言わぬが花か、知らぬが仏か
最後に、今一度改めてひとつの出来事を簡潔に記しておこう。
ある創作者が「読まれていない」と嘆く投稿を行い、大きな反響を得た。
インプレッションは跳ね上がり、PVは増え、多くの擁護と共感が集まった。
そこに対し、小生は一点だけ指摘をした。
一定数読まれている立場の言葉は、
意図せず本当に届いていない人を相対化する。
発信する側には、その自覚が必要ではないか。
議論は続かなかった。
論点のすり替え、対話の放棄。
「あなたはなにがいいたくて、何をしたいんですか。本質が見えていなさそうですね」
その本質が何なのか、それを語る事も無く当事者は直接の応答を断ち、
ハッシュタグを多く付け、より多くの人へ目に留まる様にした上で
「皆さんどう思いますか?」
Xにて、そう群衆に問いを投げた。
言葉は丁寧で、感情は慎重に整えられていた。
だが、その構造は明確だった。
一対一の対話から離れ、
多数の共感による評決へ移行したのだ。
これは善悪の問題ではない。
SNSにおいて、極めて一般的な行動である。
だが同時に、
議論が終わり、物語へ切り替わった瞬間でもあった。
以後、焦点は
「何が論点だったか」ではなく、
「誰がどう見えるか」へと移っていく。
その結果、言葉は広がったが、問いは深まらなかった。
小生はここで、
どちらが正しいかを断じるつもりはない。
ただ一つだけ、記しておく。
問いに答えぬまま対話を閉じ、群衆に自身が被害者だと公開し、相手が加害者であるというラベルを張り付ける、所謂ロビー活動。
政治の面でも目にする方は多いのではないでしょうか?
近々であれば、中国にその傾向がみられるが、それがどう見られるかは、受け取り手次第ではある。
実際、件の公開処刑ポストは、インプレこそ付けど肝心の意見が限りなく少なく、またその内容も薄い同情と言わざるを得ない。
閑話休題。
それを選ぶ自由は、誰にでもある。
だが同時にその選択が何を生み、何を失わせるのかも、
引き受けなければならない。
言わぬが花か。
知らぬが仏か。
沈黙もまた、一つの主張である。
だが、小生はあくまで納得できる答えが欲しいだけなのだ。
このエッセイを知る前に、件のやり取りを目にした人も、T氏の返信欄から蛇蝎へと辿り着いた人もいるでしょう。
ですが、未だに小生のXは沈黙を保っています。
最後まで問いの答え語られなかったことをここに記して、今回はこの筆を置くとします。
追記です。
件の作家さんの投稿が実に興味深いです。
「ツイートブーストかかって現在5日目なんですけど、見ての通り2日目から落ちてますね。継続するためにはどうしたらよいものか、、、、」
図がないので文章で説明致します。
「読まれない」と嘆いた日に1300~1400PVを達成し、その翌日には400~450PV しかしそれ以降はまさに元の木阿弥。
拙作のエッセイを仕上げたのは2/2の午前中。
このT氏の投稿は2/2の午後。
奇しくもエッセイの内容通りの展開を迎えている訳です。
ブーストが切れたのではない。
餌が尽きただけだ。
「読まれていない」で人は集まる。
「伸びない」で人は集まる。
だがそれは作品ではなく、状況を見に来ているだけ。
火が消えかけた時に問うべきは
「どう継続するか」ではない。
なぜ最初に集まったのかだ。
共感で集まった群衆は、
共感が更新されなければ去る。
物語ではなく、感情を消費していたのだから。
ブーストは才能でも評価でもない。
一度限りの感情投下だ。
そして今、
次の餌を探しているように見える。
——オオカミは、もう叫ばなくていい。
村人は、学習を終えている。




