10 ただ、生きて死ぬための祝福
次元の断層。そこは光も音も、時間という概念すらも凍りついた「虚無」の底だった。
崩壊する偽りの聖域から弾き出されたリーゼロッテとゼファードは、重力のない暗黒の海を漂っていた。ゼファードの漆黒の翼は根元から無残に千切れ、彼の肉体を構成していた膨大な魔力は、宇宙の塵のように細かく剥落し続けている。
けれど、彼がリーゼロッテを抱きしめる腕の力だけは、決して緩むことがなかった。
「……ゼファード、身体が……透けているわ」
リーゼロッテは震える指先で、彼の頬に触れた。
魔王としての絶対的な存在が、今、文字通り崩壊しようとしている。聖域を道連れにした次元跳躍は、不死に近い彼の命すらも燃やし尽くす劇薬だった。
「気にするな。……俺という器が割れて、中身がこぼれているだけだ。……君さえ無事なら、それでいい」
ゼファードは血を吐きながらも、不敵に笑った。
その時、暗黒の空間に、耳障りなガラスの擦れ合うような音が響き渡った。
『……愚かな。器を壊せば、中身は霧散し、消滅するだけだというのに』
虚無を切り裂いて現れたのは、巨大な「白銀の樹」だった。
枝葉のすべてが剣の刃で構成され、根は無数の人間の亡骸――過去の聖女たちの祈りと絶望――を吸い上げている。それこそが、アステール王国が信仰し続けた「聖剣アスカロン」の真の姿であり、その中心には、肉体を捨てて概念と化した聖王の顔が浮かび上がっていた。
『愛などというひび割れた感情を選ぶから、そうして朽ちていくのだ。リーゼロッテよ、まだ遅くはない。その魔王の残骸を捨て、私の元へ戻れ。お前を永遠の静止の中に閉じ込め、二度と傷つかない完璧な神像にしてやろう』
白銀の樹から、無数の光の根がリーゼロッテへと伸びてくる。
それは、痛みを奪い、感情を奪い、代わりに「永遠」を与えるという、甘く恐ろしい誘惑だった。
「……お断りよ」
リーゼロッテは、伸びてくる光の根を、自らの内側から溢れ出す「漆黒の光」で弾き返した。
「傷つかない完璧な神像なんて、ただの石ころと同じ。……私は、痛くても、苦しくても、彼と一緒に明日を怖がりながら生きていきたいの!」
リーゼロッテは、ゼファードの胸ぐらを掴み、彼を自分の方へと強く引き寄せた。
「ゼファード! あなたもよ! 私のために勝手に消えるなんて許さない! 千年も私を待っていたんでしょう!? だったら、私の我儘に最後まで付き合いなさい!」
「……ああ、そうだな。まったく、君には敵わない」
ゼファードの紅い瞳に、再び強烈な光が宿る。
彼は残された最後の命の炎を、攻撃ではなく「リーゼロッテの心との完全な同調」へと注ぎ込んだ。
二人の魔力が、虚無の空間で完全に溶け合う。
聖女の祈りと、魔王の呪い。相反する二つの力が極限まで圧縮され、やがて一切の色を持たない「透明な嵐」となって爆発した。
『な……何だ、この力は!? 浄化でも、破壊でもない……理そのものを書き換えるというのか!?』
聖王の絶叫が響く。
透明な嵐は、白銀の樹を攻撃したのではない。樹が寄りかかっていた「永遠」や「絶対」という次元のルールそのものを、強引に「有限」へと引きずり下ろしたのだ。
「お父様。……永遠なんて、ただの牢獄よ」
リーゼロッテの言葉と共に、白銀の樹が内側からひび割れ、崩壊を始めた。
概念の樹が、ただの鉄屑となり、虚無の底へと落ちていく。
『……あぁ……私の、千年が……完璧な世界が……!』
呪縛は解かれた。
聖王の執念と共に、アスカロンというシステムそのものが、この宇宙から完全に消滅した瞬間だった。
しかし、それは同時に、リーゼロッテの聖なる力と、ゼファードの魔の力の「完全な消失」をも意味していた。
神も魔もない、ただの「肉の塊」となった二人は、次元の底が抜けたことで、抗う術を持たないまま、重力の渦へと真っ逆さまに落下していった。
――痛い。
それが、リーゼロッテが目を覚まして最初に感じたことだった。
全身の骨が軋み、肺が空気を求めて焼けるように痛む。
頬に触れているのは、冷たく湿った泥。そして、容赦なく吹き付ける冷たい風だった。
「……あ、う……」
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、無骨な岩肌と、荒涼とした大地。そして、雲の隙間から差し込む、目に痛いほどの「朝日」だった。
「……リ、ゼ……」
すぐ横で、かすれた声がした。
ゼファードだ。
彼もまた泥だらけになり、うつ伏せに倒れていた。
リーゼロッテは這いずるようにして彼に近づき、その身体を抱き起こした。
「ゼファード! しっかりして、ゼファード!」
彼の背中にあった翼の痕跡は完全に消え去り、ただの痛々しい火傷の痕になっている。
そして、彼の額から流れている血は、魔族の漆黒の血ではなく、人間と同じ「鮮やかな赤」だった。
「……はは……。どうやら、俺は……ただの人間に成り下がってしまったらしい」
ゼファードは、自分の赤い血を見て、ひどく嬉しそうに笑った。
「魔力も、超常の回復力も、何もない。……寒いし、傷は痛いし、身体は鉛のように重い」
「馬鹿ね……。私も、同じよ。……指先一つ動かすのにも、こんなに力がいるなんて……知らなかった」
二人は、泥にまみれたまま、身を寄せ合った。
それは、超常の力を失い、世界の頂点から最底辺へと転げ落ちた二人の、惨めで、脆弱で、けれど何よりも美しい「誕生」の瞬間だった。
「……ゼファード。心臓の音が、聞こえるわ」
「ああ。君の音も、よく聞こえる」
二人を繋ぐのは、もう宿命でも、魔法でもない。ただの、温かい血の巡りだけだった。
それから数日。
名もなき荒野で、二人の「人間」としての生活が始まった。
魔法で火を起こすことはできない。ゼファードは半日かけて火打ち石を見つけ、手の皮を剥きながら火種を作った。
結界で寒さを防ぐことはできない。リーゼロッテは震えながら、ゼファードの外套に二人でくるまり、互いの体温だけを頼りに夜を越えた。
「……焦げちゃった」
ある日の夕暮れ。焚き火で焼いていた野鳥の肉が真っ黒になり、リーゼロッテが泣きそうな顔をした。
「ごめんなさい、ゼファード。私、本当に何もできない……」
ゼファードは、その黒焦げの肉をむしり取り、口に運んだ。
「……いや。少し苦いが、悪くない。それに……」
彼は、泥で汚れたリーゼロッテの頬を指先でそっと拭った。
「君が俺のために焼いてくれた肉だ。……千年前のどんな御馳走よりも、美味いよ」
「……もう。すぐにそうやって、甘やかすんだから」
リーゼロッテは照れ隠しに笑い、自分も焦げた肉をかじった。
不味い。固い。泥臭い。
けれど、咀嚼して喉の奥に落ちていくその熱が、自分が今「生きている」ことを強烈に実感させてくれた。
「……ねえ、ゼファード。私たち、これからどうなるのかしら」
「さあな。……病気になるかもしれないし、怪我で死ぬかもしれない。長く見積もっても、あと五十年もすれば、二人ともシワだらけの爺さんと婆さんになって、土に還るだろう」
ゼファードは、夜空を見上げた。
そこには、偽りの聖域にあったようなどす黒い紫ではなく、無数の星が瞬く、果てしなく深い「青」と「黒」の世界が広がっていた。
「……たったの五十年。……千年を生きたあなたにとっては、瞬きみたいな時間ね」
「だからこそ、惜しいんだ」
ゼファードはリーゼロッテの肩を抱き寄せた。
「一日たりとも、無駄にできない。君と笑い、君と泣き、共に老いていくための、忙しくて愛おしい時間だ。……永遠なんて、もういらない」
「……ええ。私も、同じよ」
リーゼロッテは、彼の肩に頭を乗せた。
二人の足元には、かつての聖剣の破片も、狂った世界の理もない。
ただ、燃え盛る小さな焚き火の光だけが、彼らの「明日」を静かに照らし出していた。




