雨に打たれて低く響いた。その仮面のような兜の奥には、困惑と、そして変えることのできない冷徹な忠誠心が同居している。
「ヴァレリウス。……私はもう、王女ではないわ。あなたたちが『器』と呼んでいた人形は、聖域の崩壊と共に死んだの」
「お戯れを。陛下は、殿下が魔王にたぶらかされ、正気を失っていると仰せです。……さあ、こちらへ。その汚らわしい魔族を殺せば、すべては元の通りになります」
元の通り。
リーゼロッテはその言葉に、吐き気を感じた。
心を削られ、記憶を奪われ、最後には命まで捧げる、あの地獄のような日々に戻れと言うのか。
「断るわ。……私は、私の心を取り戻した。この人を、私の隣にいるこの人を、もう二度と失わないために」
「……左様ですか」
ヴァレリウスが静かに剣を抜いた。
「ならば、力ずくで連れ戻すのみ。……全軍、構えろ! 魔王は殺せ。王女殿下は、手足を折ってでも生け捕りにせよ!」
騎士たちの咆哮が、雨の夜を切り裂いた。
戦闘は、凄惨を極めた。
白銀騎士団は、対魔族用に特化した「神聖加護」の陣を敷き、ゼファードの漆黒の炎を無効化していく。
ゼファードは本来、一国を滅ぼすほどの力を持つが、聖剣の破片によって魂を焼かれた傷が深く、思うように魔力が練れない。
「ぐっ……おのれ、卑怯な……!」
ゼファードが漆黒の障壁を展開し、放たれた銀の矢を弾き飛ばす。しかし、波状攻撃を仕掛けてくる騎士たちの圧力に、少しずつ後退を余儀なくされていた。
「ゼファード!」
リーゼロッテが叫ぶ。
彼女は今、武器を持っていない。けれど、彼女は自分の内側にある魔力の「質」が、根底から変わっていることに気づいていた。
今までの聖なる光は、外側から与えられた「燃料」だった。
けれど、今の光は、彼女自身の「感情」と直結している。
(怖い……。でも、逃げたくない。彼を、独りにしたくない!)
その強い想いが、彼女の指先から爆発的な光となって放たれた。
それはアスカロンのような鋭い刃ではない。
騎士たちの動きを物理的に押し止める、重厚で巨大な「光の壁」だった。
「な……っ!? アスカロンを失った殿下が、なぜこれほどの魔力を!?」
ヴァレリウスが目を見開く。
通常、聖教国の術者が放つ光は、魔族を焼き殺す「浄化」の性質を持つ。しかし、リーゼロッテの放った光は、騎士たちの鎧に触れても彼らを傷つけなかった。ただ、圧倒的な質量と拒絶の意志によって、彼らを一歩も近づけない。
「私は、もう誰の命も奪わない! 私は、大切な人を守るために、この力を使う!」
「リゼ……」
ゼファードが驚愕の表情で彼女を見つめた。
彼が千年間見てきた「聖女」たちの光は、常に悲しみと破壊の色を帯びていた。
けれど、今、目の前の少女が放つ光は、まるで春の太陽のように温かく、力強い。
「……愚かな。慈悲など、戦場では無価値だと思い知れ!」
ヴァレリウスが、王から授かった禁忌の魔導具「魂喰らいの長槍」を突き出した。
それは対象の魔力そのものを食い破り、術者の精神を汚染する呪いの武器。
槍の穂先がリーゼロッテの光の壁に触れた瞬間、壁に黒い亀裂が走った。
「あ……がっ……!」
精神的な激痛が、リーゼロッテを襲う。
光の壁が崩れ、騎士たちが一斉に雪崩れ込んでくる。
「死ね、魔王!」
騎士の一人が、無防備なゼファードの背後から剣を振り上げた。
「――させない!」
リーゼロッテは、思考よりも先に体が動いていた。
彼女はゼファードの背中に飛びつき、その剣を自らの体で受けようとした。
「リゼ、ダメだ!!」
ゼファードの絶叫。
しかし、剣が彼女の背を切り裂く直前、不可思議な現象が起きた。
リーゼロッテの体から放たれた光が、一瞬で「漆黒」へと反転したのだ。
聖と邪。光と闇。
本来、混ざり合うはずのない二つの魔力が、彼女の中で完璧な融合を果たしていた。
漆黒の光――それは、魔王の力と聖女の力が、愛という一つの感情によって昇華された証。
弾け飛ぶ衝撃波が、周囲の騎士たちを吹き飛ばした。
ヴァレリウスの長槍も砕け散り、彼は呆然と膝をついた。
「聖なる光が……魔族の闇と、混ざり合った……? そんな……ありえない。伝説の『混沌の救済者』だとでもいうのか……」
騎士団が一時的に撤退し、森の中には再び激しい雨音だけが戻ってきた。
けれど、リーゼロッテの魔力も限界だった。
漆黒の光を放った反動で、彼女の視界は激しく揺れ、その場に崩れ落ちた。
「リゼ! しっかりしろ、リゼ!」
ゼファードが彼女を抱き留める。彼の腕は震えていた。
自分を庇って、死を恐れずに飛び込んできた少女。
その一途な想いが、世界の理さえも書き換えてしまった。
「……よかった……。ゼファード、無事ね……」
「馬鹿な真似をするな……。君に何かあったら、俺は……俺はまた、千年の孤独に戻ることになるんだぞ」
ゼファードの頬を伝うのは、雨水だけではなかった。
魔王と呼ばれ、感情を捨てたはずの彼の瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、リゼの頬を濡らした。
「……孤独じゃないわ。……どこにいても、私は……あなたの、そばに……」
リーゼロッテは、微かな笑みを浮かべたまま、深い眠りへと落ちていった。
彼女を抱きしめるゼファードの周囲には、未だに「漆黒の光」が淡い残光となって漂っている。
それは、もはや彼らが、ただの「王女」と「魔王」ではないことを示していた。
世界が定めた役割を捨て、互いの魂を補完し合う、唯一無二の存在。
「……行こう、リゼ。ここはもう、俺たちの居場所じゃない」
ゼファードは彼女を軽々と抱き上げ、雨の森の奥深くへと足を踏み出した。
目指すは、魔界の最果て。
あるいは、人間も魔族も届かない、世界の果ての果て。
一方、アステール王宮の地下。
計画を阻まれた聖王は、砕け散った「魂喰らいの長槍」の破片を見つめ、静かな狂気を剥き出しにしていた。
「……面白い。聖なる光が、闇と混ざり合うか。……なればこそ、アスカロンを修復する必要があるな」
彼は、祭壇の上に置かれた「あるもの」を手に取った。
それは、リゼが幼い頃に大切にしていた、今はなき母親の形見のペンダントだった。
「想い。記憶。執着。……それが強ければ強いほど、聖剣は鋭くなる。……リーゼロッテよ。お前がその魔王を愛せば愛すほど、お前はより完璧な『剣』へと成るのだ」
聖王の笑い声が、地下室の冷たい壁に反響した。
「ヴァレリウスを呼べ。……次は、騎士団ではない。……あいつを、放て」
聖王の言葉に応じるように、闇の中から、巨大な、そして悍ましい魔力の気配が蠢いた。
それは、アステール王国が歴史の裏側に隠し続けてきた、最古の禁忌。
聖域を追われ、国を捨てた二人に、さらなる絶望の影が近づいていた。
束の間の勝利ではなく、これから始まる「本当の地獄」への序章に過ぎなかった。
リーゼロッテが目覚めたとき、彼女は自分が何を失い、何を得たのかを、まだ知らない。
ただ、隣で彼女を抱きしめて歩く男の鼓動だけが、今の彼女にとっての、唯一の世界のすべてだった。




