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「……ん?」
襲い来るであろう強い痛みを覚悟していた私は、いつまでも訪れないそれにゆっくりと目を開ける。
そして視界に飛び込んで来た光景に、一瞬何が起きたのかわからずに固まってしまった。
「うっ……ぐぅ……!!」
目の前には、呻き声を出しながら蹲る義姉。
そして、その右足の太腿には、私に突き立てられるとばかり思っていたナイフが、まるでそこから生えているかのように突き立っていた。
「お、お義姉!?何をなさっているのですか!?
すぐに手当てを……!あぁ、でもここには何もないから、急いで人を呼んで来ます!!」
突然の事態に混乱しながらも、慌てて人を呼びに行こうとする。
今の時間だと、屋敷に残っている使用人は少ないとは思うけど、何せ義姉の非常事態だ。
私とは違い、父と継母に愛されている義姉のためなら力を貸してくれるはず。
「待って……!!」
焦りと飢えによる衰えで上手く動かない体を何とか動かし、部屋から飛び出そうとしていた私を止めたのは、まさかの義姉その人だった。
「お義姉?」
一刻を争うのに!
そう思いつつ義姉を振り返ると、どうしても太腿に突き立てられたナイフに目が行ってしまう。
そこからはどんどん血が流れていて、義姉の淡いブルーのナイトドレスを見る間に赤く染めあげていく。
「わたくしは大丈夫だから……」
そう言いながらナイトドレスをたくし上げると、何処から取り出したのか。
いつの間にか持っていたロープのようなもので右足の付け根をギュッと縛っている。
恐らく止血しようとしているのだと思うけど、あまり効果があるようには見えない。
「ですが、やはり人を呼ばないと……。
このままではお義姉様が……」
「良いから、こっちへ来て」
私は混乱やらなんやらで今すぐにでも部屋から飛び出したいのだが、義姉が血の付いた手で私の手をギュッと掴んでいるのでそれも出来ない。
オロオロしている私を、義姉はどこにそんな力があったのかと思うような、強い力で無理矢理座らせる。
「良い?わたくしが今から言うことをよく聞いて」
そう言う義姉の顔には、痛みのせいだろう。
汗がびっしりと浮かんでいる。
「これを持って、今すぐ屋敷を出なさい」
そうしてグイッと押し付けられたのは、一抱え程の大きさの革袋。
ずっしりと重みのあるそれの口を少しだけ開いて中を見てみると、中に入っていたのは大量の金貨や銀貨。
驚いて顔を上げて義姉を見ると、義姉は痛みに顔を歪めながらも微かに微笑んだ。
「こんな……受け取れません」
革袋を返そうとするも、義姉に無理矢理グイッと押し付けられる。
「このお金を持って、大公領へ行くの。
場所はわかるわね?」
「大公領?」
義姉の言葉に、頭にこの国の地図を思い浮かべる。
我が家は子爵家だ。
だから、私も母が生きていた頃は一応は令嬢としての教育は受けていた。
まぁ、今の姿を見られたら誰も信じないとは思うけど。
それでも、かつて受けた授業のおかげで基本的な地理は把握している。
大公領は、私の住んでいる子爵家の領地からはずっと北にある。
恐らくは、馬車を乗り継いでも一週間はかかる距離だ。
「確かに場所はわかりますが……。とても私一人で辿り着けるとは……」
何せ、生まれてから今まで。
子爵領はおろか、屋敷の外へ出た事がない。
その自分が、いきなりそんなに遠くまで一人旅など出来るだろうか?
「それなら大丈夫よ」
義姉はそう言って微笑む。
太腿からは今も血が流れ続けていて、痛みは尋常じゃないはずだ。
それに、これだけ出血していたら意識だって朦朧として来ていてもおかしくない。
それなのに、私を安心させようと無理をして微笑んでくれている。
それがわかるからこそ、申し訳ない気持ちになると同時に、やはりこの義姉は優しい人だったんだと少し安心してしまう。
「裏門でアンナが待ってるから。彼女が一緒に行ってくれるわ」
アンナというのは、義姉の専属侍女の名前だ。
それほど関わることはなかったけど、顔を合わせると私にも普通に接してくれる貴重な人だ。
実は侍女というだけでなく、義姉の護衛も兼ねている人らしいから、彼女が一緒にきてくれるならかなり安心は出来る。
「アンナにはこれからは貴女に仕えるように言ってあるから」
「でも、そうなるとお義姉様が……」
困るのではないか。
そう続けようとした私は、その言葉を最後まで紡ぐことが出来なかった。
義姉が突然私を抱き締めて来たから。
「良い?ユーリ。よく聞いて?」
驚いて固まってしまった私に構うことなく、義姉は言葉を続ける。
傷が痛むのだろう。息が荒くなっているけど、驚いている私はそのことをすっかり忘れてコクコクと頷くことしか出来ない。
「貴女は大公閣下のところへ行くの。そこへ行けば、貴女は幸せになれるわ。
そして……」
一度言葉を切った義姉は、息をひとつ大きく吐いて言葉を続ける。
「わたくし……あたしや、この家のことは忘れてそこで生きて行きなさい。大丈夫。大公領には貴女を傷付ける人なんていないから。
もう、これ以上苦しまなくていいから……」
義姉の声に微かに嗚咽が混ざる。
「ごめん……ごめんね、ユーリ。こんなお姉ちゃんで本当にごめんね……」
そのまま暫く、私をギュッと抱き締めていた義姉はやがて手を解くと部屋の入口を指差す。
「さぁ、もう行きなさい」
まだ突然の抱擁と義姉の言葉にぼーっとしてしまっていた私は、そこで今更のように思い出す。
「ですが、やっぱりこんな怪我をしたお義姉様を置いて行くなんて……」
「ユーリが行かなければ、あたしは治療を受けないわ。
だから……ね?」
そう言って微笑まれてしまっては、私はもう何も言うことは出来なかった……。