2 虚無の聖域
鳥の囀りさえ聞こえない、完全な静寂だった。
リーゼロッテが再び目を覚ましたとき、太陽はすでに中天を過ぎ、傾きかけていた。薄れゆく意識の中で見た青空は、今は淡い茜色に染まり始めている。
「……っ」
身を起こそうとして、全身の筋肉が軋むような痛みに顔をしかめた。
まるで重い鉛を全身に括り付けられているようだ。アステール王国の第一王女として、そして聖剣の担い手として、過酷な訓練に耐えてきたはずの肉体が、全く言うことを聞かない。
原因は明白だった。魔王城での一戦で、アスカロンに魔力を――いや、自らの「魂の欠片」を過剰に吸い取られた後遺症だ。
リーゼロッテはゆっくりと視線を巡らせた。
見渡す限りの草原。名も知らぬ淡い紫色の花が、風に揺れて海のように波打っている。遠くには切り立った岩山が見え、その向こう側は霞がかっていて何があるのか分からない。
魔界の禍々しい瘴気も、王都の冷たい石造りの壁もない。ただ、圧倒的な自然だけがそこにあった。
「起きたか」
静かな声がして、リーゼロッテはびくりと肩を震わせた。
少し離れた木陰で、ゼファードが腕を組んでこちらを見ていた。漆黒の髪が風に揺れ、紅い瞳が静かに彼女を射抜いている。魔王城で対峙した際の、あの底知れぬ威圧感はない。今の彼は、まるで長旅に疲れた一人の青年のように見えた。
「……私の剣は、どこ」
ひび割れた唇から、掠れた声が漏れる。
ゼファードは顎で傍らの地面をしゃくった。そこには、かつて白銀の輝きを放っていた聖剣アスカロンが、ただの古びた鉄の塊のように無造作に転がっている。
リーゼロッテは這いずるようにして剣に手を伸ばした。
柄を握りしめ、魔力を込めようとする。だが、何も起きない。いつもなら、剣が彼女の感情を喰らい、その代償として神聖な光を放つはずなのに。
「無駄だと言ったはずだ。ここは『精霊の聖域』。世界が造り出された時の純粋なマナだけが満ちている場所だ。人間の練り上げる魔力も、魔族の瘴気も、ここでは一切の形を成さない」
「……嘘よ」
「嘘ではない。試しに俺を刺してみるといい。その重いだけの鉄屑で、俺の皮膚が裂けるかどうか」
ゼファードは立ち上がり、無防備な胸を晒して彼女の前に立った。
リーゼロッテは歯を食いしばり、両手でアスカロンを構え、ふらつく足で立ち上がった。そして、渾身の力を込めてゼファードの胸を突いた。
ガキッ、と鈍い音がした。
剣先はゼファードの服をわずかに破っただけで、その下にある頑強な肉体に弾き返された。反動でリーゼロッテの手から剣が滑り落ち、彼女自身もバランスを崩して地面に倒れ込んだ。
「あ……っ……」
惨めだった。
魔王を殺すことだけを存在理由として育てられてきた自分が、ただの鉄の棒すらまともに振れない。何もできない。空っぽの器になったような喪失感が、彼女の胸を冷たく撫でた。
「無茶をするな。君の体は、まだ魔力枯渇のショックから回復していない」
ゼファードが跪き、倒れ込んだ彼女の肩に手を伸ばした。
「触らないで!」
リーゼロッテは鋭く叫び、彼の手を振り払った。
「私に……情けなどかけるな。私はお前を殺すためにここへ来た。お前が私を殺さないのなら、私が息を吹き返した時、必ずお前の首を掻き切る」
憎悪に満ちた言葉をぶつけても、ゼファードの表情は変わらなかった。ただ、伸ばしかけて宙を彷徨うその手に、微かな痛みの色が滲んだだけだった。
「……そうか。だが、死人に首を掻き切られる趣味はない。まずは生き延びることだ」
彼はそう言って立ち上がり、少し離れた場所にある焚き火の方へと歩いていった。
夜の帳が下りると、聖域は深い闇に包まれた。
空には、王都では見たこともないような満天の星が輝いている。
焚き火のパチパチとはぜる音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
ゼファードは、どこからか調達してきた木の実と、野兎の肉を煮込んだスープを木の器によそい、リーゼロッテの前に置いた。
「食べろ。体が冷え切っている」
リーゼロッテは膝を抱えたまま、その器を睨みつけた。
空腹は感じている。胃は縮み上がり、体は栄養を求めて悲鳴を上げている。だが、魔族から与えられた食事に口をつけることなど、王女としての矜持が許さなかった。
「……毒が入っているかもしれないものなど、食べない」
「俺が君を殺す気がないことは、昼間のやり取りで分かったはずだが?」
「お前の思惑など知らない。私を油断させて、捕虜として利用する気でしょう」
ゼファードは深くため息をついた。
「君は本当に、教えられたことしか口にしない人形のようだな。……いいだろう」
彼は自分の器を取り、一口飲んでみせた。
「これでいいか? 毒見は済んだ。冷める前に飲め」
リーゼロッテはしばらく躊躇っていたが、寒さと空腹に抗えきれず、震える手で器を受け取った。
立ち上る湯気が、冷え切った顔を微かに温める。
ゆっくりと口をつけ、温かい液体を喉の奥へ流し込んだ。
「……」
肉の旨味と、木の実のほのかな甘み。塩気は足りないが、冷え切った体には染み渡るような熱があった。
「どうだ。口に合うか?」
ゼファードが静かに尋ねる。
リーゼロッテは器を見つめたまま、小さく首を傾げた。
「……分からない」
「分からない?」
「温かいことは分かる。胃が満たされていく感覚もある。……けれど、それが『美味しい』という感覚に結びつかないの。味が、ただの情報として頭を通り過ぎていくだけで……心が、何も感じない」
リーゼロッテの言葉に、ゼファードの手がピタリと止まった。
焚き火の明かりに照らされた彼の横顔が、ふっと歪む。
「……アスカロンの呪いか」
ゼファードは忌々しそうに、足元に転がっている聖剣を睨みつけた。
「感情を燃料とする剣。恐れ、怒り、悲しみ、そして……喜びや幸福の記憶すらも喰らい尽くす。君は今、自分が何を失ったのかすら、正確に把握できていないのだろう?」
リーゼロッテは黙って頷いた。
そうだ。彼女の中には、いくつもの「空白」がある。
かつては好きだったはずのものの名前が思い出せない。誰かに優しくされた記憶の輪郭がぼやけている。そして、何かを「美味しい」と感じた時の、あの胸が温かくなるような幸福感が、完全に欠落してしまっているのだ。
「私は、兵器だから。……兵器に、美味しいという感情は必要ない。戦うための魔力さえあれば、それでいい」
自分に言い聞かせるように、淡々と告げるリーゼロッテ。
その虚ろな瞳を見た瞬間、ゼファードは堪えきれないというように顔を覆った。
「……狂っている。アステールの連中は、こんな少女の魂を削ってまで、俺を殺したかったというのか」
彼の声は、怒りよりも深い悲しみに震えていた。
魔王である彼が、なぜ人間の、それも自分を殺しに来た敵の痛みに寄り添うような顔をするのか。リーゼロッテにはそれが理解できなかった。
「同情しているの?」
「同情? ……違う。これは、俺の罪だ」
ゼファードは顔を上げ、燃え盛る炎を見つめた。紅い瞳の中に、千年の時を越えるような深い後悔の念が渦巻いている。
「俺がもっと早く、君を見つけ出していれば。こんな呪われた剣など、君に握らせる前に……」
「……どういう意味?」
「今はまだ、話す時ではない。君の心が、これ以上の負荷に耐えられない」
ゼファードはそれ以上語ることを拒絶し、薪を一本火に焚べた。
彼の言葉の真意は分からない。しかし、彼が自分に向けている感情が、少なくとも「殺意」や「悪意」ではないことだけは、感情を失いかけたリーゼロッテにも伝わってきた。
翌朝。
リーゼロッテは、少しだけ体力が回復したのを感じて立ち上がった。
ゼファードは姿を見せなかった。おそらく、食料の調達にでも行っているのだろう。
彼女は錆びついたアスカロンを引きずりながら、草原を歩き始めた。
どこかに出口があるはずだ。ここから抜け出し、魔力が戻れば、再び彼を討つことができる。あるいは、王都へ戻り、父に報告しなければならない。
一時間ほど歩いただろうか。
風景は一向に変わらない。どこまで行っても、淡い紫色の花が咲く草原が続いている。
やがて、彼女の行く手を遮るように、空へと続く巨大な「壁」が現れた。
いや、壁ではない。それは空間そのものが歪んでできた、半透明の結界のようなものだった。結界の向こう側は、ただ灰色の靄が立ち込めているだけで、何も見えない。
「これが……聖域の境界……」
リーゼロッテは手を伸ばし、結界に触れようとした。
バチッ!
強い静電気が走ったような痛みに、思わず手を引っ込める。
微弱だが、確かな拒絶の力。物理的な壁ではなく、世界の理そのものが、ここから先の通行を禁じているようだった。
「無駄だ。そこから外には出られない」
背後から声がして振り返ると、果実を抱えたゼファードが立っていた。
「この聖域は、本来なら人間も魔族も立ち入ることのできない、世界から切り離された次元の狭間だ。あの転移魔法の暴走が偶然この場所と繋がっただけで、外に出る方法は俺にも分からない」
「……一生、ここに閉じ込められると言うの?」
「少なくとも、外からの干渉があるか、空間の歪みが自然に修復されるまではな」
ゼファードは事も無げに言ってのけ、抱えていた果実の一つを彼女に投げ渡した。
リーゼロッテはそれを受け取りながら、絶望的な気分になった。
出られない。
魔力も使えない。
魔王を殺すこともできない。
「……なら、私は何のためにここにいるの」
ぽつりと、乾いた声がこぼれた。
「え?」
「私は、魔王を討つために育てられた。聖剣の器として、すべてを犠牲にしてきた。その目的が果たせないのなら……私という存在には、何の意味があるの?」
彼女の言葉は、まるで迷子になった子供のように震えていた。
感情を殺してきたはずの胸の奥底で、得体の知れない恐怖が渦巻いている。
自分は空っぽだ。アスカロンが記憶を食いつくしたせいだけではない。最初から、自分には「魔王を殺す」という役割以外、何も与えられていなかったのだ。
その役割を奪われた今、リーゼロッテ・アステールという少女には、何一つ残っていない。
ゼファードは、果実を地面に置き、ゆっくりと彼女に近づいた。
「来るな……!」
リーゼロッテは咄嗟にアスカロンを構えようとしたが、剣は重く、地面から持ち上がらない。
ゼファードは彼女の抵抗を気にすることなく、その細い肩を力強く、けれど優しく抱き寄せた。
「な、にを……離して……!」
「意味など、なくていい」
ゼファードの声が、頭上から降ってくる。
「君は兵器ではない。ただの、一人の不器用な少女だ。魔王を殺す義務も、世界を救う責任も、こんな場所に持ち込む必要はない。ここでは君は、ただ息をして、空を見て、花を綺麗だと思うだけでいいんだ」
「綺麗だなんて……思えない。私には、心がないから……!」
「あるさ。俺が保証する。君の心は、まだ完全に死んではいない」
彼の手が、リーゼロッテの銀色の髪をゆっくりと撫でる。
その不器用な優しさに触れた瞬間。
リーゼロッテの胸の奥で、アスカロンが「異物」を感知したかのようにドクン、と脈打った。
「あ……っ、が……!」
激しい頭痛が襲い、リーゼロッテはゼファードの胸に顔をうずめて崩れ落ちた。
聖剣の呪い。
魔法が使えないこの空間であっても、魂に深く根付いた呪いだけは彼女を蝕み続けている。魔王という絶対的な「敵」の優しさに触れ、彼女の心がわずかに揺れ動いた瞬間、剣がその『揺らぎ(感情)』を喰らおうと暴走したのだ。
「リゼ!」
ゼファードは彼女の体を支え、自らの漆黒の魔力を無理やり練り上げようとした。しかし、聖域の力に阻まれ、魔力は霧散してしまう。
「だめだ……このままでは、彼女の自我が剣に食い破られる……!」
ゼファードは指を噛み切り、流れる自分の血をリーゼロッテの口元に押し当てた。
「飲め、リゼ。俺の血には、呪いを相殺する毒がある。剣の意識をそらすんだ!」
「う……あ……いや……!」
拒絶しようとするリーゼロッテの口内に、鉄の味が広がる。
その瞬間、強烈な熱が体内を駆け巡り、アスカロンの貪欲な侵食がピタリと止まった。
代わりに、ドッと疲労が押し寄せ、リーゼロッテの意識は急速に暗闇へと沈んでいく。
再び目を覚ました時、彼女は焚き火のそばに敷かれた柔らかな草のベッドの上に寝かされていた。
すぐ傍らでは、ゼファードが心配そうに彼女の顔を覗き込んでいる。
彼の指先には、血を流した生々しい傷跡が残っていた。
「……また、助けられたのね」
リーゼロッテは、自分の声が驚くほど弱々しいことに気づいた。
「君の中の聖剣は、厄介な代物だ。俺の血で一時的に抑え込んだが、君が強く感情を動かすたびに、剣はそれを喰らおうとするだろう」
ゼファードは血を拭き取りながら、静かに告げた。
「……なぜ、そこまで私を助けるの。私が壊れれば、お前を脅かすものは誰もいなくなるのに」
リーゼロッテは、ついにその疑問を口にした。
敵であるはずの魔王。残虐非道と教えられてきた存在。しかし、目の前にいる彼は、自らを傷つけてまで自分を守ろうとしている。
ゼファードは焚き火の炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……昔、ある少女に約束したんだ」
「約束?」
「ああ。『もし君がすべてを忘れて、運命に押し潰されそうになった時は、俺が必ず見つけ出して、君の痛みを引き受ける』と」
紅い瞳が、炎の揺らめきの中で悲しげに光る。
「その少女は、君とよく似ていた。いや……君のように、不器用で、誰かのために自分を犠牲にしてしまう、馬鹿な女の子だった」
ゼファードの視線が、リーゼロッテに向けられる。
その瞳の奥にある痛切な愛おしさに触れた瞬間、リーゼロッテの胸の奥で、再び何かがチクリと痛んだ。
しかし今度は、アスカロンが感情を喰らう痛みではなかった。
それはもっと原始的な、人間としての、誰かの悲しみに共鳴するような「胸の痛み」だった。
「……変な人」
リーゼロッテは目を伏せ、ぽつりと呟いた。
魔王に対して抱くべきではない、静かな安堵感。
敵同士でありながら、この奇妙な空間で、二人は少しずつ、互いの孤独を埋め合わせるように寄り添い始めていた。
だが、彼らがまだ知らないことがある。
この聖域の時間が、永遠ではないこと。
そして、現実世界では、彼女を道具として利用しようとする実の父親――聖王が、最凶の追討部隊を放つ準備を進めているということを。
虚無の聖域で芽生え始めた小さな温もりは、やがて訪れる残酷な運命の前の、短すぎる休息に過ぎなかった。




