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断罪の剣と、忘却の魔王 ―― 滅びゆく世界の終わりに君を想う  作者: 御子神 花姫


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1 宿命の邂逅

その剣は、持ち主の「心」を糧に輝く。

聖教国アステールの第一王女、リーゼロッテ・アステールは、冷え切った回廊を一人歩んでいた。


アステールの王宮は、白亜の石材で築かれた芸術品のような美しさを誇っているが、そこに住まう者の心まで温めることはない。高く聳える天井、等間隔に並ぶ精緻な彫像、そして床に敷かれた真紅の絨毯。そのすべてが、リーゼロッテには自分を閉じ込める檻の装飾に見えていた。


カツ、カツと、硬い軍靴の音が静寂を切り裂く。

彼女の背には、代々の王女が継承してきた「聖剣アスカロン」が負わされていた。鞘に収まってなお、その剣は周囲の空気を凍てつかせるような神聖な威圧感を放っている。


「リゼ、行っておしまい。お前は我が国の、いや、人類の最後の希望なのだから」


謁見の間で父――アステール国王が告げた言葉を思い出し、リーゼロッテはわずかに唇を噛んだ。父の瞳に宿っていたのは、愛娘を戦地へ送り出す親の悲しみではない。ようやく完成した「究極の兵器」を試射する職人のような、冷徹な期待と狂信だった。


リーゼロッテは、生まれながらにして規格外の聖なる魔力を有していた。

しかし、その力は祝福などではない。彼女がその力を振るい、聖剣を抜くたびに、対価として彼女の中から「何か」が消えていく。


幼い頃、乳母が作ってくれた蜂蜜菓子のとろけるような甘み。

誕生日に母に抱きしめられた時の、日向のような温もり。

初めて馬に乗った時の、世界が広がったような高揚感。


戦い、魔族を屠るたびに、それらの大切な記憶は銀色の魔力の奔流へと溶け、永遠に失われていく。

十九歳になった今、リーゼロッテの瞳は、感情を映さない曇った硝子玉のようだった。彼女はすでに「悲しい」という感情がどのようなものだったか、正確に思い出すことができない。ただ、胸の奥にぽっかりと空いた空洞が、冷たい風に吹かれているような感覚だけが残っていた。


「……魔王、ゼファード」


その名を口にすると、空洞の縁がチリりと焼けるような感覚がした。

魔界を統べる若き王。数多の魔族を率い、数百年ぶりに人間界への侵攻を開始した「災厄」の象徴。

彼を殺せば、この戦争は終わる。そして、自分の役割も終わる。

残った心の欠片さえ、すべて捧げてしまっても構わない。彼女は自分を、そう納得させていた。


王宮のテラスに出ると、遥か北の空は、漆黒の魔雲に覆われていた。

あそこが、魔王城。世界の終わりが始まる場所。

リーゼロッテは、銀色の髪を夜風になびかせ、迷うことなく闇へと踏み出した。


魔王城は、重力さえも歪んでいるかのような、禍々しい黒塔の集合体だった。

周囲を取り囲む魔族の軍勢を、リーゼロッテは一人で蹂躙した。

聖剣を抜く必要すらなかった。彼女の体から溢れ出す無意識の魔力だけで、低級の魔族は塵となって消え、中級以上の魔族も、彼女の冷徹な剣技の前に次々と沈んでいった。


城の最上階へ至る階段を登るほど、彼女の心は削られていく。

一段登るごとに、昨日食べた食事の味が消える。

もう一段登るごとに、幼い頃に見た美しい庭園の色が褪せる。


ようやく辿り着いた玉座の間。

重厚な扉を蹴り開けると、そこには、想像していたような、牙を剥く怪物は存在しなかった。


逆光の中に佇んでいたのは、一人の青年だった。

夜の闇をそのまま形にしたような漆黒の髪。切れ長の目元に宿る、燃えるような、けれどどこか深い湖のような静謐さを湛えた紅い瞳。彼は豪華な装飾を一切排除した、飾りのない黒衣を纏い、ただ静かに、開け放たれた窓から荒れ狂う嵐を眺めていた。


「……ようやく来たか。リーゼロッテ」


魔王ゼファードは、背を向けたまま、愛おしい者の名を呼ぶような声音で呟いた。

その声は、驚くほど低く、穏やかだった。


「魔王ゼファード。聖教国アステールが第一王女、リーゼロッテ・アステール。……貴様を討ち、この無益な争いに終止符を打つ」


リーゼロッテは、背中の聖剣アスカロンに手をかけた。

抜剣と同時に、彼女の脳裏から、かつて愛用していた小さな手鏡の記憶が鮮やかに剥がれ落ちた。それは亡き母の形見だったはずだが、今の彼女には、それがなぜ大切だったのかさえもう分からない。


キィィィィィィィン!


大気が震えるような高周波の音とともに、銀白の光が部屋を満たした。

アスカロンが、真の姿を現す。

その刀身は透き通るような白銀で、神々しいまでの殺気を放っていた。


「抜くのが早いな。……君とは、もっとゆっくり話をしたいと思っていたんだが」


ゼファードがゆっくりと振り返る。彼の瞳には、死を前にした者の恐怖も、宿敵を迎え撃つ者の高揚もなかった。

そこにあるのは、胸が締め付けられるような、深い、深い憐憫だった。


「魔族と交わす言葉など持たない。死ね」


リーゼロッテの体から、爆発的な魔力が噴き出す。

彼女の足が床を蹴ると同時に、衝撃波で大理石の床が粉々に砕け散った。

音速を超えた一撃が、ゼファードの首筋を正確に狙う。

だが、ゼファードは避けることもしなかった。


「……っ!?」


ガツン! という重い衝撃。

ゼファードは、素手の右手を軽く挙げただけで、漆黒の魔力の壁を作り出し、アスカロンの直撃を受け止めていた。


「相変わらず、迷いのない剣筋だ。……いや、迷うための『心』を、もうそこまで削られてしまったのか、リゼ」


「その名で呼ぶなと言っている……!」


リーゼロッテはさらにアスカロンを押し込む。

対価として、今度は「親友と笑い合った放課後の記憶」が、彼女の脳から強制的に引き抜かれる。

力が膨れ上がり、黒い障壁に亀裂が入った。


「リゼ。君はそうやって、自分を切り売りしてまで戦わなくていい。君を道具として扱う者たちのために、なぜそこまで捧げる?」


「黙れ……! 貴様に何がわかる! 私は、この世界を守るために生まれてきたのだ!」


「世界を守るだと? その世界の中に、君自身の幸福は含まれていないのか?」


ゼファードの声が、リーゼロッテの心の奥底、凍りついた感情の層を揺さぶる。

そんなはずはない。自分は幸福だ。国を救う英雄として、父に認められ、民に崇められている。

――けれど、その「誇り」すら、アスカロンは今この瞬間にも食らい尽くそうとしている。


「うるさい、うるさい、うるさい!」


激昂に近い叫びとともに、リーゼロッテは禁忌の術式を開放した。

アスカロンの刀身が、持ち主の命そのものを燃やすように、赤白い光を放ち始める。

代償は、彼女が唯一残していた「自分の名前を呼ぶ母の声」だった。


「消えろ、魔王!」


聖なる光の奔流が、ゼファードを飲み込んだ。

魔王城の天井が吹き飛び、漆黒の雲が白銀の光によって浄化されていく。

凄まじいエネルギーの衝突。

しかし、光の渦の中で、ゼファードは一歩も引いていなかった。


彼は、自分の胸に深々と突き刺さろうとするアスカロンを、素手で掴んでいた。

掌から流れる魔族の黒い血が、聖剣の輝きを汚していく。


「あ……がっ……!」


リーゼロッテの体に、今までにない異変が起きた。

聖剣が、魔王の強大な力に「共鳴」してしまったのだ。

持ち主の制御を離れ、アスカロンは際限なくリーゼロッテの魂を吸い上げようとする。

彼女の視界が白く染まり、自我がバラバラに砕けそうになる。


「リゼ! 剣を離せ!」


ゼファードの叫び。

彼は自分を殺そうとしている女を助けるために、あろうことか自らの魔力をアスカロンへ逆流させた。

聖と邪。相反する二つの強大な魔力が、アスカロンを触媒として一つに混ざり合う。


その瞬間、物理法則を超えた現象が起きた。

空間が、耐えきれずに悲鳴をあげ、飴細工のように歪んだのだ。


「これは……転移、魔法……?」


リーゼロッテは、王宮の魔導師たちが彼女の体に仕込んでいた「保険」を思い出した。

もし彼女が敗北し、魔王に捕らえられた際、魔王ごと未知の空間へ追放するための自爆術式。

それが、二人の魔力の激突によって、意図しない形で発動してしまった。


「ああ……っ、あああああ!」


光が二人を包み込み、世界が反転する。

リーゼロッテは、意識が遠のく中で感じていた。

自分を殺そうとしていたはずの男の手が、驚くほど温かく、そして、必死に自分を庇うように抱き寄せたことを。


「逃がさない……今度こそ、君を一人にはさせない。たとえ、世界が君を忘れても」


遠のく意識の最後で聞いたのは、世界で一番憎むべき敵の、震えるような愛の告白にも似た呟きだった。


次にリーゼロッテが目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど透き通った、吸い込まれるような青空だった。


「……ここは……天界……?」


彼女は掠れた声で呟き、身を起こそうとした。

しかし、全身を走る凄まじい倦怠感と激痛に、思わず顔をしかめる。

指先一つ動かすのにも、泥沼の中を泳ぐような労力が必要だった。


見渡す限り、そこは美しい花々が咲き乱れる草原だった。

アステール王国にも、魔界にも存在しないような、澄んだ空気。

風が吹くたびに、名前も知らない花の香りが鼻腔をくすぐる。


「……気がついたか」


すぐ傍から聞こえた声に、リーゼロッテは反射的に横たわっていた聖剣を掴もうとした。

しかし、彼女の手が空を切る。


「アスカロンなら、あそこだ」


ゼファードが指差した先には、地面に深く突き刺さり、その輝きを完全に失った、ただの錆びた鉄屑のような剣があった。


「ここは『精霊の聖域』……世界の最果てにある、神にも魔王にも見捨てられた場所だ」


ゼファードは、少し離れたところで、焚き火を囲んでいた。

彼は魔王としての禍々しいオーラを完全に消し去り、ただの疲れ果てた旅人のような姿で、木の実を煎じていた。


「どうして……貴様がここにいる」


「転移に巻き込まれたんだ。不運だったな。……いや、俺にとっては幸運だったと言うべきか」


ゼファードは立ち上がり、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。

リーゼロッテは這ってでも逃げようとしたが、足に力が入らない。


「来るな……触るな、汚らわしい魔族め」


「汚らわしい、か。そう教えられてきたんだな。……だが、今の俺に君を傷つける力はない。この場所では、あらゆる魔術が中和される。俺はただの男になり、君はただの娘になった。それだけのことだ」


ゼファードは彼女の前に跪き、水を入れた器を差し出した。


「飲め。死にたくなければな」


リーゼロッテは、彼の紅い瞳を見つめた。

そこには、自分を蔑む色も、利用しようとする色もなかった。

あるのは、ただ静かな、深い慈しみだけ。


彼女は震える手で器を受け取った。

冷たい水が喉を通る。それは、彼女が「心」を削られる前に感じた、あの瑞々しい水の味を、微かに思い出させるものだった。


「……どうして、私を助けた」


「言ったはずだ。君を、一人にはさせないと」


「意味が分からないわ。貴様と私は、敵同士のはずよ。貴様は世界を滅ぼそうとし、私は貴様を殺そうとした」


ゼファードは悲しげに微笑んだ。


「世界を滅ぼそうとしているのが俺なのか、それとも君の背後にいる『聖者』たちなのか……。それを知る時間は、これからたっぷりある」


彼は空を見上げた。

そこには、争いの影など微塵も感じさせない、永遠に続くかのような静寂が広がっていた。


「リゼ。ここでは、君を縛るものは何もない。王女の義務も、聖剣の呪いも。……少しだけ、休むといい」


リーゼロッテは、彼の言葉を拒絶しようとした。

けれど、押し寄せる深い眠気と、目の前の男が放つ不思議な安らぎに、彼女の意識は再び深い闇へと沈んでいった。


これが、宿命に翻弄された二人の、長く切ない逃避行の始まりであることを。

そして、彼女が失った記憶の中に、彼との「本当の約束」が隠されていることを。

今のリーゼロッテは、まだ知る由もなかった。

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