プロローグ
「ニイナ、絶対に日が暮れるまではここから出てはいけないよ」
それが母の口癖だった。
だから私は太陽を窓越しにしか見た事がない。青空も四角の窓の向こうでしか見た事はないけど、ある時燦々に輝く太陽を間近で見たくて窓に張り付いていたら、いつしか窓も重く暗いカーテンで仕切られて、夜になるまで開けることを許されなかった。
私は夜、辺りが暗くなってからじゃないと外に出ることは許されなかった。
それがどうしてなのか一度、聞いた事がある。けれど母は困ったような顔をして私から目を逸らし、溜息を吐くだけだった。
「お母さん、私はなんで明るいうちに外で遊んじゃいけないの?」
「…我儘は言わない約束でしょう?」
「ねえお願い、お母さん、私お部屋から出たい」
「ニイナ、」
母はいつも、怒るでもなくただ淡々と私の名を呼んで話を遮って無理矢理終わらせてしまうのだ。
私もそんな母の冷たい声が、何故だか妙に恐ろしくて。それから何も言えずただカーテンから薄く漏れる光に焦がれながらも、暗くジメッとした部屋の中で蹲る他ないのだった。
部屋には沢山の本はあった。読み書きができない頃は母が読み聞かせしてくれたが、これもいつしかなくなり、いつも構ってくれない母の代わりに本達が私の世話をしているようなものだった。
童話から歴史、勉学用の様々な教科書、世界地図、小説、本当に本だけは色々な種類が用意されていた。
「なんで、お外に出ちゃいけないの…?」
ぱたん、と冒険小説を読み終えた私は、その本の中の主人公のように外を自由に駆け巡りたくて仕方なくなった。
どうして自分は、一日中この暗い部屋の中で終えなければならないのだろう。母はどうして、この部屋からだしてくれないんだろうか。私をまるで、隠しているかのようにーーー
そこでふと、前に読んだ物語を思い出した。どの本だったか、本棚に並んだ背表紙を順に目で追い、ふと見つけた。
「これだ…」
その本は、狼に食べられるために連れ去られた産まれたばかりの仔羊が狼の気分で生かされ、狼に育てられて自分を狼だと思って成長していく物語だった。
まるで自分のようじゃないか?
だって、日が暮れてからしか外に出して貰えないなんて、まるで人の目を避けているようじゃないか。外に出してもらえたとしても、私はこの家の敷地から外にでたことはない。裏の森で少し走り回るのを許されるくらいだ。この家は辺鄙な街のさらに郊外にあるから他の人に挨拶したこともないし、中心街にだって行ったことはない。
洋服も、外に出る時はちゃんと着せてくれるけれど、家にいる間は必要ないからと肌着程度の薄いものしか着させてくれない。今着ているこれも、まるで布をただくり抜いただけのようなワンピース1枚きりだ。
母は本当の母なのだろうか。
つまり、誘拐ーーー
そこまで考えてしまい、自分の思考にぞわりと鳥肌が立ってしまった。
まさか、そんなまさか有り得ない。自分の想像力の豊かさに驚きだ。でもそれなら何で日中はカーテンを閉め切った部屋に押し込められているんだろう。本ばかりに囲まれて、本の中にあるように私は学校に行かなくてもいいのだろうか?そもそも、私は今何歳なんだろう…誕生日のお祝いをされても何歳と言われたことがないような気がする。母が私の年齢を知らないから…?
「お母さん!お母さん!!!」
止まらない思考に怖くなり、私は慌てて部屋の扉を叩いて母を呼んだ。しかし出かけているのだろうか、母からの返事は無い。試しに扉のノブを回すが、やはり鍵がかかっているのかノブが回らない。
暗がりの中、私は落ち着くことが出来ずにうろうろと部屋の中を行ったり来たりした。
今まで一度だって言いつけを破ったことはない。日中の外出については我儘を通そうと頑張ったことはあっても、実行に移したことはないのだ。しかし今は母は不在とみた。
「今なら、私が考えてることが…」
外に出れば、私が考えていることが本当か思い過ごしか、きっと確認できる。
私は一瞬だけ躊躇ったが、意を決してカーテンを開けた。窓ガラスは少し頑丈だったが、部屋の中のものを手当たり次第に投げたらヒビが入った。そこからは早かった。怪我をしないようにカーテンを閉め直し、窓のヒビ目掛けて突進して脱出を図る。窓に当たった衝撃の後に、ブチブチとカーテンが切れて身体中にまとわりついてきたと思ったら更に全身を強打した。
いたた、と身体をよろめかせながら起き上がると、痛いくらいに眩しい太陽と青空が視界いっぱいに拡がった。キラキラ、キラキラ。部屋で窓から覗いた時よりも光がたくさん、輝いている。草木も花も遠くを飛ぶ鳥さえも。全て一度は部屋の中から見た事があるものたちだけど、太陽の真下で見る光景はいつもと全く違って見えた。
無意識に、わあ、と感嘆の声が漏れる。そして同時に、どうして母はこの光景を今まで私に見せてくれなかったのかと不信感が募ったのが自分でも分かった。
でも私は今、この太陽の下で自由だ。母の言いつけはもう破ってしまったんだからもうこうなったらどこにでもいける、あの先程読み終えた冒険小説の主人公のように。もし全部私の思い過ごしだったならあとでちゃんと怒られて、ちゃんと謝ればいい。そう思って私は家から駆け出し、中心街の方へ向かった。
でも、ここからが間違いだったのだ。
私は数時間後、この行動を悔いることになることをまだ知らない。とても幼い私の好奇心と想像力では、母の言いつけを破ることがどう繋がるかまでは考えに至らなかった。どうして母が私を閉じ込めていたのかをもう少し考えられたら、私の未来はもう少し変わっていたのだろうか。