第10話「接触」
森を歩く足取りは、昨日よりもずっと重かった。
胸の奥では恐怖と期待がせめぎ合い、汗が背中をじっとり濡らしている。
――今日は試す。
昨日の観察で見つけた「文法仮説」を、自分の声で。
深呼吸して耳を澄ませると、かすかな鳴き声が風に乗って届いた。
「グル……ギャッ……ギャグル」
音の方向へ足を忍ばせる。
やがて木々の隙間に、小隊らしき七体のゴブリンが現れた。
背丈は低いが、皆が粗末な槍や棍棒を持ち、まるで訓練された兵のように動いている。
喉が渇く。鼓動が耳を打つ。
「……今だ」
僕は木陰から半歩踏み出し、腹の底から声を絞り出した。
「ギャッ・ギャグル!」
響いた声に、森の時間が止まった。
ゴブリンたちが一斉に振り返る。赤い瞳が驚愕に見開かれ、ざわめきが起こる。
「ギャッ……?」
「ギャグル……?」
抑揚は明らかに疑問だ。彼らの声がざわざわと交わされる。
僕の全身が粟立った。
――通じた。
少なくとも、彼らは「人間が何かを言った」と理解している。
リーダー格と思しき大柄な個体が、一歩前に出た。
槍を地面に突き立て、低く吠える。
「ギャッ・ギャッ!」
威嚇だ。仲間が一斉に武器を構える。
だが、襲いかかってはこない。
そのかわり、互いに「グル?」「ギャグル?」と声を交わし合っている。
僕は必死に聞き取ろうと耳を澄ませる。
「……“危険だ、集まれ”と僕は言った。彼らは理解して、混乱している」
恐怖で震えながらも、心は熱に浮かされていた。
この瞬間、僕とゴブリンはただの敵ではなく、“言葉を交わした存在”になったのだ。
だが次の瞬間、リーダーが再び吠えた。
「ギャッ!」
その一声で緊張が解け、小隊は整然と後退していく。
僕に一瞥をくれただけで、森の奥に姿を消した。
残されたのは、ざわめく心臓と、汗でぐっしょり濡れた服だけ。
僕はその場に膝をつき、荒く息を吐いた。
「……会話の可能性が、ある」
手にしたノートを震える手で開き、必死に書き込む。
〈実験3:人間の発声による“文”〉
・「ギャッ・ギャグル」=危険・集合
・ゴブリンは理解し、混乱。攻撃は控えられた。
・反応から推測するに、“意味”として通じている。
鉛筆の先が走るたび、胸の奥で熱が燃え上がる。
これまでの観察は仮説にすぎなかった。だが今、実際に声を発し、彼らが反応した。
それは仮説が真実に変わる瞬間だった。
「僕は……彼らと、話せるかもしれない」
声に出した途端、鳥肌が立つ。
ゴブリンと会話する――そんな馬鹿げた夢想が、現実の手触りを帯び始めていた。
夕暮れの森を抜けて村に戻ると、広場はいつも通りのざわめきに包まれていた。
人々は薪を割り、家畜を追い、子どもが笑っている。
その日常の裏で、僕だけが震えるような秘密を抱えていた。
「会話ができるなら……争いを避けられる。血を流さずに済む」
だが同時に、心のどこかで囁く声があった。
――もし、彼らが会話を利用して、人間を欺いたら?
――もし、この知識が村人に知られたら?
胸に重たい影が落ちる。
それでも、探究心の炎は消せなかった。
宿に戻り、机にノートを広げる。
「ギャッ・ギャグル」――その一言が、歴史を変えるかもしれない。
僕は深く息を吸い、震える手を落ち着けて文字を刻んだ。
〈次の課題:盗み聞きによる“複数文”の解読〉
窓の外では、二つの月が寄り添うように夜空に輝いていた。
その光は、僕の決意を静かに後押ししているように見えた。