4 失われた色彩
その朝、リーゼロッテは「空の青」を失った。
目が覚めて最初に見上げた景色は、昨日までと同じ広大な天蓋のはずだった。けれど、彼女の瞳に映るのは、不気味なほどに無機質な、灰色の広がりだった。
雲の白さも、朝焼けの残り香のような淡い桃色も、すべてが煤けたようなモノクロームの世界に塗り潰されている。
「……あ」
唇から、乾いた吐息が漏れる。
彼女は震える手で、自分の銀色の髪を掴み、目の前に持ってきた。
かつては月光を編んだようだと称えられたその輝きも、今はただの鈍い鉄の色にしか見えない。
隣で咲いているはずの「追憶の星」も、鮮やかな紫を捨て、枯れ果てたような灰色に染まっていた。
「リゼ? どうした、そんなに震えて」
焚き火で朝の準備をしていたゼファードが、異変に気づいて駆け寄る。
彼の手が彼女の肩に触れた瞬間、リーゼロッテは縋り付くように彼のシャツを掴んだ。
「ゼファード……教えて。今、空は何色なの?」
その問いに、ゼファードの表情が凍りついた。
彼は天を仰ぎ、それから絶望を噛み殺すように目を閉じた。
今日の空は、雲一つない、抜けるようなコバルトブルーだ。それを彼女に伝えることが、これほどまでに残酷な仕打ちになるとは思わなかった。
「……青だ。吸い込まれるような、どこまでも深い青だよ」
「そう、なのね。……私には、もう見えないわ」
リーゼロッテは、力なく笑った。
アスカロンの呪いは、ついに彼女の視覚的記憶――「色彩の概念」にまで牙を剥いたのだ。
一度失われた概念は、もう二度と戻らない。彼女の脳は「青」という情報を受け取っても、それを認識する機能を聖剣に喰らわれてしまったのだ。
「次は、何が消えるのかしら。鳥の声? 花の香り? ……それとも、貴様の顔?」
「言わせない。そんなことは、絶対にさせない」
ゼファードは彼女を強く抱きしめた。
彼の体温だけは、まだ鮮明に感じられる。けれど、その温もりさえも、いつか「情報」として処理され、消えてしまうのではないか。
リーゼロッテは、初めて「消えること」への恐怖に涙した。
聖教国の王女として、死ぬことは怖くなかった。
けれど、自分が自分でなくなっていくこと。
愛おしいと感じ始めたこの世界の美しさが、一枚ずつ剥がれ落ちていくこと。
それが、死よりも恐ろしい拷問のように彼女を苛んでいた。
「……見ていろ、リゼ」
昼下がり。ゼファードは、草原の一角にある大きな平らな岩の前に彼女を連れて行った。
彼はどこからか集めてきた、色とりどりの木の実や、特定の成分を含む石の粉、そして花弁の滴を並べていた。
「何をするの?」
「色彩を、君の魂に刻み直す。視覚がダメなら、指先で。概念が消えたなら、手触りで覚え直せばいい」
ゼファードは、鮮やかな赤い木の実を一つ手に取り、それを岩の上で力強く潰した。
岩の表面に、どろりとした濃厚な朱色が広がる。
「これは、赤だ。君が戦場で流した血の色であり、俺の瞳の色だ。……触ってみろ」
リーゼロッテは、戸惑いながらも指先をその赤い液に浸した。
「……ぬるい。少し、粘り気があるわね」
「そうだ。赤は、命の熱の色だ。情熱と、痛みの色だ。……忘れるな、これが赤だ」
ゼファードは次に、黄色い花の蜜を彼女の手のひらに垂らした。
「これは黄色。太陽の光、君の好物だった蜂蜜の色だ。赤よりもサラサラしていて、少し甘い香りがするだろう?」
「ええ……少しだけ、懐かしい匂いがするわ」
「それが黄色だ。温かさと、希望の色だ」
彼は一つ一つ、丁寧に、根気よく。
世界から消えゆく色彩を、物理的な触覚と関連づけて彼女に覚え込ませていった。
青は川水の冷たさ。
緑は若草の、少し尖ったような青臭い匂い。
黒は、夜の帳の静寂。
リーゼロッテは、一心不乱に岩の上に色彩を塗り広げた。
彼女の瞳には、それらはすべて濃淡の異なるグレーの汚れにしか見えない。
けれど、ゼファードの声が、彼の手の導きが、彼女の中に「新しい色の地図」を描いていく。
「……ゼファード。貴様は、どうしてそんなに優しいの」
指先を緑色の汁で汚したまま、リーゼロッテが尋ねた。
「私は魔王を殺すために来た、刺客よ。貴様が私を助ける義理なんて、どこにもないはずなのに」
ゼファードは手を止め、彼女の汚れた指を自分の布で優しく拭き取った。
「義理ではないと言っただろう。……俺は、ずっと後悔していたんだ」
「後悔?」
「千年前。俺はまだ、魔王ではなかった。ただの、力の強い魔族の青年に過ぎなかった。……その時、俺は一人の人間の少女と恋に落ちたんだ」
ゼファードの告白は、聖域の風に乗って静かに流れた。
「彼女は聖女と呼ばれ、君と同じように国のために自分を犠牲にしていた。……俺たちは、手を取り合って逃げようと誓った。けれど、俺が弱かった。人間に裏切られ、俺は瀕死の重傷を負い、彼女は……俺を救うために、自らの魂を聖剣へと捧げた」
リーゼロッテの心臓が、大きく脈打った。
頭痛がする。アスカロンが、再び彼女の記憶を掻き乱そうとしている。
「彼女が最後に俺に言ったんだ。『いつか、生まれ変わって、もう一度会えたら……その時は、私の手を離さないで』と」
ゼファードは、リーゼロッテの顔を両手で包み込んだ。
彼の紅い瞳には、今、千年前の恋人と、目の前の王女が重なって映っていた。
「リゼ。君が彼女の生まれ変わりなのか、それとも単に運命が似ているだけなのか、俺には分からない。……けれど、俺はもう二度と、君のような少女が自分を削って消えていくのを、黙って見ていたくないんだ」
「……私は……」
リーゼロッテは言葉を失った。
彼の抱える孤独の深さ。そして、自分に向けられているのが単なる同情ではなく、永劫の時を越えた「切なる願い」であることを知って。
けれど、彼女がその想いに応えようと、彼の手を握り返そうとしたその時。
カラン……と、足元で乾いた音がした。
放置されていたアスカロンが、禍々しい紫色の光を放ち、カタカタと震えていた。
魔法が中和されるはずの聖域で、剣が自律的に魔力を生成し始めている。
「……まずい。リゼ、離れろ!」
ゼファードが叫んだ。
しかし、遅かった。
アスカロンから放たれた不可視の波動がリーゼロッテを直撃する。
「あ……がぁぁっ!」
リーゼロッテの脳内に、無数の「文字」が溢れ出した。
それは、彼女が今日学んだばかりの、色彩の知識だった。
――赤、黄色、青、緑。
――熱い、甘い、冷たい、青臭い。
それらの新しい記憶が、アスカロンという巨大なブラックホールに、容赦なく吸い込まれていく。
「やめて……! せっかく、彼が……教えてくれたのに……!」
「リゼ! 意識を保て! 剣に喰われるな!」
ゼファードは再び自分の血を使い、剣の暴走を止めようとした。
けれど、今度のアスカロンは強固だった。
聖域の外部から――現実世界の聖王によって、強力な遠隔魔力が供給されているのだ。
「……見つけたぞ、出来損ないめ」
空間を裂いて、冷酷な男の声が響き渡った。
聖域の空が、ひび割れた鏡のように砕け始める。
そこから現れたのは、白銀の鎧に身を包んだ、アステール王国の精鋭――白銀騎士団。
そしてその中心には、リゼの実の父であり、狂気の聖王が立っていた。
「お父様……?」
崩れ落ちたリゼが、霞む視界でその姿を認めた。
けれど、そこに父の慈愛はなかった。
聖王は、汚らわしいものを見る目で、娘と魔王を見下ろした。
「魔王と睦み合うとは、アステールの王女として、万死に値する恥知らずめ」
「……違うわ。彼は、私を……」
「黙れ。お前はただの器だ。聖剣アスカロンが魔王の魔力を喰らい、真の覚醒を遂げるための、生贄の器に過ぎん」
聖王の手には、リゼのものとは別の、禍々しい杖が握られていた。
彼がその杖を振ると、リゼの足元にあったアスカロンが、ひとりでに浮き上がった。
「アスカロンよ、喰らえ! 娘の残りの感情、記憶、そして命のすべてを! 魔王を滅ぼすための最後の一撃に変換せよ!」
「やめろ……! リゼを放せ!」
ゼファードが地を蹴り、聖王へと肉薄する。
しかし、聖王の周囲には強力な「聖なる結界」が張られており、魔王の拳は虚空を叩くだけだった。
「ぐっ……おのれ、人間……!」
「ははは! 聖域の理を逆手に取り、聖剣の『負の浄化』を加速させたのだ。今、この娘の中にある『魔王への想い』こそが、最高の燃料となる!」
リゼの体が、中吊りになって光り輝き始めた。
アスカロンが、彼女の魂の深層に眠る、ゼファードへの微かな、けれど確かな愛情を検知し、それを力へと変えていく。
(あ……あ……)
リゼの脳裏から、景色が消えていく。
今日、ゼファードと笑い合った記憶。
彼の焼いてくれた魚の味。
彼の温かい手の感触。
そして――「ゼファード」という名前の響きさえも。
「……ぁ……」
彼女の瞳から、最後の光が消えた。
完全な無。
完全な静寂。
そこに残されたのは、持ち主の心をすべて喰らい尽くし、真っ白に輝く「最終兵器」としてのアスカロンと、抜け殻となった一人の少女だった。
「リゼ……リゼぇぇぇ!!」
ゼファードの絶叫が、崩れゆく聖域に木霊した。
「さあ、仕上げだ。聖剣よ、魔王を貫け!」
聖王の合図とともに、覚醒したアスカロンが、流星のような速度でゼファードの胸を狙って飛来した。
その光は、魔族であるゼファードにとっては、触れるだけで消滅を意味する絶対の死の光。
けれど。
「……させる、か」
ゼファードは避けることをしなかった。
彼は両腕を広げ、自らの漆黒の魔力を全開放した。
聖域の理を力ずくでねじ伏せ、魔王としての真の姿――背中に巨大な漆黒の翼を広げた、破壊の権身へと変貌する。
ギィィィィィィィン!!
アスカロンの先端が、ゼファードの胸の中央で止まった。
漆黒の魔力と白銀の聖光が激突し、周囲の空間がガラスのように粉砕される。
「バカな!? 聖剣の一撃を、生身で受け止めるだと!?」
「……リゼの心を返せ」
ゼファードの口から、どろりと黒い血が溢れる。
彼の体は、聖剣の浄化の光に焼かれ、端から崩壊を始めていた。
それでも、彼は止まらなかった。
「リゼの……思い出を……彼女の笑顔を……返せ!!」
ゼファードは、自分の魂を燃やし尽くす勢いで、アスカロンを素手で掴んだ。
凄まじい火花が散り、彼の肉が焼け、骨が露出する。
だが、その執念が、聖剣に逆流した。
持ち主を裏切り、その心を喰らった偽りの光。
ゼファードは、アスカロンが溜め込んでいた「リゼの記憶」を、自らの「痛み」を媒介にして、無理やり彼女の体へと押し戻し始めたのだ。
「……う、あ……」
抜け殻だったリゼの指が、ピクリと動いた。
吸い込まれたはずの「色彩」が、ゼファードの流す赤い血を通じて、彼女の脳裏に再び激流となって流れ込む。
赤。
彼の血の色。
自分を救うために流された、愛の痛み。
「……ゼ……ファー……ド……?」
彼女の声が、静かに響いた。
「おのれ、魔王……! 娘共々、消えてしまえ!」
聖王が激昂し、さらなる魔力を杖に込めた瞬間。
聖域そのものが、限界を超えて爆発した。
まばゆい光の中で、リーゼロッテは見た。
自分を守るために、ボロボロになりながら、それでも優しく微笑む魔王の姿を。
そして。
世界は再び、深い闇へと落ちていった。




