5 魔王の告白
世界は「赤」に満ちていた。
リーゼロッテが意識を取り戻したとき、最初に視界に飛び込んできたのは、どろりとした濃厚な、命の熱を感じさせる鮮血の色だった。
失ったはずの色彩が、網膜を焼くほどの強烈な自己主張を持って帰還していた。
「……あ、あぁ……」
指先が動く。感覚がある。
脳裏には、ゼファードと共に過ごした聖域での記憶が、奔流となって渦巻いていた。
ハーブを焼く匂い、冷たい小川の感触、そして、彼が教えてくれた「赤」の意味。
それらすべてが、アスカロンという強欲な神の胃袋から、彼の執念によって引きずり戻されていた。
「ゼ……ファー……ド……?」
掠れた声でその名を呼ぶ。
彼女が横たわっていたのは、湿り気を帯びた薄暗い洞窟の中だった。聖域は崩壊し、爆発的な魔力の余波が二人をどこか別の場所へと弾き飛ばしたらしい。
壁には苔が蒸し、外からは激しい雨の音が聞こえる。聖域のような穏やかな楽園ではなく、そこは荒々しい現実の世界だった。
すぐ隣に、彼がいた。
「……っ! ゼファード!」
リーゼロッテは悲鳴を上げ、這いずるように彼のもとへ駆け寄った。
ゼファードは壁に背を預けて座り込んでいたが、その姿は無残だった。
魔王としての誇りであった漆黒の翼は、聖剣の光に焼かれてボロボロに崩れ、右半身は激しい浄化の炎による火傷で真っ白に爛れている。
何より恐ろしいのは、彼の胸の中央に、折れた「聖剣アスカロン」の破片が深く突き刺さったまま、今もなお彼の命を削り続けていることだった。
「……リ、ゼ……。よかった……瞳に、光が……戻ったな……」
ゼファードが、血に濡れた唇を微かに震わせて微笑んだ。
その瞳は、今にも消え入りそうなほどに淡く、けれど、どこまでも深くリゼを見つめていた。
「どうして……どうしてこんな無茶をしたの!? 私の心なんて、放っておけばよかったのに! あなたが死んでしまったら、意味がないじゃない!」
リーゼロッテは、彼の傷口に手を当てようとして、あまりの熱さに手を引っ込めた。
聖剣の破片が放つ神聖な魔力が、魔族である彼の肉体を内側から焼き続けているのだ。触れることさえ、彼女にとっては苦痛だった。
「意味は、あるさ……。君が……君自身でいられること以上に……価値のあるものなんて、この世界には……ないんだから……」
ゼファードは激しく咳き込み、黒い血を吐き出した。
リーゼロッテの頬に、その血が飛ぶ。
熱い。
これが、彼が教えてくれた「赤」の正体。
命を削り、誰かを守るために流される、最も切ない愛の色。
「泣かないでくれ、リゼ。……君に、話さなければならないことがある。……俺が、ずっと隠し続けてきた……俺たちの、本当の始まりの話を」
ゼファードの声は、風前の灯火のように細かった。
けれど、その言葉には、千年の時を凝縮したような重みがあった。
「千年前……俺は、魔界の辺境に住む、ただの出来損ないの魔族だった。……魔王の血を引きながら、魔力をうまく扱えず、同胞からも疎まれていた。……そんな俺が、ある日、人間界との境界付近で、一人の少女と出会ったんだ」
リーゼロッテは息を呑み、彼の話に聞き入った。
彼の語る物語が、まるで自分自身の記憶であるかのように、胸の奥で共鳴を始めていた。
「彼女は、当時の聖教国が祭り上げた『聖女』だった。……名は、エルシィ。君によく似た、銀色の髪と、意志の強い瞳を持つ少女だったよ。……彼女もまた、君と同じように『聖剣』の担い手として、自分の心を削りながら戦わされていた」
ゼファードの紅い瞳が、遠い過去を見つめる。
「俺たちは、種族を越えて惹かれ合った。……敵同士、許されない恋だ。けれど、二人でいる時だけは、自分を縛る役割を忘れられた。……俺たちは誓ったんだ。いつかこの戦争を終わらせて、誰もいない、静かな場所で一緒に暮らそうと」
「……その少女が、私の……前世だというの?」
「確証はない。……だが、君を初めて見た瞬間、俺の魂が叫んだんだ。『今度こそ離すな』と。……千年前、俺たちはあと一歩というところで裏切られた。……聖教国は、聖女が魔族と通じていることを知り、彼女を……処刑しようとしたんだ」
ゼファードの拳が、苦痛に震えた。
「俺は彼女を救おうと、王宮に乗り込んだ。……けれど、それは罠だった。聖教国は俺を誘い出し、最強の魔王の血を引く俺の命を、聖剣アスカロンに『最後の一押し』として喰わせようとしたんだ。……俺が窮地に陥った時、エルシィは……俺を救うために、自らアスカロンの刃をその胸に突き立てた」
「……あ……」
リーゼロッテの脳裏に断片的な映像が、鮮明な色彩を伴って蘇った。
真っ暗な部屋。泣いている女の子。
それは、処刑を待つエルシィだった。
そして、その手を握り、「僕が全部持っていってあげる」と言ったのは、若き日のゼファードだったのだ。
「彼女は死の間際、聖剣に残った自分の意志で、呪いを書き換えた。……『いつか、この魂が再び巡り合う時まで、魔王よ、生きていて。そして、私がすべてを忘れてしまったら……今度はあなたが、私の幸せを見つけて』と。……それが、俺が魔王となり、千年も生き続けてきた、たった一つの理由だ」
ゼファードは、折れたアスカロンの破片に手をかけた。
「君の父、聖王は……この千年前の因縁を知っている。……アステールの王家は、代々『聖女の魂』を閉じ込めた聖剣を管理し、それを再び覚醒させるための『器』として、君を育ててきたんだ。……彼らにとって、君は娘ではない。……千年前の力を再現するための、部品に過ぎないんだよ」
あまりにも残酷な真実。
リーゼロッテのこれまでの人生、父への思慕、捧げてきた犠牲。
そのすべてが、狂った王の執念と、千年前の遺物を利用するための茶番だったというのか。
「……ふざけてる」
リーゼロッテの唇から、絞り出すような声が漏れた。
「私の心を奪い、あなたを殺し……そんなことのために、私は生まれてきたというの? ……そんなの、絶対に認めない!」
彼女は立ち上がり、ゼファードの胸に刺さったアスカロンの破片を両手で握った。
神聖な光が彼女の手を焼く。けれど、彼女は離さなかった。
「リゼ、やめろ! 君まで焼かれてしまう!」
「うるさい! 私の心は、もう誰にも渡さない! お父様にも、この剣にも……そして、運命にも!」
リーゼロッテは、自分の中に残るすべての聖なる魔力を、逆説的に「拒絶」の力へと変換した。
アスカロンが、持ち主であるはずの彼女からの拒絶に遭い、激しく震える。
彼女は自分の魂を削るのではなく、剣そのものを「殺す」ために、その魔力を注ぎ込んだ。
「消えなさい、アスカロン! 私たちの時間を邪魔するものは、神であっても許さない!」
眩い白光が洞窟を包み込んだ。
リーゼロッテの絶叫と共に、ゼファードの胸に突き刺さっていた聖剣の破片が、粉々に砕け散った。
静寂が戻った洞窟。
聖剣の呪縛から解き放たれたゼファードの体が、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。
浄化の炎は消えたが、彼の命の灯火は今にも消えそうだった。
「リゼ……君、は……」
「しゃべらないで。今、治してあげるから」
リーゼロッテは、かつて王宮で禁じられていた「治癒」の術を試みた。
「聖女の力は破壊と浄化にのみ使え」と教えられてきた彼女だったが、今の彼女には分かる。魔力とは、持ち主の意志そのものなのだ。
彼女はゼファードの傷口に手を当て、自分の命を分け与えるように、穏やかな光を送り込んだ。
「……死なせない。絶対に、あなたを置いていかないわ」
ゼファードの傷が、ゆっくりと塞がっていく。
けれど、あまりに多くの魔力を使ったリーゼロッテもまた、限界を迎えていた。
彼女の視界が、再びぼやけ始める。
「ゼファード……私、思い出した気がするの」
彼女は彼の胸に顔をうずめ、微かに笑った。
「千年前……あの真っ暗な牢獄で、あなたが手を握ってくれたこと。……私、すごく怖かったけど、あなたの手の温もりだけが、私を繋ぎ止めてくれていた」
ゼファードの震える手が、リゼの背中に回された。
「ああ……。俺も、君のあの時の言葉を、一日たりとも忘れたことはなかったよ」
「……今度は、私があなたを守る番ね。……たとえ、全世界を敵に回しても」
二人は、冷たい洞窟の中で、互いの体温を確かめ合うように抱きしめ合った。
外の雨は、止む気配がない。
けれど、彼らの中に灯った小さな炎は、千年前のどの瞬間よりも力強く燃えていた。
数時間後、ゼファードの顔色がわずかに戻った頃。
洞窟の外から、不穏な足音が聞こえてきた。
「……追っ手ね」
リーゼロッテは立ち上がり、砕け散ったアスカロンの代わりに、落ちていた鋭い石の欠片を手に取った。
武器など、もう必要なかった。彼女自身が、今や誰よりも強力な「意志」を持つ存在となっていたからだ。
「ゼファード、動ける?」
「……ああ。君に治してもらった命だ。無駄にはしない」
ゼファードもまた、不完全ながらも魔王としての魔力を取り戻しつつあった。
彼の背中に、一枚だけ、漆黒の翼が再生される。
「リゼ。ここから先は、地獄かもしれない。……聖王は、アスカロンの完全な覚醒を諦めていないだろう。……君を連れ戻すために、あらゆる手段を講じてくるはずだ」
「構わないわ。……私には、もう見えているもの」
リーゼロッテは洞窟の出口を見据え、言い切った。
「この灰色の世界を、あなたと一緒に塗り替えていく未来が。……赤も、青も、黄色も……全部、私たちの手で取り戻すの」
二人は手を取り合い、雨の中へと踏み出した。
敵同士として出会い、聖域で心を通わせ、そして宿命の真実を知った二人。
彼らに残されたのは、わずかな希望と、果てしない戦いの予感。
けれど、リーゼロッテの隣を歩くゼファードの瞳には、かつての孤独な影は消えていた。
代わりにあるのは、愛する者を守り抜こうとする、一人の男の強い決意。




