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断罪の剣と、忘却の魔王 ―― 滅びゆく世界の終わりに君を想う  作者: 御子神 花姫


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3/10

3 仮初の休息

聖域に朝が来る。

それは、アステール王宮で迎える朝とは、何もかもが違っていた。


王宮での朝は、冷徹な規律と義務から始まった。侍女たちの無機質な挨拶、鉄の冷たさを感じさせる鎧の装着、そして父王からの「魔王を討て」という呪詛のような訓示。太陽の光さえも、彼女にとっては戦場を照らすためのスポットライトに過ぎなかった。


しかし、この精霊の聖域で迎える朝は、驚くほど穏やかで、瑞々しい。

リーゼロッテは、朝露に濡れた草の香りで目を覚ました。薄い天幕代わりにゼファードが立てかけてくれた大きな木の葉の間から、柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。


「……また、生きている」


彼女は自分の掌を見つめ、小さく呟いた。

魔力という生命線が断たれた今の体は、驚くほど軽い。いや、軽く感じるのは、背負い続けてきた「聖剣アスカロン」の重圧から一時的に解放されているからだろうか。足元に転がっている錆びついた鉄塊を見つめるが、昨日のような激しい動悸は起きなかった。


「起きたか。顔を洗ってこい。あそこの川の水は、冷たいが気持ちいいぞ」


焚き火の跡を片付けていたゼファードが、彼女に気づいて声をかけた。

彼はすでに活動を始めていたらしい。黒い上着を脱ぎ捨て、白いシャツの袖を捲り上げた姿は、魔界を統べる王というよりも、どこか辺境の村に住む逞しい青年のように見えた。


リーゼロッテは言われるまま、教えられた方向へ歩き出した。

少し歩くと、水晶のように透き通った小川が流れていた。川底の小石までがはっきりと見え、小さな魚たちが楽しそうに泳いでいる。


彼女は川岸に膝をつき、両手で水を掬った。

「……っ!」

あまりの冷たさに、思わず手が震える。けれど、その冷たさが眠気の残る脳を鮮烈に叩き起こし、肌に心地よい刺激を与えた。


ふと、水面に映る自分の顔を見た。

銀色の髪は乱れ、頬は少しやつれている。けれど、その瞳には、戦場にいた頃にはなかった「生の色」が微かに灯っているように見えた。


「……私、まだ笑えるのかしら」


指先で口角を押し上げてみる。けれど、筋肉の動かし方を忘れたかのように、顔は不自然な歪みを作るだけだった。

感情を捨て、器として生きてきた代償は、彼女が思うよりもずっと深く、彼女の肉体に刻み込まれている。


「何をしている?」


背後から声がして、リーゼロッテは慌てて立ち上がった。

いつの間にかゼファードが、数枚の大きな葉を持って立っていた。


「……別に。顔を洗っていただけよ」


「そうか。なら、これで顔を拭くといい。この葉は吸水性が良くて、肌触りも悪くない」


彼から渡された葉は、確かにベルベットのように柔らかかった。

リーゼロッテは戸惑いながらも、それで顔を拭った。彼の気遣いは、いつも丁寧で、それでいて押し付けがましくない。それが、王宮で「道具」として磨き上げられてきた彼女にとっては、何よりも戸惑うべきものだった。


「ゼファード。貴様、本当に魔王なの?」


彼女は我慢できずに尋ねた。


「魔王とは、残虐で、傲慢で、人間の命を塵芥のように踏みにじる存在だと教わってきた。けれど、貴様がしていることは……そのどれとも違う」


ゼファードは川面に視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。


「魔王、か。……そうだな。俺は確かに、数え切れないほどの命を奪ってきた。俺に仇なす者、俺の同胞を傷つける者を、この漆黒の炎で焼き尽くしてきた。その事実は変わらない。君たちの教科書に載っている姿も、一面の真実だろう」


彼は一歩、リーゼロッテに近づいた。


「だが、リゼ。俺が奪ってきたのは、常に『奪おうとする者』の命だけだ。そして俺が守りたかったのは、今この川辺にあるような、静かな時間だけだったんだよ」


彼の紅い瞳に宿る、深い孤独。

それは、どれほどの年月を一人で過ごせばこれほどまでに澄むのだろうか。リーゼロッテは、その瞳から目を逸らすことができなかった。


「……分からないわ。私には、貴様の言う『守りたいもの』の価値が、まだ理解できない」


「今はそれでいい。……さて、朝飯にするか。今日は少し、面白いものを拾ったんだ」


朝食は、昨日よりも豪華だった。

ゼファードが「面白いもの」と言ったのは、鳥の卵と、野生のハーブを詰め込んだ焼き魚だった。


リーゼロッテは、教えられるままに焚き火の火を調整する手伝いをした。

「火を絶やさないように、少しずつ枝を足すんだ。一度にたくさん入れると、消えてしまう」

「……難しいわね。剣を振る方が、ずっと簡単だわ」

「はは、君らしいな」


ゼファードが笑った。

その屈託のない笑い声に、リーゼロッテの胸がドクンと跳ねた。

アスカロンが感情を喰らう痛みではない。何かが、胸の奥の閉ざされた扉を叩いているような、不思議な鼓動。


焼き上がった魚を口に運ぶ。

ハーブの爽やかな香りが鼻に抜け、脂の乗った身が舌の上で解ける。


「……あ」


「どうした?」


「……今、少しだけ。本当に少しだけだけど、これを『美味しい』と思った気がする」


リーゼロッテは驚きに目を見開いた。

知識としての美味ではない。味覚が脳を通り過ぎるだけの情報でもない。

「美味しいものを食べて、嬉しい」という、幼い子供が抱くような純粋な喜びが、一瞬だけ彼女の心を掠めたのだ。


ゼファードは、自分の食事を中断して彼女を見つめた。

その瞳は、まるで世界で一番価値のある宝石を見つけたかのように、輝いていた。


「……そうか。よかったな、リゼ」


「……っ、そんなに、嬉しそうな顔をしないで。私は、貴様の敵なのよ」


「敵だろうと何だろうと構わない。君が、君自身の心を取り戻すこと。それが、今の俺にとっての唯一の望みだ」


「……意味が分からないわ」


リーゼロッテは俯き、魚を口に運び続けた。

顔が熱い。この感覚も、彼女にとっては未知のものだった。

アステールの第一王女として、常に完璧であることを求められてきた彼女は、誰かに無条件で肯定されるという経験がなかった。父王は「聖剣を使えること」を肯定したが、「リーゼロッテという少女」を肯定したことは一度もなかったからだ。


食後、二人は川辺で洗濯をすることになった。

といっても、リーゼロッテが着ているのは最高級の絹で作られたドレスで、ゼファードのものは魔界の特殊な繊維で織られた服だ。


「ドレスを脱げ、とは言わないが、上着だけでも洗った方がいい。泥が跳ねているぞ」


「……洗い方なんて知らないわ」


「教えてやる。こうして石に押し当てて、汚れを叩き出すんだ」


ゼファードは自分のシャツを川の水に浸し、リズムよく石に叩きつけた。

リーゼロッテも真似をして、ドレスの袖を水につける。

「……冷たい」

「慣れれば平気だ。ほら、そこはもう少し力を入れろ」


そんな、取り留めもない会話。

敵同士という緊張感は、聖域の穏やかな空気に溶けて、どこか遠くへ消えてしまったかのようだった。


「ゼファード。……貴様は、魔界に帰らなくていいの?」


リーゼロッテは手を動かしながら尋ねた。

「魔王がいなくなれば、貴様の国は混乱するのではないかしら」


「混乱はするだろうな。だが、俺がいない方が、あいつらにとっては平和かもしれない」


ゼファードは遠くの山並みを見つめた。

「俺は、強すぎたんだ。俺がいる限り、人間は魔族を恐れ、攻撃の手を休めない。……もし、魔王という象徴が消滅したと思われれば、一時的にでも不毛な争いは止まるだろう」


「……貴様は、自分の居場所を捨ててもいいというの?」


「居場所、か。……俺の居場所は、城の中にあったことは一度もない」


彼はそこで言葉を切り、リーゼロッテをじっと見つめた。


「俺の居場所は、いつも……ずっと昔に失った、あの約束の中にしかなかったんだ」


また、あの「約束」の話だ。

リーゼロッテは、その言葉が出るたびに、記憶の深淵がざわつくのを感じていた。

思い出せない。けれど、確かに何かがそこにある。

暗い闇の底で、誰かが自分の名前を呼んでいるような。

自分を抱きしめ、「ごめんね」と泣いているような。


「……私の、中に……貴様を知っている私が、いるの?」


彼女の問いに、ゼファードは答えなかった。

ただ、悲しげな微笑みを湛えて、濡れた彼女の手をそっと握った。


「その答えを出すのは、俺じゃない。君自身だ。……焦ることはない。今はただ、この時間を楽しもう」


昼下がり。

聖域の陽光は優しく、二人は草原に座って、何もしない時間を過ごしていた。

アステール王国では考えられない「浪費」の時間。


リーゼロッテは、足元に咲く紫色の花を眺めていた。

「ねえ、この花。なんていう名前か知っている?」


「……『追憶の星』だ」


ゼファードが即座に答えた。

「この聖域にしか咲かない花だと言われている。精霊たちが、大切な記憶を失わないように、その香りに想いを封じ込めたという伝説がある」


「追憶の星……」


リーゼロッテは一輪の花を摘み、鼻に近づけた。

微かに、甘く、けれどどこか切ない香りがした。

その瞬間。


バサリ、と彼女の脳内で、古い本の頁がめくれるような音がした。


――真っ暗な部屋。

――泣いている小さな女の子。

――その手を握る、誰か。


『泣かないで。僕が、全部持っていってあげるから』

『君の悲しみも、君の痛みも。君が忘れてしまうその時まで、僕が全部、代わりに背負うよ』


「あ……っ!」


強烈な既視感。

リーゼロッテは頭を押さえて蹲った。

「リゼ!? どうした!」


ゼファードが慌てて彼女を抱き寄せる。

その時、静かに眠っていたはずのアスカロンが、凄まじい熱を帯びて咆哮した。


――感情を、喰らえ。

――記憶を、消せ。

――光の器であれ。


彼女の魂に刻まれた呪いのプログラムが、記憶の扉を開こうとした彼女の「意志」に反応し、強制的な削除を開始したのだ。


「あ、あああああ……! やめて……見せて……私は、誰と……!」


「リゼ! ダメだ、抗うな! 今の君ではまだ耐えられない!」


ゼファードは彼女を抱きしめ、自分の魔力を無理やり彼女の体内に流し込もうとした。

しかし、ここは聖域だ。彼の漆黒の魔力は、彼女の肌に触れる瞬間に中和され、霧散してしまう。


「くそっ……! 聖域の理め……!」


ゼファードは決断した。

彼は自分の指を噛み切り、溢れ出す鮮血を、リーゼロッテの額に直接塗りつけた。

魔族の血には、強い呪詛と魔力が宿っている。それが聖域の力で中和される「瞬間」の爆発的なエネルギーを利用して、アスカロンの干渉を強引に遮断しようとしたのだ。


「ぐ……ああああ!」


リーゼロッテの体が跳ね、やがて糸が切れた人形のように、ゼファードの腕の中に崩れ落ちた。


「……はぁ、はぁ……」


ゼファードは荒い息をつきながら、ぐったりとした彼女を抱きしめ続けた。

彼女の銀色の髪に顔を埋め、彼は誰もいない草原で、一筋の涙を流した。


「……すまない、リゼ。俺が、不甲斐ないばかりに。君にこんな……二度も、地獄を味わわせるなんて」


彼の独白は、風に乗って消えていった。


数時間後。

西の空が赤く染まる頃、リーゼロッテは目を覚ました。


「……また、貴様に助けられたのね」


彼女の瞳には、先ほど見た断片的な映像の記憶は、もう残っていなかった。

アスカロンは、完璧にその「記憶」を処理し終えたのだ。

彼女に残ったのは、ただ、心が削られた後の虚脱感と、なぜか涙が止まらないという生理的な現象だけだった。


「……なぜ、私は泣いているの?」


自分の頬を伝う涙に驚き、リーゼロッテは指でそれを拭った。

「悲しいわけではないの。何が起きたかも、覚えていない。なのに、胸がこんなに苦しくて……」


ゼファードは彼女の傍らに座り、静かにその涙を眺めていた。


「それは、君の魂が覚えているからだ。頭が忘れても、言葉を失っても、魂に刻まれた痛みだけは、消えないんだよ」


「……魂に、刻まれた痛み……」


リーゼロッテは自問した。

自分は、何をそんなに痛がっているのだろう。

魔王を討てなかったこと? 国を離れたこと?

それとも……もっとずっと以前から、自分はこの痛みを抱えて生きてきたのだろうか。


「ゼファード。貴様は、その『痛み』を知っているのね」


「ああ。嫌というほどな」


「……教えて。どうすれば、その痛みは消えるの?」


ゼファードは少し考え、彼女の頭を優しく撫でた。


「消す必要はない。それは、君が誰かを想い、誰かに想われた証だからだ。その痛みを抱えたまま、笑えるようになるまで……俺が、ずっとそばにいる」


その言葉に、リーゼロッテは再び胸が熱くなるのを感じた。

今度はアスカロンも反応しなかった。

それはあまりに微かで、あまりに静かな「安らぎ」という感情だったからかもしれない。


二人は、燃えるような夕焼けの下、寄り添って空を見上げ続けた。

聖域の時間は、どこまでも優しく、どこまでも残酷に過ぎていく。


だが、その頃。

聖域の外側――現実の世界では、不穏な動きが加速していた。


アステール王宮の地下。

聖王は、巨大な魔法陣の前に立っていた。

その中心には、リーゼロッテの髪の毛一本が捧げられている。


「……見つけたぞ。世界の狭間、聖域か。魔王を道連れに心中するとは、出来損ないの娘め」


聖王の瞳には、娘を案じる色など皆無だった。


「白銀騎士団を招集せよ。精霊の守護など、聖剣の真の力をもってすれば紙同然。魔王もろとも、あの場所を消し去ってやる」


聖王の背後で、数多の鎧の音が鳴り響く。

聖域という「仮初の休息」の場所が、やがて血と炎に染まろうとしていることを、二人はまだ知る由もなかった。

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