第1話「謎の鳴き声」
夏の夕暮れ、山間の森はひぐらしの声で満ちていた。
僕――動物の鳴き声を研究している大学院生、**天野遼**は、小型の録音機を片手に、シジュウカラの群れを追いかけていた。
シジュウカラは二百種類以上の鳴き声を使い分ける。危険を知らせる声、仲間を呼ぶ声、食べ物を見つけたときの声……その一つ一つが単語のように機能し、組み合わさることで「文法」を形成している。
僕は、その謎を解き明かすことに人生を捧げてきた。
「もう少しでサンプルが揃う……」
森の奥で録音機を構えたその瞬間、突如として空が裂けるような閃光が走った。
雷鳴と同時に視界が白に染まり、全身が痺れるような衝撃に包まれる。
次に目を開けたとき、僕は見知らぬ森に横たわっていた。
――いや、森そのものは見慣れている。けれど、湿度も植生も、どこか現実離れしている。
何より、見上げた夜空に浮かぶ月が二つあった。
「……まさか、異世界転移……?」
冗談のような言葉が口から漏れる。研究者の僕は空想よりデータを信じる人間だが、この光景を前にすれば認めざるを得なかった。
食料も地図もなく、遭難者同然の僕は、震える手で胸ポケットのノートを確かめる。幸い、野外調査用のペンとメモ帳だけは無事だった。
夜が更けるにつれ、森は不気味な声で満ちていった。
その中に、僕の耳を強く惹きつける音があった。
「ギャッ! ギャギャッ! ギャグルッ!」
人間の耳にはただの甲高い叫びだろう。だが僕には――違和感があった。
これは、怒号や吠え声のように見えて、実際には「音節の反復」になっている。
「ギャッ」という短い音、「グル」という腹の底からの声。それらが一定の順序と強弱で繰り返されているのだ。
――まるで、単語のように。
背筋に冷たい電流が走った。
これがもし“言葉”なら、僕がずっと研究してきたものと地続きになる。
シジュウカラが持つ文法構造と同じものが、ここにも存在するのではないか?
茂みの影から、小さな影がちらついた。背丈は人間の子どもほど、だが耳が尖り、歯は鋭く光っている。複数体が動き回り、短い声で互いに合図を送り合っていた。
――ゴブリン。物語でしか知らなかった存在が、目の前で生きている。
「いや、落ち着け。研究者らしく観察だ……!」
僕は震える手でノートを開いた。聞こえた音をそのままカタカナで書き残す。
〈夜 森の中〉
〈影の小型 humanoid 生物。複数体。〉
〈発声1:「ギャッ」=警戒?〉
〈発声2:「ギャグル」=集結の合図?〉
言葉にするだけで心臓の鼓動が速くなる。
ゴブリンが互いに発する声は、ランダムではない。
鳴き声が行動と結びついている。シジュウカラの鳴き声研究と同じだ。
「これは……怒号ではない。意味のある“音節”の繰り返しだ」
呟いた瞬間、まるで長年追い求めてきたパズルの最後のピースがはまったような感覚に襲われる。
異世界に飛ばされたことへの恐怖も、今は薄れていた。
代わりに胸を支配しているのは、圧倒的な興奮だった。
「言葉があるなら……僕は、必ず解読できる」
その夜、僕は眠ることも忘れてノートを埋め続けた。
ゴブリンの謎の鳴き声――それが、この異世界での最初の研究テーマになると確信しながら。