お互いの鼓動
その日、騎士団の朝はざわめきと共に始まった。
「最強の剣士・カイン様が直々に視察に来るってよ!」
「マジかよ、心臓が持たねぇ……」
「顔見ただけで斬られそうなオーラだって聞いたぞ……!」
新兵たちの間に広がる噂と緊張の空気。
その中に紛れ、背筋を伸ばして立つ一人の小柄な少年──否、“少年として振る舞う”エル。
男装に身を包み、名を隠して騎士団に身を置いていた。
そして、空気を裂くように現れたその人。
長身、漆黒の外套、鋭い眼差し。
歩くたび、空気の温度が変わるような威圧感を纏って。
「……カイン様だ……」
隣で呟いたフィオの声すら遠くに聞こえる。
エルの視線は、ただ彼に釘付けだった。
(どうして……今……!?)
鼓動が跳ね上がる。
額に滲む汗は、決して気温のせいではなかった。
そして──
視察の途中。カインの鋭い眼差しが、ふとこちらを向いた。
ぴたりと止まる視線。
(……っ!見られてる……!?)
エルは慌てて視線を逸らし、俯く。
だが。
カインの心の奥で、微かに波紋が広がっていた。
(この気配……どこかで──)
その夜。訓練場。
皆が寝静まった後、静かに剣を振るう影があった。
昼間の視線が脳裏に焼き付き、気が抜けなかったエルは、誰にも気づかれぬよう訓練を続けていた。
──その背に、気配が降る。
「……夜に訓練とは感心だな」
「っ!」
振り返ったその先に立っていたのは、カイン。
月明かりに照らされたその姿は、記憶よりも少し疲れて見えた。
けれど、凛としていた。やっぱり──心を奪われるほどに。
「お前、どこで剣を習った?」
「……っ、そ、独学ですっ!」
しどろもどろの声に、思わず自分で自分を殴りたくなる。
(落ち着け……今は“騎士見習い”なんだ……!)
「そうか。……いや、悪いな。気になっただけだ」
静かに微笑んで、カインは背を向けた。
けれどその背に、僅かな躊躇があった。
(──剣の軌道、あれは“彼女”と同じだ)
ずっと、忘れることができなかった影。
想いを告げる前に、突然姿を消したあの人。
似ている。ただの勘違いかもしれない。
けれど、心は嘘をつけなかった。
「……まさか、な」
その呟きは夜風に消えていった。
エルは、その場に膝をつき、胸を押さえた。
(お願い……気づかないで……)