第2話「フィールドノート」
朝の森は湿り気を帯び、薄い霧が漂っていた。
目を覚ました僕――天野遼は、まだ夢を見ているような感覚のまま、胸ポケットのノートを確かめる。そこには夜の観察記録が残されていた。
〈夜 森の中〉
〈影の小型 humanoid 生物。複数体。〉
〈発声1:「ギャッ」=警戒?〉
〈発声2:「ギャグル」=集結の合図?〉
「……やっぱり現実だ」
異世界転移は荒唐無稽だ。だが、目の前の月が二つ浮かぶ空も、未知の生物の声も、紛れもない事実だった。
僕は研究者として、この状況を“最高のフィールド調査の機会”と捉えることにした。恐怖よりも、知的好奇心が勝っていた。
森を抜けると、小さな村が広がっていた。粗末な柵に囲まれた集落で、見張りの男たちが槍を持って立っている。
彼らの言葉は不思議と日本語に近く、意思疎通ができた。どうやら神の加護とやらのおかげらしい。説明は曖昧だったが、今は深く考えない。
「森には近づくな。ゴブリンが出る」
村人はそう警告したが、僕にとっては願ってもない情報だった。
***
その日の午後、村の外れから森に入り、僕は腰を低くして観察を始めた。
木陰に潜みながら、例の生き物たちを見つける。背丈は一メートルほど、緑がかった肌に鋭い耳。間違いなく昨夜の存在――ゴブリンだ。
彼らは小さな獲物を狩っていた。川辺で魚を捕らえた一体が、腹の底から声を張り上げる。
「グル! グル!」
すると周囲の個体が集まってきて、魚を奪い合い始めた。
僕は急いでノートを取り出す。
〈発声3:「グル!」=食料発見? 報告?〉
その後、別の個体が木の上を見上げ、短く鳴いた。
「ギャッ!」
次の瞬間、仲間が一斉に動きを止め、辺りを警戒する。枝の影にリスのような生き物が走っていただけだったが、明らかに“敵影を察知”した反応だ。
〈発声1再確認:「ギャッ!」=警戒信号〉
さらに、群れの後方から別の鳴き声が響く。
「ギャグル! ギャグル!」
仲間が声の方向に集まり、列を整える。どうやら「仲間を呼ぶ」あるいは「集結命令」に使われるらしい。
僕は夢中でノートを書き込む。
〈発声2再確認:「ギャグル!」=集合/招集〉
〈補足:同じ音でも文脈によって意味が変化?〉
観察を終えると、僕は村に戻り、興奮を抑えきれずに話してしまった。
「ゴブリンの鳴き声には法則があります。『グル!』は食べ物、『ギャッ!』は警戒、『ギャグル!』は集合……ただの叫びではないんです!」
だが村人は僕の言葉に顔をしかめた。
「やめろ。あれは魔物だ。言葉を持つなんて考えるな。呪われるぞ」
「呪い……?」僕は思わず繰り返した。
村人の視線は恐怖に満ちていた。彼らにとってゴブリンは、ただ討つべき“怪物”でしかない。
だが、僕の目には違って見えた。彼らは互いに意思を伝え合い、群れとして機能している。単なる獣ではない。
夜、自室に戻った僕はノートを見つめながら小さく呟いた。
「同じ音でも状況によって意味が変わる……これは明らかに“単語”だ」
言葉を持つなら、必ず解読できる。
僕は新たな仮説に胸を震わせながら、ページにこう書き残した。
〈仮説:ゴブリン語=音節単位の“単語”を持つ言語〉
その瞬間、僕は研究者としての直感を確信に変えた。
この異世界での最初の成果は、必ず“言葉の解読”になる――。