1話
コンコン、と滅多に鳴らないドアを叩く音が聞こえてきた。この家に呼び鈴はなく、そうそう人もやってこないので必要性を感じず取り付けようと思ったこともない。そもそも人がやってきても、会うつもりもないのだ。無視を決め込んでソファに深く腰を沈めたままでいると、来訪者は再度、コンコンと扉を叩いてきた。さらに静かに息を潜めていても、玄関先の来訪者が立ち去るような気配は無い。
時計を見れば、夜の20時過ぎを指している。溜息と共に根負けしてソファから立ち上がると、静かな部屋にギシッと音が響いて、玄関先の来訪者まで音が届いたのか緊張したような気配に変わった。
立ち上がった自分の姿が、部屋の中の大きなガラス張りの戸棚に映る。腰まで伸び放題のぼさぼさの髪は、くしゃくしゃに伸びすぎてどこから前髪なのかすら分からない。掛けている眼鏡が唯一髪の毛と顔の仕切りになっていた。暫く外に出ていないし、出る気もなかったからボロ雑巾のような着古した服で、まるで幽霊のようだ。完全に人前に出る風貌ではない。
「どちら様でしょうか」
「アッ…あの!すみません、この辺りにクローディという方のお宅があると聞いて伺ったのですが」
「知りません、お引き取りを」
「いえあの、すみません、クローディ様ではないですか?」
「知りません、お引き取りを」
「あのっ!ぼくその、クローディ様のーーー」
「五月蝿い。知らないと何度言ったら分かりますか」
静かに強い語気で答えると、来訪者は言葉を詰まらせたようで何も言わなくなった。私が踵を返して玄関から部屋へ戻ろうとすると、扉の外からガタンと強い物音が聞こえた。振り返ったが玄関に何の変化もない。外か。外で来訪者に何かあったのだろうか。
しかし私が何かしてやる義理もない。そのうちいなくなってくれるだろう。そう思ったが、もし虫の息だったならば?と、ふと心配になる。来訪者の心配ではない。もし玄関先で次第にでもなられたものなら余計な噂事になってしまうのではないか、その処理の手間もある。
私は深く溜息を吐いて、玄関先が見える窓辺に移動した。外には男が一人、思った通りというか、肩で息をしながら人の玄関先でへたりこんでいる。更に周囲を見てもその男以外は誰もいないようだ。
また玄関へ戻るのが億劫で、手櫛で軽く髪をかきあげてから窓を少し開けて、声を掛けることにした。
「きみ、死ぬなら人の家の前じゃないところにしてもらいたい」
男は私の声にはっと顔を上げ、きょろきょろと顔を動かしてようやく私の姿を確認した。男は体調不良でだろうか、眉間に皺が寄り苦い表情になっている。いや、もしかしたら私の言葉や風貌を見て訝しんでいるのもあるだろう。
「クローディ様ですか?」
どうやら男は、私の悪態よりも自分の使命が最優先のようだ。
よろよろと立ち上がりこちらにお辞儀をして、私の名を確かめようと顔を上げる。私はその問いに首を横に軽く振って、手の届く距離の戸棚から小さい容器を掴むと、男に投げた。へたりこんでいる割に反射神経はいいのか、男はそれを難なくキャッチして不思議そうに見つめる。
「何度も言うけど、残念だけどクローディではないよ。疲労が溜まってるなら今渡したものは栄養剤だから、それを飲んでとっととそこからいなくなってくれ」
「しかし!その…麓の村で話を聞いたら、ここが」
「今はクローディじゃない、と言えばいい?私が貰い受けたんだこの家は。だからクローディはもういないし、クローディじゃない」
「じゃあ、貴女がニイナですよね?」
今度は私が眉間に皺を寄せる番だった。
もう何十年と聞いてない自分の名前を、なぜこの男が知っているんだろうか。この家の前の持ち主の名を何度も呼ぶ辺り、前の持ち主に縁のある人物なのだろうが、自分を知っているわけが無いのだ。貰い受けたといっても勝手に無人となった廃屋に住み着いただけなのだから。
「何故ーーー」
何故私の名前を知っているのか、と問いかけたが最後まで男の耳には届かなかった。ふっと緊張の糸が急に切れたように男はその場に倒れ込み、ゴンと鈍い音と共に思い切り玄関先の支柱に頭を強打した。
窓から飛び出し、男の元へ行くと意識は失っているが呼吸はある。疲労で意識を手放してそのまま頭をうちつけ更に深い眠りについたようだ。
玄関で野垂れ死ぬのは勘弁願いたいが、気を失われるのも大概だ。
暫くどうしたものかと男を見下ろしてから、どうしようもないことに軽く絶望を覚える。結局ここで放置したとて先程この男は、麓から聞いてやってきたと言っていた。その手前、他の村人がここに立ち寄る可能性もある。そうなるとまた厄介だ。介抱するのは面倒だが、ここにひっそりと住めなくなる方がより面倒になる。これ以上変な噂が立つ前に、と仕方なしに倒れた男の足を掴んで家の中にひきずっていった。