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ラメイア王国には麗しい貴族の若者が書を読む姿を愛でる書戯という役職があった。ある田舎から書戯に異例の抜擢で任じられたセイは映像記憶の能力を持っていた。ある日王国は隣国グレイドンの侵攻を受け…



王都の鐘が軽やかに打ち鳴らされ正午を告げた。王宮前の広場にて幾重にも列を成し見物していた群衆達は鐘の音を契機にぱらぱらと解散し始めた。昼休憩に入るのだろう。知人同士や仕事仲間と連れ立ち、愉しげに声高く談笑しながらその場を離れて行く。先程まで言葉を発する事も出来ず静けさを保つ努力を続けていた彼等は一気に解き放たれ、集団で鳴き交わす椋鳥の群れの様に騒がしくなった。

マレノは使いの途中で広場に寄ったため、連れの相手はなく独りだった。口を噤む彼女の周りを取り巻く騒がしい話し声がマレノの耳を素通りしていく。

広場の前方には一段高い位置に主の居ない二部屋が此方に向けて開かれていた。マレノの視線は人影の残ったもう一つの小部屋にそっと向けられている。人が一人入れば丁度納まるくらいの小部屋で、無駄な装飾の無いこじんまりとした空間にはただ一つの家具である書見台と対になった椅子のみ配置されている。残された独りは数冊の書を書見台の上でとんとんと几帳面に揃えて退出の準備をしていた。

「セイ…」

マレノが小さく呟くと揃えた本を小脇に抱えた人物が広場の方を見た。名を読んだが小声だったのでセイ当人には聞こえていないはずだが、マレノはもしや呼び止めてしまったかと慌てた。

だがやはり聞こえていなかった様だ。ぐるりと広場を見渡すと静かに一礼をして、セイは後方の予備室へと去って行く。表情は変わらず落ち着き払っている様子に見えた。

マレノは彼に気付かれなかったのに安堵した様な寂しい様な複雑な気持ちになった。セイに微笑んで手を振り返して欲しい訳ではない。気安く話し掛けれる相手では無いのだから。

ただ、マレノにとって気弱な幼馴染みでしか無かったセイが衆目を集め民衆に尊敬される立場になってしまったのは少し寂しい。彼は手の届かない存在になったのだなとしみじみ思い至る。

隣に居た職人風の男が書戯見物の常連らしく、声高に噂し始めた。

「今日は書戯役様方はきちんとお勤めされてた様だねぇ。一昨日はダーラス様が途中で居眠りなさってたのを見物客に見つかって上役に告げ口され大目玉食らったらしいじゃないか。」

「へぇ。珍しい事知ってるね。城の内輪の話なんて。」

男は自慢気に鼻を膨らませて返事をした。

「まあな。城の厨房に知り合いが居るからさ。どうやら、新しく入った書戯様は少食でろくに食事を摂らずに書ばかり読んどるらしいと聞いた事があるよ。」

会話がどうでも良い話に逸れかけて、周りの興味がやや薄れたがマレノの心臓は跳ね上がった。話題がセイの事に触れたので全身を耳にして聞き逃すまいとする。

それからは大した書戯役の話も無く厨房の噂話などに話題が移って行った。周りの人々もマレノも含めて皆そろそろお開きにしようと帰り掛けた所で低い声がした。

「すまないが…。新しい書戯殿はどんな人物か他に何か知ってるか?旦那?」

マレノの近くで立っていた背の高い男が言った。話題がまたセイの事に戻りそうで、マレノも気になってその場に立ち止まる。調子良く話していた男がもごもごと返事をした。

「さぁなぁ…。田舎出身で司書様達がわざわざ辺境まで迎えに行ったらしいけど。何でも一目見た書の事は忘れないらしく、大層記憶力が良いそうだよ。」

マレノは背の高い男がじっと聞き入っているのを感じ取った。セイの事を気に掛けている様子に見える。男は少々薄汚れた服装で少し変わった着こなしをしているので地元の人間では無いのかも知れない。

そのまま礼を言って、背の高い男は去って行った。マレノもその男の何かが心に引っかかったが昼食を取らなくてはと思い、帰路に付いた。


昼休憩になると書戯礼殿は一旦閉室となる。今日の午前の書戯役はレオン、ダーラス、セイの三人だった。セイは二人の先輩書戯が先に部屋を立ち去るのに少し遅れてから戻った。彼等の数歩後ろから独りきり、気配を消して図書室に向かう。先程まで読んでいた書を一旦返却しなくてはならない。

図書室へ足を踏み入れると司書長ガラルが待っていた。

「ガラル、今日のはなかなか良い書だった。午前中退屈せずに済んだよ。次回も続きの巻を頼む。」

張りのある大音声で言い放ち、鷹揚にレオンが書を返した。ガラルはうんうんと微笑みながら受け取り、今返された書の概要を語る。

「此方は前々代のラメイア王朝期の戯曲ですな。現在も演じられている名作です。」

では次回も続きの巻を差し上げましょう、と請け負った。

隣りに立つダーラスが続いてガラルに話し掛ける。

「私には南部地区の生態系について書かれた此方の書が興味深いものだった。実際には足を踏み入れる事が叶わぬ地の希少な生物について詳細に記されていた。素晴らしい研究書だ。」

恭しく受け取りながらガラルは喜びをその顔に載せて語る。

「それは良う御座いました。ダーラス様の新たな学びになれば私めの喜びです。」

ガラルは書戯礼殿で読まれる書を渡す役目の司書長だ。この王都では書戯役を数十名抱えている。彼等は自ら書を選ぶ事が慣例となっているため礼殿に立つ前に日程に合わせて予め書を選び準備棚へ置いておく。ガラルはそれらの書を民衆の面前で読まれるのに相応しいか、王家の権威を損なわないか、教養ある優れた良書であるかを見極める。時には厳しく否を突きつける事もある。

そういった場合に代替の書を勧めてくれるのもガラルの役目だ。書戯役が納得するまで何冊でも代わりの書を勧めてくれる有り難い存在だ。レオンやダーラスは毎回世話になっている。

「セイ、今日の書は如何でしたかな?」

今度は後ろに立つセイに声を掛けた。レオンとダーラスは歳下の若い書戯役であるセイを振り返った。その眼差しは揃って冷ややかだ。

だがセイは先程読み終えた書をまとめてガラルへ返却すると、尊敬する司書長に尋ねた。

「此方は改補版が既に出廻っていると聞いています。王宮の書庫に在りますか?」

「次回の書戯で読まれますか?セイ」

「いえ。個人的に自室へ持ち帰って読もうと思いますが…」

「ならば問題有りませんな。書庫から取り置いておきましょう。」

ガラルの了解を取り付けた。

改補版とはいえ同じ名の書を書戯礼殿に続けて持ち込むのは憚られる。王宮前の広場に集まった観衆達は書戯役が読んでいる書に関心がある。目の良い者は遠目からでも書名を読み解こうとする。時には礼殿に座る書戯の持つ書名や内容を巡って賭けの対象になるほどだ。

セイが部屋から出ようとしたところでレオンに呼び止められた。

「セイ。お前は午前の書戯で5冊持ち込んだだろう?」

セイはレオンの方に向き直り、小さく頷いた。

「同じ時間で私はこの1冊を隅々まで熟読した。セイ、君は書を軽々しく流し読みしている様に思えてならない。1冊に掛ける時間が短すぎる。それでは深い学びは得られないだろう。」

どうだ?と言いたげに顎をしゃくる。

セイは困ったように目を伏せていた。

「もう少し、丁寧に書と向き合っては如何かな?」

確かにセイが書戯礼殿で篭もっている間に読む速さは他の書戯役に比べて速い。レオンが一枚捲るのと同じ時間でセイは五枚捲る。書の内容はどちらも同程度の文字列と難易度だ。

「セイ、君は書戯の時にまともに中身を読んで無いだろう?ただ紙をぱらぱら捲っているだけでは無いのか?」

ダーラスも皮肉げに口を挟んだ。新人書戯役のセイに対する日頃の不審をこの機会に追及しようと此処ぞとばかりに責め立てる。

そこへ部屋の外から声が掛かった。

「他者に無理強いする事はありません。それぞれの配分で読み進めば良いのですよ。」

穏やかに微笑む司書長補佐のフリオールはセイを擁護する発言をした。

「然り。学びに速い遅いは問題では無い。」

司書長ガラルも同意した。

司書長とその補佐の二人から否定されてレオンとダーラスはむっとした。すかさず捨て台詞を投げる。

「セイ。年度替わりの官吏登用試験で君が学んでいた事が試される。晴れて試験に合格出来れば良いがな。」

「そうでなければ君を書戯役に推してくれた司書長に顔向け出来まい。長々と書戯に費やした時間が全て無駄だったと言われてしまうだろうよ。」

セイは静かに口を引き結んで先輩の言葉を聞いていた。その顔からは血の気が引いている。

先輩二人は言うだけ言ってさっさと部屋を後にした。司書長ガラルは溜め息を付いて言った。

「やれやれ。書戯からは礼節や思いやりは学べないものと考えなければな。書ばかりに傾倒してきた彼等には人の持つべき情が欠けている様じゃ。」

「仕方ない事です。レオンやダーラスの様に有力貴族の子息として生まれた者にとって、書戯とは単なる名誉職分に過ぎないのでしょう。」フリオールも苦い顔をして言った。


書戯役が国家の正式な職として認められたのは、ほんの数年前だ。広場に面した書戯礼殿にて書を読み、その様子を民衆に披露する。

現国王ジェイナスが国民に知の源泉としての書を尊び親しむ様にと書戯を生み出した。その初代書戯役のガラルが広場に立っていた頃は数える程しかいなかった書戯役だが、次々と後継を任じて今や数十人に膨れ上がっている。特に貴族の次男として生まれた者が取り敢えず就く行儀見習いとして人気だ。家督を継がない立場の彼等からすれば軍役を逃れる為にも書戯は都合が良い。言わば責任も重圧も無い一時的な名誉職なのだった。

そして書戯役を数年勤めた者は官吏登用試験を受けるのも慣例になっている。初期の頃は書を眺めてぼんやり時間を費やしていたと思われがちだったが、年々官吏登用試験の合格者が書戯役出身者から増え続けると世間の見る目が変わった。難関試験を突破してゆく書戯役に対する尊敬の念が次第に庶民に湧き上がってきたため、いつの間にか書戯の社会的地位は上がり現在は羨望の目で見られる様になっている。

セイは現役の書戯役の中では唯一の庶民階級出身者だ。その為レオンやダーラスの様に貴族出身の書戯役からは疎まれ軽んじられている。書戯に抜擢された事が既に名誉ではあるが、セイは他の書戯役らに比べても群を抜いて優秀だった。官吏登用試験を庶民が受ける為には今までは長い下積み期間の後、貴族以外の庶民階級が受ける予備試験に通過しなくてはならなかった。セイは下積み無しの飛び級で官吏登用試験を受ける初めての人物だ。貴族の子息らにしてみれば庶民階級の出世に新たな抜け道を生み出すのは何とか防ぎたいのだろう。特に直属の先輩としてセイと顔を合わす機会の多いレオンとダーラスは容赦なく圧力をかけてくる。セイにとって最近の悩みの種だった。

「セイ。次の書戯で使う書の中にラメイア王朝史を入れて下さい。」

フリオールがセイに言った。

「…ラメイア王朝史?」

「はい。14巻まで編纂済みで我が国唯一の歴史書です。毎回1冊ずつでも書戯の時間に当てれば貴方なら直ぐに読みこなせるでしょう。」

「書戯役で…今そちらの書を読んでいる方はいますか?」

ガラルが首を降った。

「現役の書戯役達にはあまり好まれないので同時に読んでいる者はいないだろう。読み始めてみると良い。君なら直ぐに14巻読み終わるはずだ。」

セイは司書長と司書長補佐に向き合い、頷いた。


マレノは使いに出た先で買い求めた品々を買い物袋からテーブルに載せて並べた。繕い物に役立つ糸の束やレース、リボン、飾りボタン等が華やかに彩る。

「広場に寄って来たの?幼馴染みは元気だった?」

奥の作業部屋から店主のサリュが声を掛けた。

「はい。遅くなってしまってすみません。」

「いいよ、いいよ。今は急ぎの仕事も無いし。書戯に出てきた時しか幼馴染みの子に会えないんでしょう?今日は居たの?」

マレノはこくんと頷いた。

「私は…彼が王国のために一生懸命勉強するのを応援したいです。と言っても遠くから見てるだけしか出来ないんですけどね。」

「そうだね。会えたと言っても話し掛ける事も出来ないし。でも…」

サリュは少し苦笑いで言いにくそうに告げた。

「書戯って、今の国王様が強引に作った制度でしょ?国民が書に親しんでいけば知の水準が底上げされるって言って、見た目の良い若者を箱に押し込めて本を読ませて挙句に広場で見世物にして。」

マレノはサリュの遠慮のない言葉に少し傷付いたけれど黙って頷いた。庶民の多くは書戯など不要だと言っているのをマレノも知っている。見世物の書戯達がどれ程真摯に書を読んでいようと、ただの時間の無駄だと思われているのも。

「ごめんなさいね。マレノの幼馴染みくんが悪いって言ってるんじゃ無いんだけど。気を悪くした?」

マレノは慌てて首を振った。

「いいえ、大丈夫です。皆がそう思っているのも分かりますし。」

うん、とサリュは頷いて、手元のレースを縫い付けた小物を手に取った。

「私達庶民がこういう細々した品を地味に作り続けてやっと生活していられてるっていうのに、ぼんやり書を読んでるだけで良いなんて恵まれてるなーと思ってね。」

「そうですね。セイは恵まれてますよね…」

「あ、ごめんごめん。悪気があって言った訳じやないから。」

マレノが曖昧に微笑んだところで会話が途切れた。

広場に集まる人々は好意的に書戯を受け入れてくれる人だ。だが王国の殆どの人達はサリュの意見と大差ないだろう。

幼馴染みのセイがある日突然王宮の使者に連れていかれてしまった。マレノとセイの家は隣に並んでいて幼い頃から家族ぐるみで育った仲だ。

セイは物心ついた頃には虐められっ子だった。

マレノはいつもセイが集団に囲まれて虐められているのを遠くから心を痛めて見ていた。軽いからかいの時もあれば殴られる等の暴力を振るわれる事もあった。

以前、セイが数人に囲まれて殴る蹴るの暴行を受けて地面に倒れてしまった。仰向けになって動かないセイを笑いながら虐めの当事者集団は去って行った。

離れて見ていたマレノはセイがなかなか起き上がらないから頭でも打ったのかと心配になった。そろそろと近寄って声を掛けようとかがみ込むと、セイが小声で何事かぶつぶつと唱えている。

「…統制下の国民にとり国境の守護は必須とされていたが北方蛮族の侵入は類を見ない苛烈さを極め…、…、」

「え?…セイ?何言ってるの?」

「…王は執政官に掛け合い、自身の次男を蛮族討伐の大将に任じ…」

マレノはセイの右腕を軽く揺さぶると、セイがやっと彼女を見た。マレノがいる事に初めて気付いた様に目を見張る。

「セイ、大丈夫?」

「あ、ああ。…終わったのか。」

セイは力無く笑うと、痛ててと呟きながら起き上がった。

二人でのろのろと立ち上がって、どちらからともなく並んで家路へと歩き出した。

マレノはセイをちらりと見た。

「セイ。さっき話してたのって、何?」

「さっき?」

セイはぽかんとした後で思い至り、ああ、と納得した。

「歴史Ⅰのp83だよ。」

「…ずっと暗唱してたの?教科書の文章。」

セイは頷いて、恥ずかしそうに言った。

「…早く痛い事が終わってほしいけど、彼奴らしつこいんだ。それで他の事を考えて何とか紛らわそうとするんだけど、今日習った歴史の教科書が思い浮かんだから…」

マレノはセイの表情を見た。

目の光が失せて虚ろだ。右眼の上に青痣が出来ているのは今殴られたからだろうか。

セイはいつもそうだ。辛い事や嫌な事があると暗唱を始める。そんな風に我慢していないで走って逃げたら良いのにと思うけど、上手くいかないのがセイだ。

「何で僕は…こうなんだろう。」

見れば彼は目から大粒の涙を零していた。

小さい子供ならいざ知らず、マレノよりずっと背が高くなったというのにセイはいつまで経っても昔のままだ。辛い時には自分の記憶の中に引きこもって我慢しやり過ごそうとする。

セイがそんな自分を変えたいと思っているのも分かっている。けれどマレノもどうしたら良いか分からず、いつも一緒に哀しんでいるだけだ。

気が付くとマレノも泣いていた。

セイと二人で帰り道で立ち止まって日が落ちるまで一緒に泣き、涙が治まってからまた並んで歩き出した。


マレノは虐められっ子だったセイが正装に身を包み、凛々しく書を読み耽るのを見るのは好きだ。身なりを整えたセイは書戯の最中は別人の様にきりりとして、他の貴族の子息らに比べても遜色無く見えた。

このままいけばセイは官吏登用試験を受けて王国の役人としての未来が待っているのだろう。自分達の住む田舎町から官吏を輩出するとなると町始まって以来の快挙だ。

自分とセイの道がこの先交わる事は無いのかも知れない。手の届かない所へ行ってしまった幼馴染みとの昔を思い出しながら、マレノは寂しく溜め息をついた。


季節が巡り、書戯役に新しい顔が幾人か加わった。セイは新人では無くなったけれど肩身の狭さは相変わらずだ。新たに入った書戯役はいずれも貴族階級出身者でレオンの弟も含まれているらしい。セイの様に町の学校から推薦されるのは今でも珍しい様だ。

セイが今日の書戯で使う書をとんとんと机で角を揃えて小脇に抱えた。他の書戯役はどうかは分からないが、セイは礼殿に持ち込む書は初めて目を通す物を選んでいる。一度読んだ書は読まない。書中に新しい発見があるとそれだけで集中度が増し書戯の間も退屈する事が無いからだ。

いつもと変わらない書戯礼殿への通路を行きながら、今日もしっかり勤めようと普段通りに気持ちを引き締めた。

三人の書戯役が礼殿に並んで粛々と読みふけり、今日の午前中の書戯がそろそろ終わろうかという時刻になった。

マレノは日課のお使いを何件か廻ってまた広場にやって来ていた。雇い主のサリュはマレノがお使いに出る度に広場で寄り道をしているのを黙認してくれている。けれど時々マレノも良い人を見つけなさい等とお節介を焼きたがる。いつまでも幼馴染みのセイを遠くから見ていないで、現実的な交際相手を探すべきだと言っているのだろう。例えば向かいの通りで指物師として働くヤナクの様な相手が似合いだと考えている様だ。

そろそろ終わりの時間がやって来た。右端の書戯役は既に集中力が切れて目が泳いでいるのが解る。弛緩した空気が広場に漂っていた所に、騎馬の兵士が突然大声を張り上げて駆け込んで来た。

「グレイドンの軍勢が東より攻めてきた!兵士は城の防御を固めよ!急げー!」

そう告げると城の城門を駆け抜けて走り去って行った。そう告げた先頭の騎馬兵に続いて数人の騎馬が城門へと次々駆け込んで行く。

「ここも戦場になるぞ!ぐずぐずせずに城内の砦へ急げ!敵兵が来る前に城へ避難しろ!」

最後尾の騎馬兵がそう言って広場に集まる民衆を促した。何が起こっているのか分からない顔をしていた民衆はやっと理解が追い付き慌てて城内へと雪崩を打つ様に走り出す。辺りはあっという間に大混乱に陥った。

マレノも人の流れに押されながら城門へと必死で走り寄った。しかし門の手前辺りでサリュに危険を知らせないといけないと気付き、仕事場へ引き返そうと振り向いた。

「危ないぞ!急に止まるな!!」

「え?!きゃあ!」

殺気立った群衆が後ろから次々と押し寄せ、マレノはバランスを崩してよろめいた。

その場で転倒してしまい、流れに乗って来た人々がマレノを踏み潰しそうな勢いでどんどんやって来る。

駄目だ。起き上がれない。

体格の良い男に弾き飛ばされもう駄目だと思った時、左腕を誰かにぐいっと捕まれてマレノは起き上がる事が出来た。

「セイ…」

セイはマレノの腕を引き城門の中へ向かって走り始めた。慌ててマレノも着いて行こうとしたものの、先程浮かんだ懸念をセイに伝える。

「城下町の仕事場で私の雇い主のサリュさんが独りで暮らしてるの。急いで危険を知らせに行かないと…」

セイはマレノの表情を一瞬伺ってから苦しげに眉を顰めた。首を小さく横に振ると、そのまま城門の中へ向かって走って行く。

「セイ…お願いよ。助けてあげないと!サリュさんが!」

「…駄目だ。」

苦渋に満ちた表情を浮かべるセイを見て、マレノもそれ以上食い下がろうとは思えなかった。こうしている間にも殺気立った騎士や慌てて駆け込む村人達がどんどんと城を目指して避難しているのだ。

「ひとまず城門へ。広場は戦場になる。」

セイが前を向いて言う言葉にマレノは唇を噛んで項垂れた。


城門の中へ一時避難した村人達や忙しく行き来する騎士団員達で城内は大混乱していた。ガチャガチャと鎧を鳴り響かせながら走り去る騎士達は殺気立った気配を伺わせ、疑う余地もなく戦時中である事を思い知らされた。

「セイ!無事でしたか!」

「フリオール様…」

前方から司書長補佐フリオールが司書長ガラルと共にやって来た。

「こちらです。城の地下へ行きましょう。城門を突破されれば門の中までグレイドンの兵士が来ます。ここは騎士団に任せましょう。」

フリオールの指示に従ってセイはマレノを伴い城の地下階段へとどんどん降りて行く。

地下道へ通されたセイ達とは違って、足留めされた村人達は兵士に不安げに訴えた。

「私達は何処へ行けば良いですか?」

「ひとまず城門の中庭にある第1曲輪で留まる事だ。門が突破され無ければ安全だ。」

「動ける者は武器を手に取れ!農民も商人も関係ない。今こそ城を守るぞ!」

地下階段の入り口で城内へ避難した村人達が兵士に押し返されている。中庭に一旦集められ、戦えそうな年頃の男達は慣れない武器や防具を渡された。

「女子供はもう少し奥の部屋に避難しろ。救護所を設置するから湯を沸かして備えるんだ。」

兵士の指示に従い、それぞれ出来る役割を与えられグレイドンの攻撃に今出来る最低限の備えをしていた。

周りを見ると、一旦城内へ避難した村人達は地下へは立ち入り出来ない。マレノは前方を行く身分が高そうな二人の背中を見ながら、村の人達を城内に残して逃げる後ろめたさを味わっていた。城内が安全とはとても思えなかった。

隣りでマレノの腕を離さずに逃げるセイの表情も盗み見た。青ざめて強ばった表情には苦痛の色が浮かんでいる。

マレノはセイが追い詰められている時の表情をしている、と過去の事を思い出した。悪戯っ子に囲まれた時や、言葉の通じない暴漢に絡まれた時、何時もセイはこんな表情をしてると思った。

生きるか死ぬかのこんな時に思い出を振り返っているなんて、私もどうかしてるとマレノはぼんやり考えた。でも最近はずっと遠巻きの舞台で見ていたセイがすぐ隣りでマレノを引っ張って走っているのを見ると、何だか現実味が無くて今も夢の中に居る様にも思えてくる。

階段を降り切ると、薄暗い通路が続いていた。壁に掛かっていた持ち歩ける照明具を一つ手に取り、司書長補佐フリオールがセイに向かって言った。

「この先は…王族方や貴族の皆様が先に避難されています。セイ、先に言っておきますが…」

フリオールは言い難そうに続けた。

「我々司書長並びに補佐の命はあくまでもラメイア王朝の存続の為に捧げる覚悟でいます。我等を見出して国家の要職に据えて頂いた現王には御恩があり今こそ御力になる時と思うからです。」

「我が命に変えてもラメイア王を守らなくてはならぬ。微力ではあるが、な。」

司書長ガラルも同意した。

マレノはフリオールはともかく、司書長ガラルは老齢で今にも倒れてしまうのでは無いかと心配になった。かなりの高齢で歩くのが辛そうな程のこの御方が、この先敵兵の攻撃を避けながら逃げれるかどうか不安に思う。国王の心配よりもガラル自身の方が危ないのでは無いだろうか。

「セイ。貴方はどうですか?」

マレノの不安は他所に、フリオールがセイに問いかけた。セイは俯いていたけれど迷いなく答える。

「私も王を守ります。」

フリオールはほっとした様子で頷いた。

「では、行きましょう。そのお嬢さんの事はいずれ無事に逃げ仰せた時に説明して下さい。今は話している時間が惜しい。」

マレノははっとして頬を赤らめた。今まで司書長補佐には自分が見えていないのでは無いかと錯覚してしまうほど完全に無視されていたのに、実は同行を許されていた様だと急に気付いたのだった。

マレノの身分ならきっと今もまだ城門内で残されていただろう。セイが左腕を離さず握って連れて来てくれたおかげで、王族や身分ある人々に交じって地下通路へやって来たという訳らしい。

マレノはそれを後ろめたく感じもする。ただ、司書長補佐フリオールが言ったように無事に安全な場所へ逃げられたらマレノを一緒に連れ出してくれた事のお礼を言おうと思った。


「おお!フリオール!無事だったか。」

「カリオン王子。良くご無事で!」

司書長補佐フリオールがカリオン王子と呼んだ相手と肩を叩きあって喜んだ。

「お怪我も無い様子。我等一同、王子のご無事な姿を見て安心致しました。」

司書長ガラルもほっとした様だ。

地下通路の角を折れた先には、こじんまりと開けた空間が存在していた。そこには数十名の男女が子供も含めて不安げに集まっていた。マレノ以外の人々は皆身分の高そうな衣装を身にまとっているので、王族や貴族、又は国の高級官吏などの面々だろう。マレノは自分が場違いな所へ迷い込んでしまったと思い気後れした。多分、ここに居るのは城内地下の通路を通って国外へ逃げる人々の集まりだ。本来ならマレノの様な一村人に過ぎない身分では安全に逃亡する事は許されず、城と共に戦う兵士達と敵の刃に倒れるのがせいぜいだろう。

マレノの逡巡に気付く様子も無いセイは相変わらず苦痛に耐えるような表情をしている。緊張しているのかもしれない。

か細い光を放つ照明具は数える程しかない。薄暗い広間に淡い影が揺らいでいる。静かな声が沈黙の中で響いた。

「この地下通路は城から蟻の巣の様に分かれた道が広がっているという。いざと言う時の為に城の外部まで通された脱出路だ。」

カリオン王子が集まった人々に説明した。敢えて落ち着いた雰囲気を出しているのは、人々に動揺を与えないためだろうか。

「カリオン。」

「レイナス。この先は私達は別々に行動する事になるだろう。王国の再建が無事に逃げ仰せた者の使命だ。万が一私がグレイドンに討たれたとしても、お前が生き残っていれば望みは絶えずに済む。」

長子カリオン王子は17歳、次男のレイナス王子は15歳。どちらも戦の経験は無い。王子達がこの年齢になるまでの間ラメイア王国が戦争とは無縁だったとも言える。国王は二人の王子には城兵と共に戦う事を許さなかった。城壁の内側に留まって最前線で戦うのはラメイア王一人で良い。息子達には城外へ逃げて援軍を要請する様にと任務を託していた。

だが仮に援軍を連れて来れたとしてもラメイア王の率いる城兵がそれまで持ち堪える事が出来るかどうかは解らない。現時点での目算では望みは薄いと思われる。

ラメイア王国の滅亡は眼の前に迫っていた。


先頭に立つカリオン王子は司書長ガラルと司書長補佐フリオールを従えて地下道を進んで行った。手には一枚の図面がある。それを手掛かりに進んで来たが、ある箇所に辿り着いたところで王子の足が止まった。

「フリオール。この図面は地下道の抜け道が書かれている物だ。だが、丁度ここで図面が途切れている…。」

「その様です。しかし…」

フリオールは前方を見た。

道が左右に別れており、どちらも外へ出る脱出口は未だ遠そうだ。ここまでは図面通りに進んで来たがどうやらこの先はあての無い道行になるらしい。

「おい、兄上。」

「レイナス…。図面がここから先は途切れている。この先はどちらへ進んだものか…」

弟のレイナス王子はやや焦りのある表情を見せた。

「勘に頼るしかないのか?」

「そうだな。他に情報が無い。ラメイア城が敵の手に落ちればこの地下にも敵兵がやって来る可能性がある。ぐずぐずしては居られない…。」

カリオン王子は前方の左右に分かれた地下道をじっと見詰めていた。下手に誘導すれば一緒に着いてきたこの場の数十名も外に出た瞬間に危険に晒しかねない。緊急時にしか使わないこの地下通路の出口への行き方を知っている者はこの場にいなかった。

「兄上。俺は反対の道を行く。ここで別れよう。お互いしぶとく生き残って別々に援軍を連れて帰って来る。そうでなくてはこの城は終わりだ。」

「レイナス…」

カリオン王子は弟の意見と同じ結論だったが、前方の左右どちらの道を選ぶべきか決めかねていた。兄として決定権は自分にあると分かっているがこの一瞬の決断で自分もしくは弟が危険な目にあう可能性もあるのだ。

カリオン王子が迷っていると、司書長補佐フリオールが唐突に口を開いた。

「セイ。ラメイア王朝記の別巻2、付録ページを読みましたか?」

セイはぼんやりしていたが、はっと物思いから醒めた人の様に呼び掛けに応じた。

「はい。読みました。」

「紙と、ペンを。」

フリオールが持ち物袋から紙とペンを出すとセイに渡した。

「別巻2の付録…5か6あたりだ。」

セイは紙を受け取り横壁に片手で支えて固定した。紙の右下端からサラサラと斜めに塗り潰す様に面を埋めてゆく。紙上にペンを何度も往復させながら1つの図を書き上げた。

「ラメイア王朝記…別巻2…付録5…」

途中でブツブツと呟きながら紙一面に現れたのは地下通路の図面だった。

「何?!これは…図面?」

カリオン王子が書き上げられた図面を見て驚いた。先程王子が見ていたここまでの道筋が載っていた図面よりも精巧であり原画に基づいた正確な数値も端々に記されている。

カリオン王子から司書長補佐フリオールへ、司書長ガラルの手へと渡り、皆がそれぞれ地下通路の図面だと認めた。

「俺にも見せろ。」

レイナス王子が図面を受け取るとさっと一瞥してから乱暴に紙面を叩いた。

「馬鹿馬鹿しい。この男は何者だ?見たところ俺の知っている貴族の子孫には居ない顔だ。身分の卑しい者が何故ラメイア王朝記などを写す事が出来るのだ。実物を見た事があるかどうかも怪しいところだ。」

隣りで頷いたレイナス王子の側近達も口々にセイの描いた図面の信憑性について疑う言葉を発している。

すると今まで黙って聞いていた司書長ガラルがゆっくりと立ち上がった。

「疑うのは尤もだ。しかし我々には時間が無い。今すぐ決断せねばならぬ。この図面に沿って進むか、無視して勘を頼りに進むか。」

「レイナス王子。この者は書戯役として王国の礼殿で勤めていたセイという者です。彼にはラメイア王朝記や、ラメイア古来の魔導書、辺境の地形図などありとあらゆる王家の書を読むように指示してあります。」

気配を潜めて話の行く末を見守っていたマレノは、司書長補佐フリオールの言葉に驚いていた。

マレノは幼馴染みのセイが書をパラパラと読むと中身を丸暗記してしまうのを知っていた。セイはある日ボソボソと何でもない世間話の様にマレノにそれを打ち明けたのだった。

マレノは話半分に聞いていたけれど、それから暫くして暴漢達にセイが襲われた時に教科書を暗唱して現実逃避をしているセイを見た。教科書を一字一句間違えずに暗唱してしまうこの幼馴染みには少し凡人とは違う所があるとマレノはその時気付いた。

セイは青白い無表情で黙って成り行きを見ていた。

レイナス王子はセイが書き上げた図面を取り上げてもう一度しげしげと見た。そして顔を上げると嘲るように言い放った。

「この図面が正しいと…誰が証明出来る?罠かも知れんぞ。」

「レイナス王子…」

周辺にいた者達の高揚感に満ちた空気が水を差された様に引いていった。

この道の先が分からなかった一同にとって、セイの描いてみせた図面は突然現れた命綱だ。これで暗い地下道から安全な場所へと脱出が出来ると希望が差したのにレイナス王子のひと言でそれは打ち砕かれた。

「辞めよ、レイナス。」

カリオン王子が毅然と言い返した。

「私はこの者の描いた図面を信じたいと思う。フリオール、図面の指し示す出口へと案内を頼む。」

「兄上。罠が待っていたらどうする?出口に出たと思ったらいきなり待ち伏せされていたら?」

カリオン王子はふっと諦めの笑みを浮かべて言った。疑い深いレイナスを無理に説得している時間は無い。

「お前は別の道へ行くと良いだろう。」

「別の道?図面の出口とは反対の方へ進めと言う事か?」

カリオン王子は頷いた。

「元々、どちらかが生き残る為には別々に行動した方が良いだろうと思っていた。」

レイナス王子は不服そうに黙ってしまった。返事を待たずにカリオン王子は告げた。

「急ごう。今も城内で戦っている父上をお助けする為にも一刻も早く援軍を連れて来なくてはならない。レイナス、無事を祈る。また逢う日まで。」

そう言うと司書長補佐フリオールと並んで右の道へ進んで行った。

一部始終を見ていた周囲の者達は知人同士お互いに顔を見合わせ、無言でカリオン王子の後を続いた。レイナス王子と元々懇意にしていた貴族もその中に数名混ざっていた。皆、気まずそうにレイナス王子の視線を避けて静かに去って行く。

身分の高い人々へ先を譲り、ほぼ最後尾となった所でセイとマレノもその場所を後にする。残されたのはレイナス王子と数少ない第2王子付きの側近達だけとなった。まるでこの場にとり残されて見捨てられたかの様だった。

「王子…、どうなさいますか?」

レイナス王子付きの貴族の一人が静かに問い掛けた。王子は床面の一点を黙って見詰めている。

「カリオン王子の言う様に、別の道を進みましょう。どっちにしろ我々には図面は無い訳ですから手探りで逆の道を進むしかありません。」

言い難そうに侍従長が進言する。

信頼する二人の側近の言葉を聞き頷いた。頭では分かっているが怒りに感情が引き摺られて気持ちが追い付かない。

レイナス王子は突然現れ余計な図面を書き上げた下っ端の書戯役に腸が煮えくり返る思いだった。

「あの書戯役…。良い気になるなよ。」

セイの青白い顔を思い出し、レイナス王子は拳を硬く握り締めた。


一方、図面を手にしながらカリオン王子は慎重に地下通路を進んでいた。

「この図面によると、今はちょうど中間地点の辺りだな。幾つか分岐路があったが図面通りに進んで来たところ今の位置に間違い無い。」

隣りを行く司書長補佐フリオールが頷いた。

「図面には出口が数箇所記されています。我々が向かうのは城から最も離れたローデリアの森に備えられた脱出口でしょう。」

「なるほど。お前もこの図面の事は知っていたのか?」

フリオールは照明具を掲げて前を見詰めながら頷いた。

「はい。ラメイア王朝記の様な国家の重要文献はひと通り目を通しております。歴史、地理、法規などの内容も大抵は記憶していますが、セイの様に一字一句ページを再現して現せるほどは覚えていません。」

「なるほどな。彼の正確な記憶力でこの図面が成せる事が出来た訳だ。いや、ちょっと待て…」

カリオン王子は何かに気付いた様子で暫く沈黙した。

「王子?」

「お前、澄ました顔をしているがこれは国家の機密では無いのか?あの書戯役は今まで読んだ書をこの図面の様に書き表せるというのか?しかも全て?」

司書長補佐フリオールは重々しく頷いてみせた。

「何と言う事だ…。」

「我々司書もこの様な国家の有事が起こるとは到底思っていませんでした。セイに書を暗記をさせる事は書戯の制度に反対している方々を見返す為にいつか利用出来るのではないかと思っていたので。」

「というと?」

「酒宴の席などで余興として先程の技を披露して、我々を無能だと考えている高貴な方々へセイの能力の高さを披露しようかと策を弄していたところでした。」

ラメイア王は書戯という役職を重用したが、特に軍関係者からは書戯達は冷ややかに受け止められていた。一日中書ばかりにかまけているだけで国家の高級官吏への道が開けている。しかも読んでいると言っているのは書戯役当人達の自己申告だ。一日さぼって居眠りでもしてるだろうと陰で悪く言う者も多かった。フリオールは司書長補佐として書戯役及び書を司る文官の地位を護る為に常に国家の目立たない所で立ち回っていた一人だ。

カリオン王子は司書長補佐に疑問に思った事を聞いた。

「セイは…彼はこの図面だけ特別に暗記している訳では無いのだろう?」

「はい。私が読んでおくようにと指示した書はどのページでも先程の図面の様に再現出来ます。」

「馬鹿な。それでは、セイは一体何冊読んで、何冊暗記しているのだ?」

「彼は書戯役として勤めて現在三年目になります。礼殿での時間以外も書を読む様にしていたので、おそらく数千冊…」

「覚えていない書も有るだろう?」

フリオールは首を振った。

「セイ本人によれば、幼少期から現在まで目に映った物は全て記憶しているそうです。忘れられない、と言っていました。」

「そうか…。忘れられない病、とでも言えるのだろうな。常人には羨ましい限りだが本人には辛い事も有るのだろう。」

フリオールは王子の表情を見た。

こんな国家の非常時にも関わらず、セイの様に身分の曖昧な若者の特異な性質を案じてくれるのはこの王子らしい情深さだと思った。子供の頃からカリオン王子の教師兼世話係の一人として城で勤めてきたフリオールには王子も心を許している。またフリオールもカリオン王子の側で長年支えて来たのでこの王子の心根の優しさに度々触れる事がある。

優しいだけでは国を治める事は出来ない。

フリオールは現在の王国の危機に際して剣を振るう事も出来無い自分の非力さに無力感を感じ自己嫌悪した。

だが、セイが地下通路で迷っていた我々の前に道を示してくれた時の様に微かな光が指す様な瞬間がこの先も有るかも知れない。自分も役に立てるだろうか。

「王への恩返しに…なると良いのですが。」

「何か言ったか?」

フリオールにカリオン王子が聞き返した。

フリオールは独り言ですと微笑んで首を振った。ラメイア王の身を案じつつ地下通路の先へ目を凝らした。


図面通りに進み、無事ローデリアの森の外れにある脱出口に辿り着いた。この先はどこで敵国グレイドンの兵士が待ち伏せているか分からない。

カリオン王子が貴族の代表に別れの挨拶を告げた。

「大人数での移動は危険が伴う。ここからは皆それぞれ何とか逃げ延びて欲しいが…」

「カリオン王子の命を狙って追手が来るかも知れません。どうかご無事で。」

「必ず援軍を連れて戻って下さい。お願いします、カリオン様。」

カリオン王子は力強く頷くと、側近数名と司書長補佐フリオール、司書長ガラル、そしてセイとマレノを伴って速やかに森を離れて行った。

カリオン王子の従者ウッズは側近以外に司書長らと書戯役が同行しているのが納得出来なかった。

「カリオン王子。何故司書長や補佐、書戯役まで一緒に連れて行く事にしたのですか?彼等は自分の身を護る事も出来ない。足手まといだとしか思えませんが…」

「ウッズ、落ち着け。」

カリオン王子は声を静めて言った。

自分としても何故彼等を同行させているのか、一種の賭けの様なものだと思っている。

カリオン王子の窮地を救ったのはセイの記憶による図面だ。王子は地下通路で図面を手に道を進んでいた時、自分はある幸運を手に入れたという予感がした。ただの妄想だろうか。何かに縋りたい一心で恐怖を忘れ去る為の思い込みが強くなった結果だろうか。

セイの青白い横顔を見て、カリオンはこの青年の能力はこの先自分の窮地を助けるのに必要になるかも知れないと思った。そして自分もセイに報いなければならないと思ったのだ。それは理屈では無くただの衝動的な思いだ。

良いだろう。賭けてみるのも悪くない。

どっちにしても、自分の死は決まっている。

グレイドンの大軍に城を囲まれた時に、ラメイア王に地下通路から逃げる様に指示されカリオン王子は激しく抵抗した。

「城の命運と私は共に有ります。自分だけ逃げ延びるなど考えられません。」

そう言って残ろうとしたが、父ラメイア王は首を縦に振らなかった。

「援軍を連れて来い。王国の未来を途絶えさせない為にも、お前達は生き延びよ。」

そう言ってカリオン王子とレイナス王子を地下から逃げる様に指示した。その時、王の眼には死の覚悟が読み取れた。

「分かりました。必ず、援軍を連れて帰ります。それまで…」

生き延びて下さい、父上。

お互いの覚悟を眼と眼で交わして父と子は別れた。

だがグレイドンは今回の侵攻に対して周到な用意をしていた筈だ。カリオン王子をみすみす逃がす事など有り得ないだろう。自分は必ず捕まる。そして死ぬ。

そう思って諦めていた時に、不意に奇跡の様な書戯の技を目の当たりにしたのだ。自分は神に見放された訳では無いと不意に信じたくなった。

カリオンの従者ウッズは心から自分を案じてくれている。彼の心配ももっともだ。

だが運命を手放す訳にはいかない。

大袈裟かも知れない。しかし今のカリオンに他に縋るべきものが無いのだった。


麓の小さな村で馬を貸して貰えた。ここからは騎馬で目的地へと向かう。

「援軍を頼むのにここから一番近いのがヤードネ厶ル領主ハリオット様ですね。城から一報が先に届いていれば既に兵を移動させているかも知れません。」

「その場合は我々も合流しよう。急ぐぞ。」

カリオン王子は馬上の人となって先頭に立ち出発した。王子と騎士達は乗馬は慣れたものであっという間に先へ見えなくなってしまった。取り残された文官と貴族の一行は数人だ。辛うじて早足を保っているが馬に慣れていない為ぎこちない乗馬術で四苦八苦している。

セイは馬に乗ったのは久しぶりだった。それも、書戯の式典でパレードの行進をする常歩の速さでの経験しかない。マレノを前に乗せた二人乗りはどうにも危なっかしく、二人揃って落馬でもしたらと冷や冷やしている。

「セイ。『騎士鍛錬教訓』を覚えていますか?」

フリオールが横に並んで話し掛けた。

「あ、ああ。はい!ありましたね。乗馬訓練譚のページが…」

「流石ですね。暗唱出来ますか?」

「は、はい!ええと…序章、乗馬訓練譚…これを心得る者は騎士の嗜みとして、如何なる階級の騎士であっても」

マレノは落ち着かなく馬に揺られながらセイの暗唱を聞いていた。前置きの文ではなく本文を暗唱して欲しいけれど、多分途中で口を挟むとじゃあまた最初からとなって一向に実技部分の本文まで進まなくなってしまうのだろう。セイは書を途中から思い出す事は苦手らしい。ページの初めから思い出した文字をなぞるように暗唱する方が調子が良い様だ。

「姿勢その一、馬上では視線を前方に背を伸ばし、手綱若しくは腰柵を掴んで…」

マレノはふんふんとセイの言葉を聞き取っている。ふと、隣りを行く司書長補佐フリオールという人がこちらを見ている様な視線を感じた。

マレノがフリオールの顔を直接見ると口の前に人差し指を立てている。喋るな、という事だろう。セイの暗唱を途中で遮るとまた最初のページからの暗唱になり無駄になってしまう。マレノは了解を声を出さずに頷いてみせた。

笑みを軽く浮かべてフリオールも首肯した。マレノはセイが理解ある上司と巡り会っていたと思いほっとする。

田舎出身の特異な性格を持った変わり者の学生がちゃんと書戯役を勤めてこれたのも周りの人に恵まれたからかもしれない。

村の人達はセイが王城へ行くと決まると、直ぐに追い出されて逃げ帰って来ると口悪く噂していた。マレノはそんな悪意のある噂話を聞かされていつも悲しくなったものだ。セイが初めて他人に認められたという事を何故素直に応援してくれないのだろうか。心の狭い人達が嫌で、何時しかマレノも王城の近くで働きたいと思う様になった。そうすればセイの様に狭い世界を離れて自分も自由に生きられるかも知れない。

マレノが故郷の思い出に耽っている間もセイの暗唱は止まらない。段々と興に乗ってきた様で口滑らかに『騎士鍛錬教本』を論じてゆく。

「セイは凄いね…」

マレノが思わず呟くと、セイの語る声が途絶えた。

「あ、ごめんなさい。折角話していたのに邪魔しちゃった。」

「あ、ううん。」

そう言ったきり、セイが黙ってしまった。

マレノは焦ってもう一度暗唱する様に勧めてみたがセイは途中からは思い出せない様だ。

「でも、少し上手く乗れる様な気がしてきたよ。」

持ち上げた手網を軽く持ち上げながらセイがはにかんで笑った。すると馬がブルンと一声鳴いた。

驚いて二人で肩を縮ませ、静かに笑い合った。


ヤードネ厶ル領主のハリオットは壮年の働き盛りの人物だ。領内の治世は安定しその手腕をラメイア王も高く買っていた。国内の要所である北西部のヤードネムル領を任せられ長年期待に応え一地方都市であったヤードを国内有数の財を蓄えた都市に生まれ変わらせたのもハリオットの力に寄るところが大きい。

カリオン王子の母である王妃メリルデアはハリオットの従姉妹に当たる。血縁関係を持つこの領主には王子も幼い頃から可愛がって貰った記憶がある。最初に援軍を頼むのにこれ以上心強い相手は無い。

カリオン王子が到着する前に城から派兵要請が伝わっていれば、既に援軍が差し向けられている可能性もある。それならヤードネムルの軍を追い掛けて合流するか、若しくは別の領主の援軍を頼みにまた移動を続けるかのどちらかだと王子は考えていた。

ヤードネムル城に着くと領主の部屋へ急いで向かった。一刻も早く国の危機を伝えなくてはならない。焦るカリオン王子をヤードネムル領主ハリオットは暖かく出迎えた。

「城からの早馬が先に到着して大体の事は伝え聞いている。カリオン王子、お前と弟レイナス王子の両名は城を無事に逃げ延びたと聞いた。お前の姿を見て安心したよ。」

「ありがとうございます。ハリオット叔父上。」

カリオンは思わず涙ぐむ。

「援軍を送る準備は進んでいる。だが先発隊はせいぜい千人といったところだ。首都まで急いで向かってもグレイドンの兵士は既に城を囲んでいるかも知れない。現状では勝ち目は薄い。」

カリオン王子は黙って頷いた。

「相手は一万を超える大軍で攻めて来たとも伝え聞いている。こちらの本隊は三千程度だ。私も援軍を率いて指揮を取る行くつもりだが、難しい戦になるだろう。」

「ハリオット叔父上。私も援軍に合流しようと考えていますが…」

「いや。レイナス王子はおそらく東方のアイルデン領主に助けを求めるだろう。そこで援軍が得られれば良いが、断られたら次に打つ手が無くなってしまう。そうなれば城を見捨てたも同然だ。」

「アイルデン領主ザライ様はレイナスのお爺様に当たる方です。力になってくれるとは思いますが…。」

ハリオットは沈黙を挟んでから言い難そうに告げた。

「現王を見捨ててレイナス王子を王にしようとするかもしれぬ。」

ハリオットとカリオンは黙ってお互いを見詰めた。先にカリオン王子が口を開く。

「ザライ様にとって、レイナスと腹違いの長男である私は邪魔者でしか無いのでしょうね。」

カリオン王子は溜め息と共に言った。

長子カリオンの母メリルデアは一地方貴族の生まれでさほど身分は高くない。一方、ラメイア国の筆頭貴族であるザライはその娘を王に嫁がせた。ザライの娘セレナはレイナス王子を産んだが時すでに遅く、第二王子として産まれた為に王位継承順位はカリオンの次だ。

「命を大事にする事だ、カリオン。どちらにしろ城を他国に占領されては国の存続も危うい。仮にレイナス王子がザライ殿の後ろ盾を頼んでこの危機に乗じて王の座を奪おうとしても、グレイドンに支配されてしまってはラメイアは終わりだ。」

「先ずは父王と城の者達を助けなければ。」

ハリオットとカリオン王子は頷き合った。

不意に二人きりの部屋の扉をノックする者があった。

「お耳に入れておきたい事があります。よろしいでしょうか?」

扉の外から遅れて到着した司書長補佐フリオールの声が聞こえた。カリオンは扉に素早く寄って、司書長補佐を部屋へ招き入れる。

「どうした?フリオール。出発は近い。言いたい事があれば早く頼む。」

「今から話す事は、お二人だけの内密の話という話で…お願い出来ますでしょうか?」

「分かった。何事か?」

「はい。カリオン王子をこの先お連れしたい場所があります。お二人はシェルレインの隠れ里をご存知でしょうか?」

「シェルレインの隠れ里?」

ハリオットは首を捻ったがカリオン王子は聞いた事があると言った。

「心に疚しい事が無ければたどり着けると言われている古い伝説の里です。そこにラメイア王国に伝わる結界の手掛かりがあると言われています。」

「結界?何だ、それは?」

「私も聞いた事が有る。ラメイア王国の結界、それは城の地下結晶石、シェルレインの結晶石、そしてもう一つの結晶石を用いて王国の結界を張り巡らす、伝承の秘儀の事だ。」

カリオン王子が言った。

「結界か。此度の戦でそれは役に立つのか?」

「グレイドンの攻撃を退ける事が出来るはずです。」

「どうやって?既に敵兵はラメイア城まで侵攻しているのに?」

「王国に眠る古来の秘儀、という事しか分かりませんが…セイなら原典の書を読んでいる可能性があります。」

ハリオットは眉をひそめて言った。

「原典の書を読んでいる?王国の書庫には様々な古書がある。それを読んだだけで秘儀を使えると言うのか?」

「叔父上…、書戯役のセイは読んだ書を復元する力があるのです。一字一句誤りなく。」

カリオン王子は地下道で見たセイの能力が如何に常人離れしていたか熱心に語った。その力によって自分は助けられたと言う。

「秘儀を発動させるには古の力を呼び起こす能力者が必要です。現在に伝わらずその血脈は絶えてしまったかも知れませんが捜し出す価値があると思います。」

司書長補佐フリオールの言葉にハリオットは頷いた。

「手遅れになる前に決断せねばならぬ。お前達はシェルレインの隠れ里へ行き、結界の手掛かりを探せ。私は今から直ぐ先発隊とラメイア城へ向かう。」

カリオン王子と司書長補佐フリオールはその言葉を聞いて顔を強ばらせた。先発隊はラメイア城に早急に駆けつけねばならず、城に着くまでにグレイドンの兵に囲まれてしまう可能性もある。危険を承知でハリオットは指揮を取るらしい。

「叔父上…」

「そんな顔をするな。カリオン。」

ハリオットは力強く続けた。

「ラメイア王と王妃メリルデアを見捨てる訳にはいかない。城は私に任せてお前は自分のするべき事をしろ。」

カリオンは唇を噛み締めて頷いた。


ヤードネムル城の内外は出兵の準備で誰もが緊張感に満ち殺気立っていた。

「フリオール。私はこの城に残りラメイア城の書庫の蔵書の一覧を覚書として書き出そうと思う。城から離れているから正確には難しいかも知れぬが、私の知識の及ぶ限り書き綴ってみせよう。」

フリオールはガラルの意図する所が解った。

この戦乱の最中に蔵書の覚書一覧を記す事に大した意味は無い。だがセイにとってそれは書の記憶を呼ぶ鍵の様なものだ。

セイは書を正確に記憶しているが、何を記憶しているか系統だって理解出来ていない。しかし書名が分かれば記憶を呼ぶきっかけになるだろう。

「ガラル様。この城が戦場になる可能性は低いと思います。ですがくれぐれもお気をつけ下さい。私はカリオン王子に同行しようと思います。」

「我々司書は現王に数々の御恩がある。お前が最後まで王子にお仕えするのも恩返しの一環となるだろう。武力ではお役に立てまいが…」

そう言って笑うと、司書長ガラルは首から銀の鎖を外してフリオールに差し出した。飾りにコイン型のペンダントトップが付いていて裏面に文字が刻印されている。

「司書長の証だ。今日からラメイア王国司書長としてお前が持っていなさい。」

フリオールは慌てて差し戻した。

「いいえ。司書長の品など頂けません。」

ガラルはゆっくりと首を振った。

「元々そろそろ隠居の時期では無いかと考えておったのだ。この様な王国の危難を迎えて役目を放棄するとは無責任だと謗られもしようが、この老体では十分にお務めする事も叶わぬのでな。」

フリオールはコインを裏返して見た。目にするのは二度目だ。以前は司書長補佐にガラルから直々に任命された時、司書の心得として読ませて貰った記憶がある。

『知の蓄積を重ねよ。武と権を挫く者と成れ』

戦場となった祖国に自分が何か出来る事が有るのか。先行きの見えない不安と共にコインを握り締めた。


セイは簡単な食事を貰いマレノと分け合って食べた。人通りの少なそうな城内の片隅にある通路の隅に二人で寄り添って一枚の毛布にくるまった。他のヤードネムル城の下っ端兵士や使用人達と一緒に雑魚寝をする。

明日からどうしようか、話し合ってもいなかった。ひとまず一夜の食事と宿を貰えたが、この先兵士の訓練もしていない自分に兵役が勤まるとは思わない。

マレノは静かな寝息をたて始めた。離れていた間の思い出話もろくに出来なかったのを残念に思う。

だが、今出来る事をしておこうとセイは目を閉じた。眠る前の淡く緩やかな睡眠導入の合間に今日読んだ書、昨日読んだ書、一昨日読んだ書、そのまた以前の…と、順を追って記憶を遡る。

戦場で役立つ知識は無いか。効果的な攻城術は、先進的な火薬は、最短で移動出来る地図は…?瞼の裏に浮かぶのは読んで日の浅い戯曲や叙事詩の書だった。これでもない…そうじゃない…と焦りに駆られながら浅い眠りに落ちていった。


早朝に肩をゆり起こされて目が覚めた。

「フリオール様…」

「行くぞ、セイ。起きなさい。馬舎で待っている。」

一晩離れていたセイの上司は自分をここから連れ出す様だ。フリオールは寝ている周りの人々を起こさない様に忍び足で外へ出て行った。

マレノを起こそうとして、自分が彼女と肩を寄り添って眠っていた事に気付き急に恥ずかしくなる。反射的に手を避けたせいでマレノも目が覚めた。

「…セイ?」

セイは唇に人差し指を立てて静かにする様に頼み、二人で通路を静かに移動した。外に出るとフリオールは馬舎で待っていた。昨日ここまで旅して来た同じ馬に荷物を括り付けている。

「セイ。私達はカリオン王子と共にシェルレインの隠れ里に援軍を頼みに移動する事になった。用意が出来次第に出発をする。準備をしなさい。」

セイはマレノと顔を見合わせた。

「お待ち下さい。僕は…王子と一緒に行って足手纏いになりませんか?何かの役に立つとは思えないです。」

「本気で言っているのか?」

フリオールは少々険のある声で返事をした。珍しく怒っている様に見える。

「ならば言おう。お前は地下道で王子に道を示した。精巧な図面の原画と一切違わない物をものの数刻で再現したのだ。どこが役立たずか?」

「で、ですがこの先は何も出来ないかも知れません。剣だって振るえないし…」

「そんな事は期待していない。安心しろ。」

フリオールはちらりと後ろのマレノを見やって言った。

「その娘は知り合いなのだろう。危険な旅だが本人が望むなら一緒に連れて行って構わない。王子の側近は屈強の兵士達だ。王子を護るのは彼等に任せれば良い。私達文官は手を出す事は無い。」

マレノの気持ちはどうだろうとセイは彼女の表情を見た。

「一緒に行きます。私は街のお針子だから何も出来ないけれど、セイは知識の宝庫みたいな人だからきっとお役に立てる日が来る筈です。」

「ええと…。大袈裟だよ。」

セイがもごもご言うとフリオールもようやく笑った。

「出発は数刻後だ。紙とペンを忘れるな。」

セイとマレノは揃ってはい、と返事をした。


レイナス王子は地下通路を抜けるのに時間を擁していた。行き止まりに当たったり先程通った同じ別れ道に戻ったりと苛立つ事も多かった。

カリオン王子が地下通路を抜け出てから一昼夜、夜通し迷っていたレイナス王子もようやく出口に辿り着いた。それは隣り街ノルキアの外れにある今にも朽ち果てそうな無人の廃屋だった。その小屋の中に隠された地下室の入口がラメイア城の地下通路へ繋がっているとはノルキアに住まう者達は夢にも思わないだろう。この出口はレイナス王子が目標とするアイルデン領へ行くのに都合の良い場所だった。ここからはアイルデンまで街道を進めば半日で着ける。

「時間が掛かったが、ひとまず脱出した。これよりアイルデン領へ向かいザライお祖父様に頼んで援軍をラメイア城へ送ってもらう。急ぐぞ。」

地下通路で迷い精神的な疲労が溜まっていた面々だったが、地上に出た事で気力が戻ってきた。レイナス王子の言葉に皆が力強く頷く。

そこへ唐突に右側の端にいた側近がばたりと倒れた。何事かと周りの者が見ると側近の首に矢が刺さっており、即死だった。

「弓に狙われている!気を付けろ!」

「王子の周りに集まれ!周囲の警戒をしろ!」

「矢を射った奴は何処だ?!」

一気に緊迫感が増し側近達は戦闘態勢に入る。貴族の女性が半狂乱に陥り金切り声をあげた。混乱が増して皆が浮き足立つ。

するとそこへ静かな落ち着いた声が割って入った。

「待て。無駄な争いは不要だ。」

木の影から声の主と数人の人影が現れた。兵士らはいずれも隙の無い姿勢で剣や弓を構え押し殺した殺気を放っている。その後ろに責任者らしき人物が立っていた。先程の声の主らしい。

「私はグレイドン軍団長ナバード。君達は包囲されている。抵抗しても無駄だよ。」

レイナス王子の一行はおよそ数倍の人数の兵士に囲われていた。敵の弓兵が抜け目なく王子に弓矢の照準を合わせる。

「我々と一緒に来て頂く。あちらはラメイア国第二王子レイナス殿だ。丁重に扱う様に。」

軍団長ナバードは微笑んで言った。


夕刻になりラメイア城の攻防はひとまず落ち着いた。朝に昼に絶え間なく激しい城攻めに遭いそれを防ぎ切ったラメイア王は二日目の夜を迎えた事を奇跡に近いと感じていた。

「皆、良く守った。見張りを立てて、その他の者は交代で休め。」

ラメイア王は城内曲輪を巡りながら兵士達を労った。救護所で立ち働く王妃メリルデアの姿を見つけてお互いの無事を確かめ合う。

「王妃よ。貴女も休むべきだ。」

メリルデアは微笑んで言った。

「いえいえ。負傷者はまだまだ運ばれて来ます。これからが救護所にとっての戦場です。」

王は苦笑した。王妃は言い出したら聞かない性格なのは解っている。ここはひとまず彼女の好きにさせる事だ。

「ではここは任せる。無理はするな。」

王妃は微笑んで頷いた。

その場を離れると王の隣りを歩く将軍が戦況を分析した。

「兵士はよく凌いでいます。負傷者は2割ほどですが、完全に動けない者は多くはありません。」

「…意外だな。」

「意外とは?」

反対側の隣りを歩く宰相ハーゲンが王の真意を問い質す。

「私は…お前達も知っての通り、国民には書と学問を勧めて国政を行って来た。国の防衛力には正直に言うとあまり関心も無かった。外国からの侵攻があれば早々に降伏するものだと考えていたのだが…」

「意外に善戦していますよ。我が国民の兵士達はそう簡単には負けません。」

そう言って将軍マザルクが豪快に笑った。

「とはいえ…」

宰相ハーゲンは眉間に皺を寄せて続きを語った。

「早期に援軍が来なければ難しい戦いになります。カリオン王子とレイナス王子に城を脱出して頂いて援軍を要請する様に頼みましたが…。」

「だが、息子らと同時に早馬を飛ばしてある。一番近いヤードネ厶ル領のハリオットはそろそろ兵を揚げて城へ向かっているだろうか。」

「王子達は無事に脱出出来たでしょうか…」

宰相ハーゲンの問いに王は真剣な表情で答えた。

「王子らには…ラメイアを存続してもらいたいと思う。城を捨てて逃げた腰抜けと悪しく言う者もいるだろうが…」

宰相ハーゲンは二人のラメイア王子のどちらが時期ラメイア王に相応しいか王の思惑を図りかねていた。戦が始まる前の平和な時からそれとなく尋ねているのだが、のらりくらりと明言を避けられている。

通常通りならば長子カリオン王子が皇太子として世継ぎになるのだが、レイナス王子を推す貴族の派閥も多く無視出来ない。

だがハーゲンは城が攻め落とされればラメイア王国は消滅するだろうと考えている。城が落ちラメイア王が亡くなった場合生き残った二人の王子のどちらかがグレイドンの侵攻を防がなくてはならない。しかし戦の経験に乏しい王子らには無理だろう。やはり国の存続はラメイア王あっての事だ。

ハーゲンは将軍マザルクをちらりと見る。

書戯役や司書を優遇して来た今の国政では軍関係者は長い間中央政権での発言力が低かった。将軍は重要な役職とは見なされず国の重要な会議には呼ばれない。中央政権とは縁の無い存在だった。

それでもいざ戦が始まると軍の最高責任者として兵士を束ね獅子奮迅の働きでグレイドンの猛攻を退けている。今の今まで城が保っていられたのも将軍マザルクの力が大きい。

文官として長く務めてきた宰相ハーゲンは自分がラメイアの法や政治を動かしてきたという自負がある。しかしいざ戦となると将軍ら兵士達の力に頼るばかりで自らの無力感を味わっている。

書を尊び書戯役を重用して来たラメイア王国だが、ハーゲンはそろそろ国の在り方を変えるべきだろうと考え始めていた頃だった。近隣諸国が武力を強化し他国への侵攻の準備をしているらしいとの噂を聞いていたからだ。

「ハーゲン。お前の言った通りグレイドンは我が国へ攻めてきた。軍の強化をもっと進めておけば城まで侵攻する手前で防げたかもしれぬ。」

「そうですね。今回のグレイドンの行軍は素早く、開戦になるまでの準備で我が国は大きく遅れをとってしまいました。」

「我が軍は頑張ってますよ、王。必ずラメイアを守ってみせます。」

将軍マザルクの言葉は力強い。だが実際は国力ではグレイドンとラメイアでは大人と子供くらいの差があった。戦いはラメイアに勝ち目は無いと皆薄々考えている。

王は二人の側近の顔を見て難しい表情になると低い声で告げた。

「今から話す事は国の秘事なのだが…」

宰相ハーゲンと将軍マザルクははっとした。

「夜が更けてからお前達に話しておきたい事がある。」


王は王妃メリルデアを伴って宰相ハーゲンと将軍マザルクを自室に迎え入れた。時刻は深夜で敵兵には夜襲の気配が無く落ち着いた夜だ。小さめの照明具を一つ手に取って王は側近達に言った。

「今から城の地下へ行く。そこで見せたい物がある。着いてまいれ。」

一同は音を立てずに静かに移動した。地下通路の入口に辿り着くと照明具に灯りを点す。

「ここからは足元が暗い。気を付けよ。」

王は入口を開けて地下を進んだ。他の者も無言で後を続く。


宰相ハーゲンは緊張していた。王が見せようとしている物に心当たりがあった。

それは先代宰相である父から聞いた話で、代々宰相職に就く者に語り継がれる伝承として語られていた、城の地下にある物についての信じ難い話だった。それが今自分の目の前に姿を現わそうとしている。

宰相職を辞した父はハーゲンに告げた。

「ラメイア城の地下には秘密が隠されている。」

「秘密?それは何です?」

「一つは抜け道だ。」

「ふむ。それは必要ですね。王様はそこを通って花街へとお偲びで夜のお出掛けを?」

「茶化すな。真面目に話している。」

「はい、分かりましたよ。二つ目は?」

「城の護りとなる結晶石だ。」

「石?そんなものでラメイア城を護る事が出来るのですか?」

「判らぬ。私の宰相時代にはついぞ使用した事が無かったからな。永き平和に護られた素晴らしい治世に恵まれたよ。」

「ふうん。私の代もそうあって貰いたいですね。」

「三つ目は…王にしか知らされない国家の秘事だ。」

「それはまた大袈裟な。」

父はハーゲンの目を真っ直ぐ見て告げた。

「良いか。地下に眠る三つ目の秘事こそラメイア王国を揺るがす大事だと私は考えている。お前もそれを知らぬ間に平和に任期を勤めあげる事を願うよ。」

何時になく真剣な父の態度に只事では無い何かを感じ取り、若きハーゲンは黙って頷いた。


その先代宰相も既に亡くなった。ハーゲンは昔の父の言葉を思い出しながら王と王妃の背中を追った。辺りは暗く、か細い照明具は極わずかな手前の足元を微かに浮かび上がらせている。

「着いた様だ。私も初めて見る場所だ。」

「ここは?何ですか?」

今まで黙っていた将軍マザルクが掠れた声で聞いた。

「護りの結晶石のある礼拝堂だ。」

王妃が照明具を王から受け取って壁の一箇所に灯りを移した。壁に埋め込まれた照明が次々と光を吸い込み、辺りを眩く照らして行く。左右の壁面一帯の照明に全て灯りが移るとまるで昼間の様な明るさになった。

「ラメイア王国の結界の一部を成す、城の地下結晶石だ。国土に存在するもう二つの結晶石を揃えれば結界が発動すると言われている。」

王の声が狭い地下室内で静かに響いた。緊張した顔を皆に向けて続きを語る。

「単なる伝説だ。ラメイア建国から一度として発動した事の無い古代の遺物。だが過去にこの結晶石について調べていた他国の内偵者が存在している。」

宰相ハーゲンと将軍マザルクは驚いた。

「覚えていますか?数年前にグレイドンから客人として数日間この城に滞在していた男の事です。」

王妃の言葉にハーゲンははっと思い至ったが、マザルクは首を捻っている。

「ザイオン、と名乗っていましたね。」

ハーゲンの指摘に王と王妃が頷いた。

その頃はまだグレイドンと友好的な関係を築いていると誰もが信頼していた。今にして思えば、グレイドン側からすれば既に城に攻め入る事を画策していたのかも知れない。

「司書長補佐フリオールが言っていた。ザイオンに地下書庫へ立ち入る許可を貰えないかと頼まれたらしい。だが地下には城の護りの要と言えるこの石や、脱出の為の地下通路、そして地下住まう者が居る。おいそれと秘密を明かす事は出来ない故、司書長補佐は申し出を断ったと言っていた。」

宰相ハーゲンは王の言葉の一部に引っ掛かるものがあった。

「地下住まう者、ですか?」

将軍マザルクも聴きとったらしい。間髪入れずに彼も反応を示した。王、そして王妃も頷いて言った。

「次の間へ案内します。貴方達を地下住まう者に紹介しましょう。」


カリオン王子とフリオールは馬の轡を並べてシェルレインの隠れ里を目指して急いでいた。

「フリオール。シェルレインの隠れ里まで行ったことはあるのか?」

「はい。かつて司書試験を受けた際に試験前に行くべきだという話になり、訪れた事があります。」

「なるほど。では道案内を頼む。」

「それが…当時の先輩方が道案内をしてくれましたので、ややうろ覚えなのです。」

「それはまずいな。」

「セイなら詳しい地図を描けるかも知れません。記憶に有るか無いか確かめてみましょう。」

王子のやや前方で馬を進めていた従者ウッズは二人の会話を聞いていた。語気に苛立ちを含めてフリオールへ詰め寄る。

「そんな不確かな旅に王子を連れ回したのですか。司書長補佐殿は王国にとって建国以来の危機的状況だと全く理解されていない様に見受けられます。今この時も一刻を争うのです。」

「ウッズ、私は焦っているよ。」

「カリオン王子。」

従者ウッズは主人の疲れた顔を見た。

「ではお急ぎ下さい。ラメイア城を落とされてしまう前に。」

カリオン王子の目に微かな怒りが浮かんだ。

「お前は何故私が城から離れているのかと思っているだろう?腰抜けの王子は剣を振るって戦えないからと。」

「い、いえ。そんな事は考えてもいません。」

「私もヤードネムルからハリオット叔父上と共にラメイア城に行くべきだった。それこそが王子としての振る舞いだった。解っているのだ。」

フリオールはカリオン王子の言葉を遮った。

「カリオン王子。ハリオット殿と城へ向かえば…」

「分かっている。私などグレイドンの屈強な兵に囲まれてあっという間に倒されてしまうだろう。」

フリオールは王子をシェルレインに向かわせた事は間違っていないと思っている。危険から物理的に遠ざけるという意味でもだ。

だが今はそれを口に出す時機では無いだろう。カリオン王子の命を護る事が王国の存続に繋がる。若き王子が生きている限りラメイアは蘇る。

一方、従者ウッズは黙ってしまった。

主君であるカリオン王子に楯突いたばかりか、王子の背負っている罪の意識を更に深く傷付ける様な発言をしてしまった。

幼少期から王子の遊び友達の様にして育ち、今も側近達の中でも自分が一番の王子の理解者だと思っている。

ふと周りを見ると同行している若い書戯役が目に入った。一緒にいる娘は知り合いだろうか?二人で同じ馬に乗ってのんびり馬足を進めている。そこだけ見ていると王国の危機など全く感じさせない。まるで物見遊山の旅の様だ。

やはり自分には納得出来ない。フリオールとセイが王子を危険な立場に追いやる事になったら自分は彼等を一生許す事は無いだろう。ウッズは無意識に拳を握り締めていた。

フリオールはセイの隣りに馬を進めた。

「セイ。ラメイア北西部の地図を見た事がありましたか?」

「はい。多分…僕の見たのはラメイア国土図面、北西部サルトレ版です。全16帳でした。」

「ラメイア国土図面ですね。うん、良いでしょう。」

14、15、16あたりが目当ての図面だろうとフリオールが言うので、瞼の裏で光る様に当該ページを思い出す。

「少し先で一旦止まります。道を確かめたいので、図面を描いて下さい。」

分かりました、とセイは返事をした。

シェルレインは隠れ里と言うその名の通り、地図には載っていない。セイは指定の図面を3枚、それぞれ右下から斜めにさらさらと描き起こした。周りを囲う王子の側近らも、その妙技におぉっと小さく歓声を上げる。

フリオールは記憶を頼りに地図をじっと見た。何となく川を越えた記憶や上り下りの勾配を地図から読み取って、シェルレインへの道の記憶を辿る。

「フリオール、この先の道は解るか?」

カリオン王子が少し気遣った様子で声を掛けた。そこへ側近の一人が手を挙げる。

「王子。私の故郷はこことここの間辺りの寂れた村です。村の近くではシェルレインという地名は聞かれませんが…」

フリオールは地図にまた目をやった。

街道を行き、川を渡り、緩い上り道で峠を越える、記憶にある道程と同じ地形を探る。

「ただ、この辺りは足を踏み入れると帰ることが出来ない神聖な場所と言われています。古くから里の爺婆が、幼い子供達に近付いてはならぬと固く言い聞かせている地域です。」

側近の指差す地図上の点がフリオールの記憶と重なった。シェルレインはきっとその辺りに違いない。思わず安堵で息をつく。

「王子。私も記憶の中ではその辺りでは無いかと思います。」

「そうか。よし、行先が決まった様だな。」

側近の若者はそこへ向かうと聞いて不安げな表情をした。カリオン王子は笑って言った。

「私も乳母に王城の東の森には恐ろしい化け物がいるから近付くなと脅された事がある。大人になってみればそれは単なる脅しだったと気付くものだ。さあ、シェルレインの隠れ里と信じてこの地へ向かおう。」

カリオン王子の言葉に地図を囲んでいた一同は力強く頷いた。


森が深くなるに連れて霧が出てきた。

「視界が悪いですね。はぐれない様にしなければ…」

従者ウッズが警戒する様に促す。

「ああ。地図上では…そろそろ隠れ里の領域に入ります。しかし見え辛いですね。」

故郷が近くと言っていた側近が言った。

「いや…、皆一旦止まれ。前方に人影がある。警戒を怠るな。」

カリオン王子の緊迫した命令を聞いて兵士らは一斉に隊列を整えた。王子を中心に防御しつつ、前方に目を凝らす。

「カリオン王子、敵はどの辺りですか?」

従者ウッズが聞くが、王子は動かない。

前方の人影と見えた者がゆらゆらと近付いて来た。王子は思わず手綱を握る手が震えた。

あれは人ならぬ者では無いか?

自分とランデルは前方の影に視線を合わせているのが解った。しかし他の者は目が泳いで辺りを見回している。

王子のすぐ手前までやって来た人影が唐突に喋った。

「王子をシェルレインの隠れ里に招待致します。王子以外の他の者はこの森で待機なさって下さい。」

「他の者は待機?何故ですか?」

カリオン王子が聞き返すと人影が薄ら笑った。

「だって、他の方々は誰も私が見えていない様ですよ?そんな状態では御案内出来ませんもの。」

側近達はカリオン王子が独り言を話していると思っている様だ。フリオールが王子を見て頷いた。

「私にも見えるのは…以前シェルレインに来た時に祝福を受けたからなのでしょう。ですが今回は見えるだけで招かれなかった様ですね。残念ですが…王子、」

フリオールが真顔になって言った。

「シェルレインは王国内に在りますが、そこに住まう人々はラメイア王国の管理下にはありません。ここは国の権力が及ばない聖地なのです。王子と言えども何か命令を下して従わせる事は出来ません。」

「なるほど。では、どうすれば良い?」

「城の皆を助ける方法を尋ねる事です。正直に。ラメイア王国の危機を見捨てるほど彼等は非情ではありません。」

「そうか…、解った。」

フリオールは無理に笑顔を作って王子を励ました。

「大丈夫です。もし任務が思う様に進まなかったとしても、カリオン王子の御身がご無事であれば何とでもなります。」

そう言って、王子の右手に他の者から見えない様に紙切れのような物を握らせた。手渡した後、素早く離れたのでシェルレインの使者も王子の側近にも気付かれなかった。

「我等もご無事をお祈り申し上げています。何かあれば王子の元へ駆け付けます。」

従者ウッズが意気込んで言った。

彼も大切な主君と離れるのは不安なのだろう。王子の身を案じる気持ちは本物らしい。

影のような人影はすうっと足音も無く近付くと囁く様に言った。

「ではご案内致します。他の方々は此方でお待ち下さい。」

カリオン王子の馬の轡に手を掛け優しく促すと森の奥へ向けた。

そこでシェルレインの使者は不意に一行の後方に佇むセイを見た。一瞬だが値踏みするような鋭い視線で見た後に、見えない口で笑った様に見えた。

「カリオン王子をどうぞよろしくお願いします。」

セイは静かに頭を下げた。


ハリオットの率いる先発隊はラメイア城近くまで進軍していたが、グレイドンの大軍が囲んでいる城に近付けなかった。敵の斥候に見つかれば千人からなる先発隊など一溜りも無い。ここまではこの地域を良く知る者に道案内をさせてひっそりと行軍して来たが、次の日が昇ればあっさりと見つかってしまう危険があった。

「ハリオット様。夜襲を仕掛けては?」

「それは私も考えていたところだ。」

ヤードネムルの軍では大隊を束ねているノーラン隊長が言った。

「火矢は有るか?」

「準備出来ます。矢の数も射手も。」

「夜襲を仕掛けてグレイドンの兵を混乱させる。その隙に我々の別働隊が城へ入る。」

ハリオットの言葉を吟味しつつノーラン隊長は顎を撫でて言った。

「良いでしょう。闇に紛れて敵の野営地へ移動します。」

「我々はカリオン王子が使ったローデリアの森から地下通路を進む事にする。預かっている図面はここに有る。」

「夜襲を仕掛けた者達は敵に見つかる前に逃げよ。後方にヤードネムルの本隊がいるはずだ。そちらに合流すれば良い。」

ハリオットとノーランは作戦に無理がないか議論をし、頷き合った。

「では私は夜襲隊を指揮します。ハリオット様、どうかご無事で。」

「ノーラン、お前も…。」

ハリオットは危険を承知で夜襲の指揮を引き受けた隊長を失いたくなかった。

「大丈夫です。」

ノーラン隊長は頷いた。


夜が更けてグレイドンの部隊はそれぞれ就寝の準備をしていた。戦局は一方的であり大軍で城を囲む兵士達は連日の攻勢に気分を良くしていた。完全に安心し切っている。

ノーラン隊長は隣りに控える腹心の兵士に小声で指示を出した。

「射手隊はそれぞれの位置に付いた様だな。今少しの刻を待ってから合図の狼煙を挙げる。」

「はい。隊長。」

ノーランは緊張していたが、心は凪いでいた。ハリオットが無事に城へ着く。自分はその為に全力を尽くす。

「よし。作戦を始める。狼煙を挙げよ!」


離れた場所を行軍するハリオットにも狼煙は見えた。

「始まった様だな。」

「ハリオット様。狼煙が上がりました。」

共に行軍して来た兵士が小声で伝えた。

「ああ。見えている。」

ノーランの夜襲を無駄にしない。

その為にも我々は城入りを成功しなくてはならない。ハリオットは拳を堅く握った。

「我等も急ぐぞ。予定通り、全員今晩中にラメイア城の地下から城へ入る。」

ハリオットは音を立てずに闇夜に向かって進んで行った。


カリオン王子はふと薄い膜の様な物を通り抜ける様な抵抗感を感じた。

「お気付きになりましたか?」

道案内として同行するシェルレインの使者が微笑んだ。

カリオン王子は見間違いかと驚いたが、そうではなく今目の前に見ている使者は影では無くなっていた。

「たった今結界を越えました。結界の外では私達は存在感の薄い姿をしていたのではありませんか?多分、今見えている姿が私達種族の本当の姿です。カリオン王子。」

シェルレインの使者は女性だった。

柔らかい話し方からそうではないかと思っていた。しかも若い。普通の人間と似ているが肌が全体的に緑がかっており瞳も濃い緑色をしていた。その風貌から人では無いと直ぐに解る。

「私の名はミーア。シェルレインの兵士です。」

カリオン王子は頷いた。

「幾つか聞いても良いでしょうか?」

「ええ。私の答えられる事ならば。」

「シェルレインの結晶石、とは何ですか?」

ミーアは少し考える間を置いてから答えた。

「貴方がたの御一行がこちらに向かっている事から、訪問の目的がその結晶石にあるだろうと我が殿は言っていました。」

「他の二つの結晶石を合わせて王国の結界を張り巡らす、伝承の秘儀だと聞いています。私には信じ難い事です。」

「そうでしょうね。理解出来ます。」

「その石はシェルレインに存在しますか?」

ミーアは頷いた。あります、とはっきり答える。

「もう一つ、シェルレインではラメイア王国の城が侵略されている事についてどうお考えですか?」

「我が殿は心を痛めています。ラメイアは我等にこの地への定住を保証してくれました。ラメイアとシェルレインは古き友なのです。」

カリオン王子は初めて聞く話だった。

「しかしシェルレインはラメイアの国民では無く王国の義務は負いません。援軍を送る立場では無いのです。」

「そうですか…。」

カリオン王子は黙ってしまった。

ミーアは若い王子が気の毒になって慰めた。

「そろそろ我が殿との謁見の間にご案内します。我が殿に会い、貴方の疑問の全てが晴れますように願っています。」

一面緑の蔦の天蓋に覆われて、奥へ奥へと進んで行く。蔦と樹木が延々と続き、何処からが建物内なのかカリオン王子には分からなかった。植物の気配が濃く呼吸する空気にも緑色の葉が溶け込んでいる様だ。

真下に垂れ下がった蔦の幕を左右に掻き分けて室内へ入ると緑の彫刻が見事な椅子に一人の男性が掛けている。両隣に数人シェルレインらしい緑色の肌を持つ人々が立っていた。幾人かは武装して剣を帯びていた。

「ラメイアのカリオン王子。我がシェルレインの隠れ里へようこそ。ラメイア王に危機が迫っている事、私も承知している。さぞ気掛かりであろう。」

「初めまして。ラメイア王国の王子カリオンです。シェルレイン殿、とお呼びして宜しかったでしょうか?」

シェルレインは頷いた。

「代々シェルレインの最高責任者はこの谷の名前で呼ばれている。シェルレインはこの地であり私自身でもあるのだ。」

さて、とシェルレインは表情を固くした。

「シェルレインの結晶石を使ってラメイア王国の結界を張る事は可能だ。」

「本当ですか?その石はどちらに?」

「これだ。」

シェルレインが右側にいた人物を見ると透明な四角い箱に拳大の石が入れてある。それは灰色の変哲も無い何処にでもある石ころに見えた。

「ラメイア王城の地下、それからもう一箇所、これと同じ石がある。」

「どの様に使えば父上を護る事が出来るのですか?」

シェルレインは椅子から静かに立ち上がった。

「すまないが皆は席を外して欲しい。カリオン王子と二人で話したい。」

シェルレインがそう言うと両隣に控えていた面々は部屋を移動した。最後尾のミーアも静かに黙礼して退室する。

あとに残された二人はテーブル上にある結晶石の箱を挟んで立った。シェルレインが口を開く。

「結界を張り巡らす為の呪文は、ラメイア城の地下書庫にある一冊の書物に書かれているらしいが…。」

「ラメイア城の地下書庫の書物に?」

カリオン王子はどの書物か見当がつかない。ふとセイには解るのかも知れないと考えた。

「三箇所で同時に結晶石を生きさせなくてはならない。今現在この石は仮死状態だ。結晶石に呪文を掛けて命を吹き込むのだが…」

「ラメイア城の地下にも結晶石があります。もう一つの結晶石は何処にあるのですか?」

「すまないが、解らない。」

「そんな!」

もう一つの結晶石の在り処が分からない。

カリオン王子は急に崖から突き落とされた様な気になった。それでは結界など張れない。今にもグレイドンにラメイア城を占領されてしまうのではないか。

シェルレインは心の底から詫びた。

「貴方がラメイア王国を救おうとここまで旅をして来た事には報いたいと思うが、生憎我々にはこの石しか残されていない。シェルレインには他の事は何ひとつ伝承として伝わっていないのだ。申し訳ない。」

緑色の顔に苦痛を浮かべてシェルレインは謝罪した。

「いいえ…。ありがとうございました。」

カリオン王子は礼節を欠くまいと辛うじてそれだけ言った。だが落胆が大き過ぎる。思わず両手で顔を覆っていた。

暫くじっと気持ちが落ち着くのを待つ。

ようやく顔を上げてシェルレインを見ると、彼は言った。

「カリオン王子。裏切り者がいるかも知れぬ。だが、探してはならぬ。」

「それは…どういう意味ですか。」

シェルレインは眉間に皺を寄せた。

「君たちの一行全員をここへ通さなかったのは誰かが裏切り者だと報告があった為だ。そしてシェルレインの者も全て信頼に足る訳では無い。秘かにグレイドンと情報を交換している者がいる。」

「何かご存知なのですか?」

「気付いていない様だが君たちの背後からグレイドンの兵士が尾行していた。」

「私達の後ろから?」

カリオン王子は動揺していた。

「それが何故裏切り者のせいだと?途中でグレイドンの見張りの兵士に姿を見られてここまで尾行された可能性もありませんか?」

「ヤードネムル城を出発した時は尾行はいなかった。シェルレインの近くで予め待ち伏せていたらしい。君たちがシェルレインへ向かうと知っていた者は誰か。その者は信用出来るか?」

カリオン王子はフリオールの顔を真っ先に思い浮かべた。カリオンの部下達は目的地がシェルレインだと始めは知らなかった筈だ。

「分かりません…私には…。」

問題無く物事が進んでいたと思っていたのが急に足元が危うい場所に立っている気になる。

「ラメイア王国は危機に直面している。気を緩めていては命は無い。」

シェルレインの言葉が重く響いた。


カリオン王子はシェルレインとの会談を終えて考え込んでいた。次にどうするか他の者と相談したいが、裏切り者の事が気になって考えが纏まらない。

レイナスはどうしているか、ふと弟王子の事が気になった。自分の無力感を感じて急に弟王子に頼りたくなったのかも知れない。気の強いレイナスがここに居たならどんな決断をするのだろうか。

ミーアがやって来て言った。

「カリオン王子。少し休まれますか?」

カリオン王子は首を振った。

「いや。今すぐ部下達と合流します。また帰り道の案内をお願いします。」

そう言って側近達や司書フリオールの顔を思い浮かべて、急に閃く物があった。フリオールがカリオン王子をシェルレインへ送り出す時に紙切れの様な物を秘かに握らせていた。カリオン王子は胸ポケットに入れっぱなしだった紙切れを開いて見た。

【ラーナレインの叙事詩 第三巻 ラメイア王国建国譚 最終章】

「カリオン王子?」

ミーアが心配して顔を覗き込む。

カリオン王子は頭の中で必死でこのメモの意味するところを考えていた。

「ミーア殿。一つ聞いても良いでしょうか?」

「え、ええ。どうぞ…」

「ラーナレインという言葉に聞き覚えはありますか?」

ミーアはしっかりと頷いて言った。

「ラーナレイン様はシェルレインの地に定住した我々の一族の始祖と言える方です。ラメイア王国と盟約を交わし、一族の中でも並外れて魔力が強かったと言われています。」

「シェルレイン一族の…始祖ですか。」

この紙切れをセイに渡してみたら彼は何を書き写すのだろうか。早くフリオールにこれは何か確かめたい。おそらく結晶石の解放の呪文が書かれているのだろう。

シェルレインの指摘した裏切り者の存在も気になるが自分の側近達や司書のフリオール、神がかった能力で危機を救ったセイ、誰も裏切り者だとは思えない。

そこまで考えてから、カリオン王子はセイの同行者として付いて来た娘の存在を思い出した。もしやあの娘が裏切り者だろうか。

不意に、裏切り者を探してはいけないと言われた言葉を思い出した。しかし探すなと言われても無理な話だ。聞いた以上どうしても周りの人々を疑ってしまう。


ミーアの道案内のもと仲間達と別れた場所まで辿り着く前に、カリオン王子は遠くからその辺りの異変に気付いていた。血の匂いが微かに漂っている。だが人の声は聞こえない。やけに静かで不安になる。

「ミーア、急いでも良いですか?」

「承知しました。行きましょう。」

影の様なミーアの後ろを全力で走った。息が上がって苦しいが早く皆と合流したかった。

カリオン王子が皆と別れた辺りに辿り着くと周囲に戦闘の跡が生々しく残っていた。

「大丈夫か?!」

胸が早鐘を打っている。一番近くでうつ伏せになって倒れている人物を抱え起こした。既に息絶えて冷たくなっている。彼はまだ若い兵士だった。里では両親も帰りを待っている筈だ。

影の様な姿になったミーアも倒れた兵士達を見て回った。生存者はいないか確認する。

視界の端で動く人物の姿を捉え、慌てて駆け寄った。

「ウッズ!無事か?!」

「王子…申し訳ありません…。」

唯一見つかった生存者が従者のウッズだった。他に生きている者はいないか確認したが見当たらない。王子の側近達が深い傷を負って幾人か絶命していたが、フリオールとセイ、セイの連れの娘の三人は姿が無い。

「すまない。ウッズ、喋れるか?何があった?」

「グレイドンの兵士に囲まれました。あっという間にやられて…為す術なく…」

「それで?ここに居ない者達は何処へ行ったか分かるか?」

ウッズは首を振った。

「騎馬の者も幾人かいましたので…上手く逃げたかも知れません。」

「フリオールとセイは?」

「グレイドンの兵士に連れていかれました。」

「それは…二人を連れ去る事が目的だったという事か?そんな事は…」

カリオン王子は他にも聞きたい事が山ほどあったが、ひとまずウッズの治療をしなくてはならない。ミーアにシェルレインに戻って治療出来るか聞くと承諾してくれた。

「では一旦引き返そう。ウッズ、助かるぞ。」

「王子…お耳に入れておきたい事があります。グレイドンの兵士の中にレイナス王子がいました。しかも我々に向かって攻撃を加えてきました…」

そこまで一息に言うと力尽きたのかウッズは目を閉じて動かなくなってしまった。

カリオン王子は酷く動揺していた。グレイドンの兵士の中にレイナスが居たという。そんな事は有り得ない。他人の空似では無いのか。

「急ぎましょう。さあ、王子。」

ウッズの言葉に困惑して考え込むカリオン王子の腕をミーアが支えて立ち上がらせた。

残念ながら他に息のある者は居なかった。痛みに顔を顰める従者ウッズを何とか支えてシェルレインへと引き返した。


ラメイア城付近の敵兵野営地では、ハリオットに指示を受けた別働隊の夜襲が始まった様だ。就寝中だったグレイドン軍の一角で蜂の巣をつついた様な騒ぎが起こった。怒声や罵声が飛び交い、離れた場所で息を潜めていたハリオット達にもその混乱ぶりが伝わって来る。

だが今は混乱していてもラグナレン軍は夜明けには体勢を整えて夜中の襲撃者を返り討ちにしようと反撃に転じるだろう。ノーラン隊長率いる夜襲部隊の安否が気遣われた。

ハリオットは予定通り地下通路を進んだ。薄暗く天井の低い通路を数人の兵士達を連れて用心深く行く。残りの援軍は一旦林の中で待たせて、数箇所ある地下通路の出口を内側から開けて夜のうちに城へ入城させる。素早く行動しなくてはグレイドン軍に気付かれてしまう。もたもたしていられない。

「ハリオット様。」

「何だ、どうした?」

「分岐になる通路ですが…この地図と異なっていませんか?」

ハリオットはフリオールに託された地下通路の地図を見た。セイの手に寄って描かれた地図はカリオン王子を救った命綱でもある。ハリオットにとっても験担ぎ的存在になっている。

「この分岐の先は、何処へ繋がっている?」

「アイルデン領と目と鼻の先です。」

「ザライ殿の所領か。レイナス王子が向かった可能性があるな。」

ハリオットは些細なこの異変がやけに気になった。戦時ではほんの僅かな違和感も見逃すと後々重大な過失へと膨れ上がって行く事があるものだ。小石一つをうっかり転がした先に山崩れが起こる。思いも寄らない事態も先を読んで行動しないと、少しの油断が命取りになる。

「この出口から入ろうと待機している隊が居たな。」

「はい。100名程が山中で待機している筈です。」

「嫌な感じがする。この隊を移動させて別の脱出口から入る様にする事は可能か?」

「伝令を急がないといけませんがやってみます。」

「よし。頼む。」

早速、足の早そうな兵士に伝令を申し付けた。命令を受けた兵士が闇へと消えていく。

「さて、我々は通路を進もう。城へ辿り着くまでもう後半分くらいだ。」

そう言うとハリオットは兵士達を率いて暗い地下通路を進んで行った。


ラメイア王は胸騒ぎがして見張りの兵士と共に起きていた。既に夜が深まり翌日に変わった所だ。

「王よ。交代でお休み下さい。身体が持ちませんよ。」

「マザルクか。寝ていられないのだ。」

「無理にでも床へ押し込めますよ。」

将軍マザルクは武人らしくにやっと笑って言った。彼自身も数日寝ていない筈だが全く疲れを感じさせない。昼夜問わずに動き回っている。全く頼もしいとラメイア王はマザルクを高く買っていた。

「では、何か異変があれば知らせてくれ。」

ラメイア王は寝室へ引き上げた。

王妃メリルデアも先に仮眠していた。連日の緊張のせいか疲労の色が寝顔にも見られる。

ふとラメイア王は地下から聞こえる物音に気付いた。遠く離れた場所から何かの振動が響いてくる。

城壁付近のマザルク将軍には地下と離れているため聞こえないだろう。慌てて地下へ様子を見に行こうとすると、起き上がった王妃が右手を掴んでいた。普段では考えられない様な強さで掴まれて王も思わずたじろいだ。

「ご一緒します。」

王は物音はラメイア兵の援軍か、或いはグレイドン兵が地下から侵入してきたのか、どちらかだと考えていた。味方なら問題無いが、敵だった場合は危険だ。王妃は安全な場所に居た方が良い。

ここにいなさい、と言うつもりが王妃の視線に射抜かれてたじろいだ。王妃からも戦時中の覚悟が伝わって来る。折れたのは王の方だった。

「地下だ。行くぞ。」

王と王妃は地下通路への道を下って行った。

「こちらです、王。」

王妃メリルデアは脱出口への通路ではなく反対の通路を指し示した。

「王妃よ。そちらは結晶石の間ではないか?」

「はい。石に異変が有るのかも知れません。」

「ならば、参ろう。」

王は石造りの真四角な部屋へ入った。中心に台座があり結晶石が化粧箱に入れられている。

「ここから聞こえる。」

ラメイア王の言葉に王妃が頷いた。

結晶石を見てみると耳鳴りの様な鳴動が微かに響いている。だが王室で感じた振動とは違う種類の音だ。

「どちらかが結晶石を持っていた方が良いかも知れぬ。ここに置いておいて盗難に合わないとも限らない。」

「持ち歩く方が危険では無いですか?」

王と王妃は顔を見合わせ息を詰めていた。

「どちらかが…王か、私か。」

王は頷くと台座から結晶石を持ち上げて手に取っていた。


二人組で伝令に走って来たヤードネムルの若い兵士達は、アイルデン領近くの隣り街ノルキアへとやって来た。全速力で馬を飛ばして辿り着いたノルキアの小屋は異様な事態になっていた。

「馬鹿な。」

「グレイドンの兵が包囲している。」

二人のいる少し離れた場所からでも解るほどの大軍だった。圧倒的な戦力を前にして恐怖し足が震える。早くハリオットに知らせなくてはならない。自分達もここでぐずぐずしていて敵兵に見つかってしまえば命が危ない。

「戻るぞ。急げ。」

二人は音を立てない様に気を付けつつ全速力で駆けていった。

「ヤードネムルの別働隊はどうしているだろうか。ノルキアの小屋は危険だから近付くなと伝えなくては…」

「闇夜の捜索になるな。百人は下らない中隊だ。我々が見つけて危険を伝えるのが先か、グレイドン兵に見つかるのが先か…」

ここへ辿り着く迄にはヤードネムルの別働隊の姿を見掛けなかった。ノルキアの地下入口から城へ入るつもりなら、この位置からそう離れて無いだろう。

グレイドン軍から充分離れた所で二手に別れた。お互いの無事を祈る。ハリオットと別働隊にそれぞれグレイドン兵の存在を知らせなくてはならない。


司書長フリオールとセイ、そしてマレノはグレイドン軍の駐屯地にある天幕の一つに囚われていた。三人とも後ろ手に紐で縛られている為、自由に動けなくなっている。床に背中合わせで座らされたままだ。警備は比較的緩く、天幕の入り口で兵士が一人見張っているだけの様だ。

三人で見張りに聞こえない様に用心深く小声で話す。

「カリオン王子がご一緒でなかったのは不幸中の幸いでした。」

フリオールの言葉に残りの二人は頷く。

「でも…他の兵士達は無事でしょうか。かなり激しい戦いだったと思います。それも…一方的な…。」

マレノが心配そうにカリオン王子の側近達を気遣った。フリオールは返事を避けたが恐らく皆斬り殺されてしまったのではないかと思っている。グレイドン兵は容赦無く我々に襲いかかってきた。攻撃は苛烈だったしあっという間でもあった。日頃から実戦経験に乏しく訓練中心だったカリオン王子の側近達は為す術なく倒れてしまっただろう。

「それにしても、何故我々は生かされて捕らえられているのか。疑問に思います。」

フリオールが呟いた。

セイもそれは考えていた。

グレイドン兵達は明らかにセイとフリオールを除く兵士を相手に剣を振るっていた。戦闘の途中で文官は生かしておけと話し合わせていたのも聞こえた。明らかに武装していなかったから相手にされなかったのだろうか。

「レイナス王子が指図したのだろうか。」

「私にはレイナス王子も囚われの身に見えました。後ろの方でちらっとお姿が見えただけですけれど。」マレノが言った。

「カリオン王子もあの場に居たら…囚われの身になっていただろう。いや、命が危なかった可能性もある。」

フリオールの冷静な指摘に皆の心が冷やりとした。

レイナス王子がグレイドン軍に人質として捕らえられている。現在ラメイア城で交戦中の王や王妃がそれを知ったらどうするのだろうか。

「多分、ラメイア城へは未だレイナス王子が人質になっているとは知らされていないはずです。ラメイア王がそれを知れば降伏するか停戦を申し出るでしょう。王子を救おうとするはずです。」

セイはラメイア王国が降伏した後の事を想像した。グレイドンに支配され人々は奴隷並みに扱われ重税に喘ぐ。自由も誇りも奪われ祖国を無くした民になる、いや、グレイドンに併合されてしまうのだろうか。

フリオールは溜め息をついた。

「レイナス王子を早急に奪還する事が必要です。誰かにこの事態を知らせて助けを求める事が出来れば良いのですが…」

「セイ。何かない?」

え?急に何かと言われても焦ってしまう。

セイの考えが纏まる前にマレノが突拍子も無い事を言う。

「地下の本の中で助けを呼ぶ方法が書いてある物は無いの?」

「ああ。それならシェルレインの結晶石を使った…」

「セイ!いけない!」

フリオールの厳しい静止にセイ本人とマレノが同時にびっくりして驚いた。

王国の司書長は声を顰めて言った。

「セイ。貴方の知識の蓄積は並の人からすれば奇跡とも言える量です。そして今まで指摘していなかった事ですが、その内容も国家機密に相当する貴重な物です。」

俯いていたセイが首を跳ね上げた。驚いてフリオールを見ると司書長はセイの眼を見てしっかりと頷いた。

「簡単にグレイドン軍に渡してはならない情報も有ります。例えば城の地下通路の地図、と言えば分かりやすいでしょう。」

マレノはなるほどと思った。セイがさらさらと描いて見せた地図は国家機密だったのか。確かに敵国に渡っては自由に城内へ侵入されてしまう。

フリオールはここまで話して、この先を語るのを思い留まった。

一つの可能性としてグレイドン軍の目的がセイの書の記憶かも知れないと薄々考えていた。だが荒っぽいグレイドン軍の手に掛かればこの青年はどの様な仕打ちを受けるか解らない。拷問されてあらゆる書を描く事を無理強いされるかも知れない。

フリオールは自分と前司書長ガラルの指示でセイにあらゆる書を見せた。その全てを彼が正確に記憶する様を見るのは二人の上司にとって未知の興奮だった。セイの限界は何処までなのか学者的好奇心がそそられ、次々に書を記憶させた。だがその結果、彼はこの先に窮地に追い込まれ危険に晒されるかも知れない。

「セイ。すみません。」

フリオールはその言葉を口に出せなかった。

黙りこくってしまったフリオールにセイも何か慰めようと言葉を探したけれど見つからなかった。

三人それぞれが自身の物思いに入り始めたその時、入り口から幾人かのグレイドン兵がやって来た。

「フリオール様、セイ殿、そしてマレノさん。私はここの駐屯地を預かるラグナレン軍団長ナバードです。初めまして。」

正面に立つ男が名乗った。後ろに控えている兵士らは威圧的に三人の囚人を見下ろしている。屈強そうな体躯の兵士らに守られ先頭に立つナバードは将軍と言うよりは文官の様に細く薄い身体の持ち主だ。見た目だけならセイの力でも押え込む事が出来そうだ。

その後ろに立つ背の高い男にセイは見覚えがあった。グレイドン軍兵士の制服を隙なく着こなしている。この場ではナバードの次に階級が高そうに見えた。だがセイは敢えてその男から視線を逸らし知らぬ振りをする。

そこへ後方から兵士らに両腕をがっしりと羽交い締めにされたレイナス王子が無理矢理引き摺られて来た。

「離せよ!逃げないからその手を退けろ!」

両脇の兵士に悪態をつく王子を、ナバードは嘲りを含んだ声音で窘めた。

「レイナス王子。一国の王子らしく、大人しくして頂けますね?そうでなくては我々も何をするか分かりませんよ。腕の一本二本を折る事など何でもない血の気の多い兵士はこの駐屯地に幾らでも居ります。」

レイナス王子は青ざめて黙ってしまった。

フリオールは王子に同情した。無理に気勢を張っているが未だ十五歳の少年なのだ。自らの立場も王子なりに解って居るだろう。

そこへ唐突に明るく語り掛ける者がいた。

「レイナス王子。ご無事な姿を見る事が叶って嬉しく思います。」

セイが急に発言をして、その場の全員がぎょっとした。求められてもいないのに下位の者が自由に口を開くのは不敬だとされている。そうでなくても囚われの身で普通は余計なお喋りはしない。

だがレイナス王子にはセイの言葉が本心から思わず湧き出たものだと伝わったらしい。

自分の無事を喜んでくれる者が居たという事実が単純に嬉しかった。

レイナス王子はグレイドン軍に捕らえられた自分を恥だと思っていた。ラメイア城で戦う父王に顔向けが出来ない。このまま交渉の材料にされて無条件降伏でも迫られたらどうしようか。ラメイアの国民は第2王子がいっそ自害でもした方が良いと考えたりはしていないだろうか。

捕まってからぐるぐると最悪の事ばかり考えていた。

そこへ久しぶりに心の通った言葉を掛けて貰えた。悔しいけれど寄りによって書戯役のセイに気遣って貰えるとは思わなかった。だが素直になれないレイナス王子はぷいと横を向いて言った。

「ああ。ぴんぴんしている。」

つい、いつもの癖でぶっきらぼうに憎まれ口を叩いた。若い囚われの王子が少し気を取り直したのを見て両脇の兵士が腕を握る力に圧力を加える。痛みで気持ちを挫こうとする地味で卑怯なやり方に王子も負けずと睨み返す。セイのお陰で王子らしい気の強さを取り戻した様だ。

「顔合わせは充分ですね。」

ナバードが一同をゆっくり見回して言った。

「見ての通り、レイナス王子とラメイアの皆様は人質になって頂きましょう。王子は我が軍の元で丁重にお預かり致します。貴方がた三人はグレイドン本国へ輸送する手筈になっていますので。」

囚われたラメイアの四人の顔色が変わった。

「戦局がどうなるか解りませんが、一旦国を離れれば故郷ラメイアへ帰る事は諦めた方が良いでしょう。最もラメイア王国そのものが滅んで無くなってしまうかも解らない状況ですが。誠にお気の毒です。」

では、と言ってナバードは兵士らを引き連れて帰って行った。レイナス王子も両脇を拘束されながら退出して行った。

グレイドンへ輸送されると聞いてフリオールは絶望が深まった。だが何の目的があってそうされるのか見当もつかない。レイナス王子には人質としての価値があるが自分達三人は何故生かされているのか。疑問が晴れない。

全員退出したと思っていたが、顔を上げるとグレイドンの兵士の一人が天幕に残っているのが見えた。ナバードのすぐ後ろに立っていた背の高い男だ。三人をじっと見ている。

「顔馴染みの者も幾人か見えますね。久しぶり、と言いましょうか。」

グレイドンは男の言った言葉の意味が解らなかった。少なくとも自分は初対面だと思う。

背の高い男の顔を改めて見た。微かに記憶にある人物という気がしたがいつ会ったのか全く思い出せない。

「ラメイア王国の書を司る方、フリオール様。以前私はラメイアの王城でお世話になった事があります。その頃はグレイドンと友好的な関係でしたので心良く食客として受け入れて頂けました。その節は感謝しております。」

フリオールは思い出した。数年前にラメイア王国の地下にある書を見たいと言っていた男だ。確か当時の司書長ガラルと相談して地下へ通す事は許可しなかった筈だ。

あの頃からラメイアへの侵攻を計画していたという訳か。城の地下や文書を調べて情報をグレイドンに持ち帰ろうとして潜入したのだろう。フリオールはグレイドン軍の周到さに気付き今更だが悔やんだ。

セイは背の高い男から目を逸らした。威圧的な兵士は苦手なのだろうとフリオールは慮る。

「私はザイオンと申します。グレイドン本国へ貴方がたをお送りする責任者です。乱暴な真似は致しません。」

フリオールは気になっていた事を聞いた。

「レイナス王子はどうなるのですか?」

「王子はここのグレイドン軍と残ります。私もそれ以上の事は聞かされていないので。」

暗にこれ以上聞いても無駄だと会話を遮られた。

「ザイオン、貴方は味方?」

マレノが唐突に聞いた。背の高い男をじっと見ている。

「どうしてそう思うのです?」

「直ぐに私達を処分しないから。」

「この駐屯地に居ては貴方がたの価値は有りません。人質にもならないでしょう。しかし、グレイドン本国では違う。」

ザイオンはフリオールとセイを順番に見て言った。

「グレイドンでは伝承、叙事詩、歴史書などの知識を形に残す技術が無いのです。書を残し保存し管理する者は貴重です。」

「では我々にグレイドンの司書になれと言うのですか?」

「その通りです。フリオール様。セイ殿の頭に有る数々の書の記憶も含めて我々には必要なのです。ああ…」

ザイオンは苦笑いを浮かべて言った。

「勘違いをしないで頂きたい。カリオン王子の兵士らを襲撃したのは貴方達を誘拐する事が目的では有りません。カリオン王子が何か企んでいる様なのでそれを阻止する事が目的でした。生憎と王子は取り逃してしまったらしいですが…。運の良い方です。」

「では、私達が助かったのは?」

「私がグレイドン軍団長ナバード様に頼んだからです。文官と娘を私に下さい、とね。」

では出発は明朝です、と言ってザイオンは立ち上がり短剣を取り出した。

「何をする気だ!」

身動きの取れない三人の背後に回って短剣を突き立てた。

「娘は預かります。」

フリオールとセイの縄をそのままにして、マレノの縄を解き手首を自由にした。有無を言わさずマレノの両肩を強引に抱き天幕を出ようとする。

「待って!私はここに残る!」

暴れるマレノの口を乱暴に押さえてザイオンは天幕を去って行った。マレノを連れて行くまであっという間だった。

後に残されたセイは何が起こったのか解らなかった。

「彼女だけ…連れていかれてしまった…」

フリオールも呆然と天幕の入り口を眺めていた。


カリオン王子はミーアと共にシェルレインの中心地に引き返した。

「従者が負傷している様です。治療して頂けないでしょうか?」

治療室に駆け込んで二人で肩を貸し、ウッズを寝台に横たわらせた。治療師が怪我の様子を見て頷いた。

「命に別状は無さそうです。シェルレイン秘伝の治療薬を使えば直ぐに治るでしょう。」

大事無いと解りカリオン王子はほっとした。

「カリオン王子。シェルレイン殿から話があるそうです。」

「分かりました。治療師殿、よろしくお願いします。ウッズ、今は身体を治すんだ。よく休むんだよ。」

カリオン王子は一礼して治療室を後にした。

シェルレインはカリオン王子の渡した紙切れを握って何事か考えていた様だ。眉間の皺を深く寄せている。

カリオン王子はランデルから貰ったメモを最初の出発前にシェルレインに渡していた。シェルレインならば何か思い当たる事があるかも知れないと託したものだ。

「カリオン王子。無事で良かった。」

「いいえ。私の部下達の多くが亡くなりました。彼等にもその家族にも何と詫びたら良いか…。私の責任です。」

「王子、今は戦争状態なのだ。人の死は避けて通れない事もある。」

戦争だからと人の命を諦めなくてはいけないのは残酷だ。だが今はそんな事で迷っていては前に進めない。自分はやはり書に親しむ父ラメイア王の子供らしい。いつまで経っても武力や荒事に慣れない。

「カリオン王子。これからどうなさるおつもりですか?」

ミーアが問うた。

「従者の事は心配無い。動ける様になるまでシェルレインで預かろう。」

「ありがとうございます。私は…、」

一瞬迷った後にカリオン王子は答えた。

「レイナスを探そうと思います。弟に真意を問いたいので。」

「なるほど…。真意、とは?」

「ウッズが言っていました。レイナスは私の兵士達に向かって剣を振るってきたそうです。私はレイナス本人に何故味方を斬ろうとしたのか問わなくてはなりません。」

「カリオン王子。貴方は危険に自ら飛び込んでゆくつもりですか?レイナス王子が裏切ったとすればグレイドン軍と弟王子に挟み撃ちにされ生きて帰る事が出来ないかも知れません。」

カリオン王子は両脇の拳を握りしめて言った。

「そうなれば私の命運も尽きたという事です。覚悟は出来ています。」

嘘だった。

カリオン王子はレイナス王子が裏切ったとは思えなかった。義理の弟は短気な所もあるが真っ直ぐな気質だ。祖国を裏切る様な性格では無いのをカリオンは知っている。

敵地に乗り込んでどうするか。自分の様に剣の訓練をまともに受けていない無能な者に何が出来るのかと不安に思う。

だがこのまま弟と離れるのは納得出来ない。自分もレイナスもいつ命が尽きるか解らない。仲違いしたままは嫌だった。

シェルレインは真剣に頷いた。

「他の同行者達はどうされますか?上手くあの場を逃げたかもしれない兵や、文官と少女は?」

カリオン王子は首を振った。

「捜索している時間が有りません。レイナスが援軍を要請していなければ、ラメイア城は半月も持たないでしょう。かと言って、レイナスのお祖父様であるアイルデン領主のザライ様は私が頼んでも援軍に応じて頂ける可能性は低いと思います。」

「なるほど…。」

シェルレインは相槌を打ち、言った。

「ラメイア王を救うにはザライ殿の援軍、結晶石による結界、さてどちらを優先させるべきか…」

「どちらも必要な事です。並行して準備しなくては手遅れになるでしょう。」

ミーアが心配そうに言った。

「ラグナレン軍の駐屯地に潜入でもするおつもりですか?」

「レイナスを助けるにはそうするしか無いと思います。上手くいくか分かりませんが…」

「では、私もお手伝い致します。」

ミーアがにこりと笑って言った。

「ミーア…、どれほど危険か解っているのか?」シェルレインの言葉にミーアが応えた。

「はい。それでも行きます。お父様。」

「え?」

カリオン王子は驚いた。ミーアはシェルレインの娘らしい。

「解っているなら良い。シェルレインの兵士を数人連れて行くと良い。気を付けて行け。」

「ありがとうございます。行ってきます。」

ミーアが頭を下げてから退出すると、カリオン王子も後を追った。


ラメイア王の耳に段々と大きくなる物音が聞こえてきた。それらは始めは遠くから聞こえていたが、今ではかなり近付いていた。敵か味方か解らないが間違いなく大勢の足音に違いなかった。

「メリルデア、急ぐぞ。」

万が一敵だった場合は多勢に囲まれて王と王妃の命は無い。地下の秘密を護る事を優先してしまったため二人で降りて来たのは間違いだったかと悔やむ。結晶石は敵の手に渡す訳にはいかないがラメイア王が死んでしまえばその存在価値を知る者が居なくなってしまう。

「あれはノルキアの脱出口の方角から聞こえて来ます。アイルデン領主の援軍、という事は無いですか?」

王妃が青ざめて聞いた。

「そうであれば良いが…」

ひとまず結晶石の間を出て護りの堅い城内まで辿り着かなくてはならない。急いで元来た通路を引き返す。そんな緊張の只中に突然横路から声を掛けられて二人は足が止まった。

「待て。」

嗄れた低い老爺の声だった。ラメイア王には声の主人に心当たりがある。こんな時に最も会いたくない人物だ。

「バルドル殿…」

地下に住まう闇の術師だった。今は両手首にそれぞれ封印索をしているため術は使えない。

バルドルは堅い鉄の格子がはめられた冷たい牢屋の向こうから語りかけてきた。低く嫌な響きの声だ。

「グレイドンの同朋が城まで来ているらしいの。懐かしい限りだわ。」

「貴方を引き渡す訳にはいかない。私には父である前王と交わした誓約があり、バルドルを自由にしてはいけないと固く言い含められている。」

バルドルはふふっと笑って言った。

「そんな誓約はもう何の役にも立たぬ。今私を解き放ってみろ。万を数えるグレイドンの兵士を一瞬であの世へ送ってみせる。この力を欲しくは無いか?」

王の気持ちは揺らいだ。だが首を横に振る。

「それと負けないくらいの同等の力を我々は手にしている。お前の助力など不要だ。」

「いけません。バルドルと話をするのは危険です。」

王妃メリルデアは王がつい喋り過ぎているのを止めた。ラメイア王は危険が迫っている為に焦って冷静な判断が難しくなっている。バルドルは魔力を封じられた今の状態でも相手の精神を操る事は出来る。少し言葉を交わしただけのラメイア王も既に気持ちが追い詰められている。闇の術師の力だった。

「そうか…ならばラメイアに助力するのは辞めにしよう。」

「バルドル殿。この戦は我が国の敗色が濃厚だ。」

「結晶石を使ってもかな?」

「結晶石の結界を張れれば形勢は逆転出来るかも知れぬ。だが古い術だ。ラメイア王家の者以外で知る者は誰も居ないうえに私も未だ使った事の無い術など現実に存在するのかどうか…。」

「地下の書を正しく読み解けば出来る筈だ。」

王は首を振った。

「書に詳しい司書らはこの城から逃がした。知識の保存の為にそうした方が良いと思ったのだ。」

その時、音が一段と近付いて聞こえた。

王は王妃の手を取り、牢屋の中のバルドルを見た。逃がすべきかどうか躊躇する。

その時バルドルが両眼で静かに王を見た。

ラメイア王は自分の判断が間違っているかも知れないと思いつつ、咄嗟に行動してしまった。牢屋の鍵を開けたのだ。

「好きにすると良い。バルドル。」

ラメイア王は後ろを振り返らずにその場を急いで去った。


すぐ先の通路を曲がると城へ向かう上り階段になる。そこまで行けば安全だという所で走り寄って来る荒々しい足音が近付いた。

グレイドンの兵が狭い通路の向こう側から次々と押し寄せて来た。ラメイア王は王妃の手を離して剣を握り締めた。覚悟を決める。

「ここからラメイア城だ。遅れを取るな!」

「一気に駆け上がれ!ラメイアも中から攻めて来るとは思うまい。行くぞ!」

血気盛んな声が次々と聞こえてくる。

「グレイドン兵だ。万事休す。」

ラメイア王は王妃を上り通路の先に行かせて自分は盾となる。

「王も!早く!」

王妃メリルデアの悲痛な声を背後に聞き、とうとう相手兵に追いつかれた。

「居たぞ!ラメイア兵だ!」

「女も居る!もしや王と王妃か?」

ラメイア王は慣れない剣を構えて大振りに振り回した。

「覚悟せよ!相手になってやる!」

ラメイア王は軽率に地下へ下って来た事を後悔していた。後は息子達に託すしかない。今は生死も解らないカリオン王子とレイナス王子にラメイアの未来を委ねた。そして自身の敗れ被れの最期の戦いに身を投じる。その時だった。

「王!ここは俺達に任せて早く上へ!」

「マザルク!助かった!」

うぉぉおーと叫びながら武装したラメイア兵を連れた将軍マザルクが現れた。最初の一太刀で先頭のグレイドン兵を薙ぎ倒し、返す剣で次々と兵を切り倒して行く。通路にグレイドン兵士の動かぬ人垣が積み上がる。次に迫る相手兵の足を止めて隙が出来たその時だった。

「くそ!これでも喰らえ!」

グレイドンの兵士が破れかぶれで投げた短剣があろう事か王妃メリルデアの背中に突き立った。

「メリルデア!」

王妃はその場で崩れて倒れ動かなくなった。ラメイア兵らにも動揺が走り攻勢だった動きが鈍る。それでも将軍マザルクが全体を立て直した。

「王をお護りしろ!兵士数人来て王妃様を運べ!早く!」

「は、はい!うわぁ!」

グレイドン兵が自軍の兵を掻き分けてどんどんと登ってきた。

「将軍!撤退します!早く引かないとここは危ない!」

「やむを得ん!王!お早く!」

将軍マザルクやラメイア兵が王妃を抱えて行こうとするもグレイドン軍に取り囲まれてしまう。あっという間に王妃の側にいた二人が切り倒された。

「メリルデア!」

「駄目です!王だけでもお逃げ下さい!」

将軍マザルクに腕を引かれて無理矢理地上へ連れて行かれる。

「誰か!王妃様をお助けせよ!」

混乱を極めた地下通路に怒号が響く。

将軍マザルクと側近達は王を伴って通路を上り、堅い城門扉まで辿り着くとグレイドン軍を押し戻してバタンと閉めた。

「直ぐに扉が破られるぞ!兵を集めよ!地下よりグレイドン軍の奇襲だ!」

将軍マザルクの号令で周辺のラメイア兵の緊張も頂点に達し城内は慌ただしさに包まれた。


「先頭は上手く城まで辿り着いた様だな。ラメイア兵は思いがけない奇襲に遭って慌てふためいて居るだろうよ。」

「しかし地下通路というのは進み辛いな。どうしても軍が長く伸びてしまう。早く全軍集まって一斉攻撃しなければ。」

後方でやきもきしていたグレイドン兵士がぼやいた。その最後尾の彼等の足元へぱらぱらと小石が転がってくる。

「ん?何だ?」

小石が転がって来る先を見上げると、今度は両手を拡げた位の大きな石塊が落ちてきた。通路は狭く前方はグレイドン兵で詰まって居るので逃れられない。

「うわあああぁー!」

転がる石塊の勢いは増し、容赦なくグレイドン兵士を薙ぎ倒して行く。人の壁に当たり石塊は砕け散り土煙が通路中に広がった。近くに居たものは土煙を吸って激しく咳き込んだ。薄暗い通路の視界が全く効かなくなり、辺りの兵は恐慌に陥った。

「何だ!前が見えないぞ!」

「おい!進め!後ろの通路が行き止まりになった。」

「押すな!落ち着けお前ら!」

そこへ追い討ちをかける様に遠くから悲鳴が届いた。

「何だ?何処から?」

暗い地下通路には逃げ場が無い。

攻勢だと思ったグレイドン兵は今は絶望的な状況に追い込まれていた。


伝令に走った二人のヤードネムル兵士は十分に任務を果たした。

「ハリオット様。グレイドン兵が見えました。ノルギアから地下通路を通って城内へ進むつもりですね。」

ハリオットの部下が報告する。

「良いだろう。後ろから襲撃する。通路は狭い。気を付けよ。」

ハリオットは最前線の兵には十分注意する様に言って送り出した。だが城までグレイドン兵を無傷で通す訳にはいかない。ラメイア王を助けるにはこのグレイドンの一隊をどうにか足留めしなくてはならない。

「ノルキアから入った通路には土塊を転がして道を塞いでおきました。ノルキアの脱出口付近にいたグレイドン兵士は土くれに埋もれているでしょう。」

「良し。逃げ道を絶ったな。」

「我が軍の別働隊が直ぐに動いてくれたのは不幸中の幸いでした。彼等はノルキアの小屋からラグナレン軍が侵入するのに気付いて慎重に動向を見張って居たようです。地下通路を通るのは危険だと判断して地上で様子を伺っていました。そこで土塊で出口を封鎖する事を思い付いたのでしょう。これでグレイドン兵には逃げ場がありません。」

「本来なら我々の隊と一緒にローデリアの森から地下通路に入るつもりだったが…ノルキアでグレイドン軍を阻止出来たのは良かった。後は城内にみえるラメイア王が地下通路のグレイドンに気付いて反撃して下されば我々の兵と王の城兵で地下のグレイドン兵を挟み撃ちに出来る。」

「そうですね。ひとまず我々は兵を進ませましょう。」

「早く王をお助けせねばな。」

ハリオットと部下は頷き合って地下通路を進んで行った。


ハリオットと配下の兵は地下通路のグレイドン兵士を押し返しながら城内を目指し進んで行った。何しろグレイドン兵がずっと連なっているので道に迷わなくて済んでいた。

ハリオットは順調過ぎて少し不安を覚えていた。戦時中に指揮官として注意深くなるのは当然だ。ハリオットは臆病になっている訳では無いと自分を奮い立たせた。

「そろそろ城の真下へ辿り着く。前線は交代しながら無理せず進め。」

前方で激しい戦いがあった様だ。一際甲高い叫び声が長く尾を引いて聞こえた。

ハリオットは何事か訝しく思った。

今の叫び声は訓練されたグレイドン兵士らしくない取り乱し方だった。何が起こったのか様子が解らない為に不安が増す。

間もなくその理由が解った。


狭い通路中に夥しい数のグレイドン兵士が積み上がって亡くなっていた。剣による傷は見当たらず、死者の顔は皆恐怖に歪んでいた。

「…何があった?」

ハリオットは思わず身震いした。

部下が前方を指差して緊迫した声を張った。

「ハリオット様!前方に生きている者の人影が。こちらへ向かって歩いてきます。」

ハリオットはその男を見た。ぐったりとして動かない女性らしき人物を右腕で抱えている老爺だ。ハリオットは女性に見覚えがあった。

「メリルデア…何故?」

ゆらりゆらりとこの世の者らしからぬ歩みで老爺は向かって来た。そして嗄れ声で静かに話し出した。

「グレイドンの兵士は生かしておけぬ。奴らは虫けらにも等しい。」

「待て。お前が抱えているのはラメイア王妃メリルデアではないか?生きているのか?それとも既に…」

老爺はハリオットの緊張した問い掛けに薄ら笑いで応えた。

「さぁ?王妃が生きていようが死んでいようが構わぬがひとまず利用価値のある内は私のものだ。」

「どういう意味だ?」

「さぁ、お喋りは終わりだ。」

そう言うと老爺は呪文を紡ぎだした。辺りに薄い靄の瘴気と共に嫌な気配が立ち込めてくる。

老爺がかっと眼を見開くと地面から湧き上がる白い影がハリオットの隊士を襲った。影はそれぞれの兵士の身体に重なる様に入り込んで消えた。

「今のは何だ?」

すると次々に頭を抱えて蹲ってしまう者や倒れ込む者が現れた。

「脳を掻き乱される!何故だ!」

「段々強くなっていく!うあぁぁ…あぅ!」

「しっかりしろ!何が起こったのだ?!」

ハリオットが兵士達を励ますが皆恐慌状態に陥っている。

「安心しろ。お前には術を掛けておらぬ。言っておくがグレイドン兵にはこれとは比べ物にならぬ程の強力な術を掛けている。あちらは全員即死だろう。お前達ラメイアは感謝すると良い。」

老爺はハリオットの怒りの視線を無視して笑った。

「待て!メリルデアを渡せ!」

老爺は王妃を抱えたまま通路の奥へ向かった。その先にはグレイドン兵の夥しい死体が積み上がっている。

老爺は平地を歩く様に倒れたグレイドン兵の上を滑らかに進んで行く。そして地下通路の奥へと消えた。一瞬の出来事でハリオットには夢でも見ていたのかと思われた。

その時、城内への入口扉が音を立てて空いた。

「進め!グレイドン兵を押し返す!」

「王妃様を見つけたらお救いせよ!グレイドンには容赦するなー!」

威勢よく掛け声を上げながらラメイアの兵士が飛び出して来た。ハリオットは自軍の隊士を庇いながら大声で言った。

「待て。私はヤードネムル領主のハリオットだ。援軍を率いてやって来たが我が隊員は負傷している。手当を頼む。」

一際体格の良い将が一歩前へ出て言った。

「おお!ハリオット殿でしたか。私は将軍マザルクと申します。」

「それから急ぎ王へ伝言を。メリルデアが連れていかれた。」

「何という事だ!グレイドン軍にですか?」

「いや、違う。嫌な術を使う老爺だ。そいつ一人に全員やられた。我々の隊も、そして恐らくグレイドン兵士達もだ。」

「恐ろしい相手ですな。ハリオット殿、ひとまず城内へ行きましょう。手をお貸しします。」

将軍マザルクに支えられながらハリオットは地下通路を後にした。


ザイオンは自分専用の天幕を一つ与えられていた。連れ去って来たマレノを無造作に床に放り投げて座らせた。自分は寝台に腰掛けマレノを見下ろす格好になる。

「セイとフリオール様の所に返して下さい。」

マレノはありったけの力で睨み付けて言った。ザイオンは寛ぎながら首を横に振る。

「三人にしておけばどうなる?お前は私の事を色々と話すだろう。それは都合が悪い。それに…」

「それに?」

「まだ私の側にいた方が安全だ。向こうの天幕は下級兵士達の溜まり場だからな。若い女を放り込んで一晩放っておくほど私は無神経では無いよ。」

「それは…ありがとうございました。」

ザイオンは片頬だけで微笑んだ。

「最もセイにとって君と離れる事は苦行なのだろうな。彼は君を側に置いておきたい様だ。気の毒だった。」

全く気の毒そうに見えないザイオンに向かってマレノは言った。

「全然申し訳なさそうに見えないですけど…」

「まあ、私にとっては些細な事だ。それより…さっきも言ったが、私と君が顔馴染みだと司書達には知られたく無いのだよ。」

「どうして?」

ザイオンはマレノの耳側に近付いた。

マレノは距離感が近くなり少しだけびくっとした。ザイオンの事は心から信用は出来無い。マレノに危害を与える事は無さそうだが何処か得体の知れない人物だと思っている。

ザイオンはグレイドンの東に位置するパドレックの人間らしい。


マレノはラメイア王国の城前広場でザイオンに話し掛けられた。セイの書戯を見ている時だった。

「君はよく来ていますね。書戯殿の中に誰か御贔屓の方が居るのかな?」

背の高い男が隣りに立っていた。マレノは突然話し掛けられて驚く。

「え、ええ。あの一番左で座っている書戯役が私の幼馴染なんです。」

ザイオンはきらりと眼を光らせて尋ねた。

「幼馴染ですか。彼は田舎の出身らしいですね。君もですか?」

「はい。」

ザイオンはふんふんと頷いた。

「司書様達がわざわざ辺境の田舎まで迎えに行ったらしいですね。何でも一目見た書の事は忘れないらしく大層記憶力が良いとか。」

「そうなんです。セイは凄く優秀なんですよ。」

セイを褒められてマレノは嬉しくなる。ふと気になった事があったので相手に尋ねてみた。

「お言葉の発音がラメイアの中心地とは違いますね。どちらの出身ですか?」

ザイオンは言った。

「パドレックですよ。元々の生まれは。」

「隣の国グレイドンのまた隣ですね。遠くから遥々いらっしゃったのは、やはり書戯をご覧になられに来たのですか?」

ザイオンはラメイアを侵攻する為にグレイドン王国の命令を受けて諜報活動のために来ていた。

祖国はパドレックというのは本当だ。しかしグレイドンとパドレックの国境争いの最中に敵兵に捕まり、グレイドンの捕虜になった。しばらくグレイドンの牢屋で強制労働をやらされていたが、ある日ラメイアへの潜入官をしないかと提案された。

母方の祖母がラメイア出身で言葉が理解出来たのでザイオンは潜入官に抜擢され、牢屋から出る事が叶った。

通りすがりの娘にラメイアの内情を探りに来たとは言えない。ひとまず書戯を見学に来ている旅人を装う。

「そうですよ。書戯様の事も色々教えて頂けると助かります。セイ様というあの方は書戯としてどの様にお勤めされてるのでしょう?」

ザイオンはマレノからセイの情報を聞き出そうとした。それから書戯の広場へ通う度に挨拶を交わす仲になった。


パドレックとグレイドンも長い間戦争状態が続いている。ザイオンは本音ではパドレックに帰国したい。だが数年に渡ってグレイドンの諜報活動をしている間に帰国は諦めなくてはならないと気付いてしまった。グレイドンの内情を知り過ぎてしまったせいでパドレックには戻せないと上官にはっきり言われている。


ザイオンはグレイドンの天幕の中で溜め息を付いた。明日からは捕虜をグレイドンへ連れて行かなくてはならない。その先はどうなるのか。自分は何時までも流されてばかりで激流を浮き沈みするちっぽけな笹舟の様だ。

「君と私が知り合いだと司書や書戯には言わない方が良い。」

「言いません。」

「素っ気ないな。」

ザイオンは昔の知り合いに会った様に感じていたがマレノは違うらしい。相手は懐かしさなど微塵も感じていないという事か。

「そろそろ休むと良い。明日は早い。」

そう言うとザイオンは先に寝台に横になった。マレノは薄い毛布を与えられ、くるまりながらセイと眠ったヤードネムル城の夜を思い出していた。あの時は緊張していたけれど、セイの傍で暖かく安心していた。

マレノはなかなか訪れない眠りを待ちながら、セイは今大丈夫か不安になった。久しぶりに近くに居られたのにまた離れてしまっている。うつらうつら浅い眠りが訪れると、マレノは昔の頃の夢を見ていた。

マレノとセイが幼い頃、とある会合に集まった人達の大多数が食中毒になり腹痛を訴えた。幸い大抵の者は軽症で済み、重症者もやがて完治していった。

それから十年以上経って、そんな出来事があった事を全員が忘れていた頃にセイがぽろりと言ったのだ。

皆が食中毒になった日に、同級生が飲料用の容器にさらさらと白い粉末を入れていたのを遠くから見ていた、と。粉末の容器に書いてある名前も正確に記憶していた。セロイデの根と記入されていたらしい。セロイデは容量を間違えると人体に危険な自然生薬だ。

同級生はセイに指摘されて真っ青になった。本人も実は幼い頃の記憶を忘れていたのかも知れない。子供の悪戯の範囲だったのだろう。

ただ、セロイデはその子の自宅で栽培し販売していたのを皆が知っていたから言い逃れも出来なかった。同級生は取り乱して直ぐに帰宅してしまった。

だがその日、その同級生はセロイデを大量に飲んで昏睡状態になり数日間目を覚まさなかった。幸い意識は戻ったが脳に障害が残りその後寝たきりになってしまった。

その件があってから周りの皆はセイを気味悪く遠ざける様になった。

それまでマレノ以外の同級生はセイを馬鹿にして虐めたり、からかったりしていた。しかしその件があってから周りの反応は変わった。

不吉な得体の知れない存在だと見なされてセイの周りに近付く者はいなくなった。家族でさえも日常的にセイを遠巻きにしてろくに会話もしない。

セイは何時見ても独りだった。唯一マレノだけは以前と変わらずセイの味方だった。


セイはフリオールと共に後ろ手に縛られて地面に薄布を引いただけの粗末な天幕内で座らされていた。逃げ出さない様にこのまま眠れということらしい。

冷たく堅い地面の感触が心身を冷えさせる。

「マレノは大丈夫だ。心配するな。」

フリオールの慰めがまるで遠くから聞こえる様に感じる。セイは何かに集中して気を紛らわせたかった。マレノが居ないことを忘れたい。

「…暗唱しても、良いですか?」

「ああ。構わないよ。」

「では…何にしようかな…」

「あれが良い。『ホライルメイ・レフトの紀行書覚』」

すうっとセイは目を閉じて静かに語り始めた。

「…私の生涯を捧げるものは旅そのものであり生まれてから旅の空の下に居ない日は無く…」

フリオールも思い出していた。数ヶ国を旅する冒険家ホライルの紀行書だ。灼熱の砂漠や凍てつく氷河、未開の台地など数々の危険な土地を渡り歩いて無事故郷へ戻る。

ホライルの冒険は心弾む体験に彩られている。その土地毎の滋味溢れる食事や地元民の温かい歓迎、そして現地で交流して出来た友人と暖かい抱擁をして涙で別れた。書に埋まって日々を過ごす自分とは真逆の生き方に憧れた。

「…突然大人しく見えていた巨大な野生牛が走り出した。彼等の縄張りを荒らすと…」

フリオールも目を閉じてセイの語りに耳をすませた。ホライルの歩いた土地の空気に身を包み思いを馳せる。囚われの立場という不安な心を紛らわせながら二人の夜は更けていった。


マレノは一晩ザイオンの元で過ごした後に再び後ろ手に縛られて戻って来た。眠れなかったのか少し疲れている様子で目の下にくまを作っている。マレノの無事な姿を見てセイは少し安心したが複雑な気持ちで話し掛ける気分にはなれなかった。

マレノはセイに話し掛けたそうに控え目に微笑んだ。だがセイは素っ気なく目を逸らして背を向けた。頑なにマレノを遠ざける。

やがて出発の準備が出来てザイオンに連れられ馬車に押し込まれた。早朝から街道を東へ向かう。次第に母国を離れながらセイはラメイアの首都で書戯をしていた時間の事を思い出す。穏やかで優しく何も脅かす者のいないあの時間はもう戻って来ないのだろう。貴重な日々だったのだと振り返る。

『ホライルメイ・レフトの紀行書覚』を昨夜の続きから脳裏に浮かべ始めた。自分達も冒険の旅に出たのだと思い込もうとする。ホライルの様にこの先自分は勇敢に振る舞えるだろうか。


三人を乗せた馬車は国境付近まで辿り着いた。ラメイアとグレイドンの東の国境は現在グレイドン兵士に見張られている様だ。ラメイア城までの街道も要所でグレイドン兵士の

姿があった。何時からかラメイア王国はじわじわと占領されていたらしい。ラメイア城に居て気付かなかったが、グレイドンの侵攻がかなり計画的だったと解る。

「ダレイ大橋だ。この橋は大河ローダレイに掛かっている。橋を渡ると間もなく国境を越える。」

馬車の外から騎馬上のザイオンが説明を加える。

「長閑だな…」

窓から見える大河の流れは緩やかで陽を反射し輝いている。囚われの身でなければ景観を楽しむ余裕もあっただろうとフリオールは思った。

その時、突然セイが服の中にしまってあったペンを手に取った。セイは馬車の扉に掛かっていた鍵に向かって力一杯ペンの軸を突き立てて壊す。鍵の部分がひしゃげて取れてしまった。

呆気に取られる他の面々に向かって振り返り、セイは一言呟いた。

「ごめんなさい。皆、元気で…」

マレノとフリオールにだけ聞こえるかどうかという小声で謝った。

そして踵を返すと迷わず馬車の扉を開け放ち外に転がり落ちた。

「セイ!」

マレノが後から追って飛び出そうとしたがフリオールが引き留めた。橋の上では馬車は低速だが危険だ。

「さようなら」

橋に落ちたセイは手摺を乗り越えて大河ローダレイへと真っ逆さまに落ちて行った。

「馬鹿な!この高さでは助からんぞ!」

ザイオンが忌々しげに怒鳴った。だが部下の兵士らも後を追う訳にもいかず、どうする事も出来ない。水面までは数十メートル離れていた。ここから落ちたら落下の衝撃で無事では済まされないだろう。

「セイ!」

マレノは声を限りに叫んだ。

「駄目だ。」

フリオールが非情に引き留める。

「セイー!」

マレノの叫びも虚しく響いた。

大河の流れはあっという間にセイを飲み込んでしまった。川面には人影一つ見えない。

「仕方ない。予定通り進む。」

ザイオンが号令を掛けると、セイを諦めた一隊はグレイドンへ進んで行った。


カリオン王子はミーアとシェルレインの兵士数名を従えて馬に騎乗し先を急いでいた。シェルレインの結界を出たのでカリオン王子以外は影が揺らめいた様な実体のない姿をしている。それでは都合が悪いからとラメイアの鎧や兜等を身に付けていた。そうすれば少なくともカリオン王子にもシェルレインの者が何処にいるのか解る。

これから先はカリオン王子の配下を襲ったグレイドン隊を探さなくてはならない。多分その隊にレイナス王子が囚われている筈だ。

「カリオン王子。此方の方向に騎馬や軍靴の足跡がある。辿ってみましょう。」

ミーアの言う通り戦闘の跡地からラグナレン兵士が引き返したと見られる足跡があった。それを辿ればやがてラグナレンの野営地に着く可能性がある。

「どれほどの規模の隊にレイナスは囚われて居るのだろう。警備が甘ければ良いが…。」

「レイナス王子は大事な人質です。厳重に守られていると思います。」

「ミーア…」

「はい。」

「シェルレイン殿から裏切り者を探すなと言われている。私はずっとその事を考えているのだが…」

「裏切り者を探すな、ですか?」

カリオン王子は頷いた。

「私の従者であるウッズはレイナスが私達ラメイア兵に向かって斬りかかって来たと話していた。だとすればレイナスは裏切り者だ。」

「裏切り者のレイナス王子を探してはいけない、と父が言ったのですね…。」

ミーアは暫く黙って考えていた。

カリオンはその間も裏切り者について考えていた。レイナスを救出するのは兄として当然だ。

だが、ここで二人ともラグナレンに捕まるか若しくは命を落としてしまっては最悪の事態と言える。ラメイアの後継ぎが居なくなり、城が落ちれば王国は滅ぶ。

シェルレインの言葉通りに裏切り者は無視するべきなのか。思考の迷路に入っていると、ミーアが笑った。

「裏切り者を探し出す行為は時間の無駄、と言いたかったのでは無いですか?他人を疑い始めたら、きりがありませんから。」

カリオンは赤くなって言った。

「そう言えば現に今そればかり考えていた。人を疑うのは良くないな。もっと仲間を信頼しないと。」

「用心した方が良いとは思います。」

でも…、とミーアは続けた。

「レイナス王子とは直接お話をされるべきです。もしも救出する事が出来たのにここで足踏みした為にレイナス王子が命を失う様な事があれば、きっとカリオン王子は後悔されますよ。」

「…そうだな。」

自分はレイナスが死んだら後悔するのだろうか。カリオン王子は暗い想像をしていた。

レイナスの祖父アイルデン領のザライはラメイア王国きっての権力者だが、頼みの綱であるレイナス王子が亡くなれば確実に勢力を落とすだろう。ラメイアの王権を一族が手に入れる可能性が無くなるのだ。カリオン王子にとって国内の危険が去り王位は確実に自分の物になる筈だ。

そこまで真剣に考えて、何を馬鹿な事をと思い直した。今はラメイアの危機だ。身内同士で争っている場合では無い。

「何を考えておいでですか?」

ミーアの問いにぼんやりと答えた。

「私は…臆病で卑怯だ」

「そうですか。」

「何故着いてきてしまったのかと後悔させてしまうね。」

「そんな事はありません。」

「引き返すかい?」

「いえ。大丈夫ですよ、カリオン王子。我々はシェルレインの精鋭です。グレイドン兵などに負ける筈が無いのですから。」

ミーアは不敵に笑った。

「確かに…影の様な君達はグレイドン兵からは見えないのだろう?戦闘では有利だ。」

「そうです。安心なさって下さい。」

「レイナスを無事に取り返そう。」

「はい。」

カリオンは意識して明確に宣言した。迷いや雑念を断ち切りたかった。


シェルレインの探索力は確かだった。彼等は正確に足跡を辿ってグレイドン兵の駐屯地を難なく見つけた。

「レイナスは何処かの天幕にいるのだろうか…」

暫く様子を探っているうちに一瞬レイナス王子が天幕から表に現れた。見張りが絶えず辺りをうろついているが人数は多くない。

「夜の方が確実に奪還出来ると思います。日が落ちるまで待ちましょう。」

ミーアの言葉にカリオン王子は同意した。

「王子は離れたこの場所で待っていて頂いても問題ありません。どうされますか?」

カリオン王子は自分が足出纏いだと分かっていたけれど、シェルレインに全て任せ切りにするのは嫌だった。

「私も行くよ。戦力にはならないけれど。」

「大丈夫です。私達シェルレインだけでは信用して頂けるとは限りません。何しろ影ですから。兄のカリオン王子から説得して貰えれば素直に脱出してくださるでしょう。」

ミーアはカリオン王子とレイナス王子の王位継承権争いを知らない。レイナスがカリオンを信頼していると思っている。

「夜の女神の刻を三つ過ぎた頃に行動を開始します。それまでは交代で休みましょう。」

カリオンは不安を残しつつミーアの作戦に全て委ねた。


夜が更けてカリオン王子らは予定通り行動を

始めた。シェルレインは皆衣類や鎧を脱ぎ、影のみの姿になっている。夜の闇の中では完全に空気と同化してほぼ眼に見えない。時折彼等の手仕事による武器がきらりと反射するが、それもシェルレイン由来の品である為カリオン王子には分からない。ミーアがグレイドン兵に負ける筈がないと言っていたのも頷けた。

レイナス王子の天幕にそろそろと近付いて入り口付近の見張りをシェルレイン兵が襲った。二人いたグレイドン兵士の見張りが声をあげる間も無くあっさりと倒した。そっと天幕の入り口を開けると中にレイナス王子が寝台に横たわっていた。起きてはいたようだ。

「何事だ?」

レイナス王子が外に居るグレイドン兵士の見張りに声を掛けた。

「助けに来た。」

小声で返事をしてカリオン王子は姿を現す。

「兄上…」

レイナス王子は泣きそうな顔になった。安心したのだろう。

「もう大丈夫だ。逃げよう、レイナス。」

カリオン王子は弟王子を立ち上がらせると、見張りのグレイドン兵士の衣類を脱がし、それをお互いに身に付けた。

「これで遠目からはグレイドン兵士と区別が付かないだろう。」

影の様なシェルレインの兵士に護られ目立たぬ様に移動した。

「おい、持ち場を離れるな。何処へ行く?」

目敏い見張り兵士の一人に声を掛けられた。心臓がどくんと跳ね上がり背中を冷や汗が伝う。

カリオンとレイナスが固まっているとすぐ背後からシェルレインの兵士が応えた。

「あちらの林間で不審な物音がしたそうです。上官の命令で見て参ります。」

「おう、そうか。まさかこのような辺鄙な場所でラメイア正規兵も居ないだろうが斥候がいる可能性もある。野営地をラメイア城に見つかれば面倒だ。ラメイア兵ならさっさと片付けて来いよ。」

薄暗がりで声が後ろからした事に気付かなかった様だ。カリオンが返事をした様に見えたらしい。この隙に急いで林間の方へ立ち去った。


視界から野営地が見えなくなるとミーアが声を潜めて言った。

「ここまで来ればひとまず逃げられたと思います。油断は禁物ですが。」

「ありがとう。シェルレインの助力が無かったら私だけでは到底助け出せなかったと思います。」

「助かりました。…本当に、どうして良いか分からなかったから。」

「レイナス。そういえば…」

カリオン王子が話し掛けた時、林の中から騎馬の兵士らが数名襲って来た。気が緩んでいたせいかシェルレインの兵士らも反応が遅れる。暗がりの戦闘は乱戦の予感がした。

「カリオン王子!危ない!」

ミーアが慌てて注意を促すと、騎馬の兵士達の動きが鈍った。先頭の兵士が大声で叫んだ。

「カリオン王子だと?!皆、攻撃の手を止めろ!斬ってはならん!」

先頭の兵士の合図で皆の手が止まる。

「カリオン王子では無いですか!グレイドン兵士の服装をしていたので、てっきり敵兵かと…」

逆の方向からも緊迫した声が聞こえた。

「待て!こちらは負傷しているぞ。」

「もう一人のグレイドン兵士の装いの方は誰です?間違えて部下が剣を向けてしまいました。」

「深手だぞ!」

混乱する兵士の声にカリオン王子は最悪の状況を悟って叫んだ。

「馬鹿な!もう一人はレイナスだ!」

地面に倒れぴくりとも動かないレイナス王子にカリオン王子は駆け寄った。

「レイナス!しっかりしろ!」

レイナス王子は背中からばっさりと斬られていた。薄暗がりの林の下生えに血溜まりが広がる。

「レイナス!こんな所で死ぬな!レイナス!」

ラメイア兵士もシェルレインの影も二人の王子を取り囲んで立ち尽くしていた。掛けるべき言葉が無く呆然としている。レイナス王子を手に掛けた者は顔面蒼白で震えが止まらない。

「あにうえ…大丈夫、です。」

微かだがレイナス王子が声を発した。

「レイナス!今手当をするから頑張れ!」

カリオン王子の腕の中でレイナス王子は目を閉じた。


応急処置をしてシェルレインの隠れ家に転がり込む様に戻った。レイナス王子は呼吸はしているがここへ着くまで意識を失っていた。移動の負担も身体に掛かり、命が危ないのは誰の目にもわかった。

「シェルレインには腕の良い医師がいます。レイナス王子様の無事を祈りましょう。」

カリオン王子に向けてミーアが静かに慰めてくれた。カリオン王子は両手で顔を覆って黙っている。心の中では自分を激しく責めていた。

カリオンとレイナスを襲ったのはカリオンの部下である味方のラメイア兵士だった。シェルレインの近くで起きた襲撃の際に騎馬でその場から逃げた兵士らが幾人か居た。その兵士達がグレイドンの野営地を探し当てて離れた場所から見張っていたらしい。グレイドンの服装をしていたカリオン王子とレイナス王子を敵と勘違いして襲撃したという事だった。

どうすれば良いか。

カリオン王子は迷った末に今為すべき事を導き出した。

「カリオン王子。弟御は未だ容態が安定しないが…。このままシェルレインで治療を続ければ目を覚ます可能性もある。今は動かしてはいけない。」

「シェルレイン殿。…私からお願いするつもりでした。弟を頼みます。」

「貴方はどう為さるか?」

同席していたミーアもカリオン王子を見た。

「アイルデン領へ向かいます。レイナスに代わって彼の祖父ザライ殿に謝罪しなければ。その上で援軍を頼もうと思います。」

シェルレインの偵察部隊がラメイアの戦況を伝えてくれていた。それによるとヤードネムル領主ハリオットの先発隊はラメイア城に到着したらしい。ただ、アイルデン領からは未だに援軍が来ていなさそうとの事だった。

そもそもの計画ではレイナスが祖父であるアイルデン領主ザライに援軍を頼みに行く予定だった。だが早々にグレイドンに囚われの身になってしまったレイナスはザライの元へ行く事は出来なかった。開戦してから数日経た現在ではラメイア城から援軍の要請が別のルートで届いているかもしれない。だが老練なザライは自身の身の安全を優先し、援軍を渋っている可能性もある。直系の孫であるレイナス王子の頼みなら否とは言わないだろうが、カリオン王子が頼んでもザライを動かす事は難しいかも知れない。

「私も行きます。」

「ミーア。お前は残りなさい。」

「でもカリオン王子をお護りするのはシェルレインを護る事になりませんか?ラメイアに代わってグレイドンがこの辺りを制すれば私達の種族など根絶やしにされてしまいます。」

「危険だ。」

「必ず帰って来ます。」

シェルレインは根負けした。

「お前の決意は分かった。カリオン王子はどうであろう?」

「こちらからお願いしたいくらいでした。ミーアが居てくれれば心強いです。他には私の兵士達を連れて行きます。」

ミーアに差し出したカリオン王子の右手をミーアは固く握り返した。


薄暗くこじんまりとした小屋には板張りの壁の隙間から陽の光が差し込んでいた。多少の不精は気にしない気質の家主らしい。部屋の四隅の壁には蜘蛛の巣が張っている。

見覚えの無い小屋の寝台にセイは横たわっていた。

ゆっくりと首を傾けると、見知らぬ男が傍の椅子に腰掛けていた。

「目が覚めたか。良かった。」

セイは起き上がろうとしたが身体中の脚や腕その他至る所が激しく痛んだ。上手く起きる力が入らず結局また寝台に倒れ込んだ。

「無理して起きない方が良い。助かったのが不思議な位だ。」

セイは頭が働かずどうしてここに居るのか分からなかった。徐々に意識がはっきりして来ると自分のした事を思い出した。

「大河ローダレイに落ちて…。それから僕はどうやってここへ?」

「岸に流れ着いていたのを俺が連れて来たんだ。運が良かった。」

「それは…ありがとうございました。」

「命は大切にしないとな。」

どうやら自殺しようとして自ら川に飛び込んだと思われたらしい。慌てて否定する。

「そうでは無いです。」

「なるほど。てっきり自分から川に飛び込んだのかと思ったぞ。」

セイは曖昧に笑った。実際に自分は飛び込んだのだ。マレノと一緒に馬車に揺られていたら、何故だか急にマレノとザイオンの事が気になりだした。一晩一緒に過ごして何か話したかもしれない。そもそも何故彼女だけ別の天幕に連れて行かれたのか。ぐるぐる考えている内にマレノと一緒に居るのがいたたまれなくなった。

前日に暗唱していた『ホライルメイ・レフトの紀行書覚』の中でホライルは大河ローダレイを船で下ってラメイア中心地へ辿り着いたという記述があった。グレイドンに連れられて国境まで離れてしまったが、ローダレイの流れに沿って行けば城まで着けるかも知れない。そう思ったらローダレイに飛び込んでいたのだ。但し船ではなく生身で。

「ここは国のどの辺りですか?」

「ラメイア城の側だよ。東に歩いて半日程度の場所だ。近くに集落は有るが俺は離れて此処で一人で住んでいる。」

「行きたい場所があるのですが…」

男は眉を顰めた。

「動くのもやっとだろう?今ラメイアのお城は隣の国から攻められて酷い事になってるらしい。ここは城から多少離れているがふらふら出歩いたら危険だ。」

「では、近くの集落まで連れて行ってくれませんか?お願いします。」

セイは男に頭を下げた。

男は暫く考えていたが、やがて根負けした。

「良いだろう。とりあえず近くの集落までな。俺の名はピース。よろしく。」

「セイです。よろしくお願いします。」

出発は明日の朝だと言ってピースは部屋を後にした。

頭も身体も痛くだるかったが此処で休んでいられない。早く行かなくては手遅れになってしまう。セイは薄暗い天井をじっと見つめていた。

翌朝、元の服装に着替えたセイは一頭の馬に乗せられた。ピースは旅慣れた様子で馬の轡を取り横に並んで歩いた。

「すみません。僕だけ馬を使ってしまって…。」

「構わないよ。旅は徒歩が基本だから。それよりもそんなに沢山の紙を何に使うんだ?」

セイはピースに頼んで家にあった紙を貰って持ち出していた。紙は貴重品なだけに申し訳無かったがどうしても必要だった。

「集落の首長の家に着いたら使います。」

「必要なんだな。分かったよ。」

そうして旅路を急ぎ近くの集落まで無事に着いた。

ピースは集落の首長とは顔馴染みらしく直ぐに家へ通してくれた。首長はしげしげと言った。

「久しぶりにお前が来たと思ったら立派な方を連れて見えるから驚いたよ。貴方はお城の書戯様ではないですかな?そのお衣装には見覚えがありますよ。」

セイは頷いた。

「そうです。丁度書戯の制服を着たまま此処まで来てしまったので。書戯役のセイと言います。」

「この度はお城が大変な事になってしまって…。書戯様もご無事で何よりですな。」

セイは曖昧に笑った。それよりも…と、前置きをして紙を一枚取り出しさらさらと1文を書付ける。

「セイ様、これは?」

「集落の方々に配って頂きたいのです。」

「何が書いてあるんだ?」

ピースの言葉に応えてセイが別の紙に書物の写しを右斜め下から左右にペンを往復させて文字を書き起こした。

首長とピースは呆気に取られているとセイが言った。

「【ラーナレインの叙事詩 第三巻 ラメイア王国 建国譚 最終章】に書かれている史実に基づいた叙事詩です。これによると結晶石による結界を張り、悪しきものを封じたと書かれています。」

セイは自分の書いた書物の写しを読みながら首長とピースに説明をした。セイの話を聞いて首長は唸る。

「なるほど…。では私は集落の家々にこれを配れば良いのですな。」

「御協力ありがとうございます。」

頭を下げるセイにピースが聞いた。

「セイはこの先どうするんだ?」

「もう一つの結晶石を探します。」

「なるほど…。俺も着いて行くよ。」

セイは苦笑した。

「ドラゴンの巣穴や火山の噴火口に行くかもしれませんよ?行先も聞かないでよく簡単に着いて来る気になりますね。」

「うん、まぁな。俺も宛てが無いわけでは無い。」

「そうなんですか?僕しか知らないと思っていました。」

「道中で話すよ。申し訳無いが首長には旅の準備として馬と食料を分けて貰えないだろうか?」

「喜んで。ご無事を願っております。」

セイとピースは頷き合った。


王妃メリルデアは背中の傷跡の痛みに耐えていた。簡単な治療はされているが傷が深く完治するとは到底思えない。意識が混濁する中で覚醒と昏睡を繰り返している。

「カリオン…レイナス…」

悪夢の中で時折二人の息子が現れた。カリオンはお腹を痛めて産んだ実子だが、レイナスは違う。しかしメリルデアは二人の王子を出来る限り分け隔てなく愛情を注いで育てたつもりだった。レイナスの実の母ザライの娘セレナは第二子である王位継承権二位の王子に興味は無く度々実家アイルデンに帰ってしまっていた。セレナの居ない間メリルデアはレイナスと共に王城で過ごした。

しかし幼い頃は慕ってくれたレイナスも今はメリルデアを敵視している。このまま死に別れてはやり切れない。最期に王子達が二人手を取り合って国を護る姿が見たいと思う。

「明日は建国記念日だ。ラメイアとシェルレインにとって古い盟約の時でもある。」

遠ざかる意識の中でバルドルの声が聞こえた。

「王妃。悪い様にはしない。この俺がラメイアを護って差し上げようぞ。さあ、隠しても無駄だ。」

メリルデアの意識があろうが無かろうがどちらでも良い口振りだった。王妃の衣装に手を掛けると軽く引き裂いて内側から拳大の石の様なものを取り出した。

「王妃。お前から結晶石の気配がしていた。これがあればグレイドン兵士など塵芥の様なものだ。」

バルドルは結晶石を手に取ると満足気に微笑んだ。

いけない、と言葉に出そうとするが力が抜けてそれも叶わない。

メリルデアの意識は次第に遠のき、再び昏睡の狭間へと落ちていった。


カリオン王子は馬を西へと走らせていた。ミーアとカリオン王子直属の兵士達数名を引き連れている。

「急げ!日暮れまでにアイルデン領へ入るぞ。」

カリオン王子は全員に向かって激しく鼓舞した。皆王子の激励を受けて全力で街道を駆け抜ける。

アイルデン領主ザライの城へ着いたのは日の落ちる直前だった。城門の前で屈強な兵士達がカリオン王子を引き留めた。

「ザライ様より何人も城へ入れてはならないとお達しが有ります。」

強硬に言い張る城門兵士にどうしようかと迷っていると城内から従者が飛び出して来た。

「いや。ザライ様から皆様方はお通し下さいと言伝が有りました。どうぞお入り下さい。」

従者の後から門を潜り城内へ入った。カリオン王子はやや緊張して来た。

広い接見室に全員で入る。中央の椅子にザライが座って待っていた。突然の訪問にも予期していたのか動じない。先にザライが口を開いた。

「カリオン王子。」

「ザライ様。お久しぶりです。この様な火急の要件でお会いする事になり誠に残念です。ラメイア王国はグレイドンに攻められて建国以来の危機に直面しています。一刻も早く王城へ援軍を送って下さい。お願い致します。」

ザライが沈黙した。そしてぐるりと一行を見廻した後、厳かに言った。

「カリオン王子。他の者は別室で休ませましょう。二人きりで少し話しておきたい事がある。」

心配気なミーアや部下の兵士達が部屋から去ると接見室は急に静かになった。

「さて、カリオン王子」

はい、と応える声が掠れた。威圧感があり緊張を強いられる。

「裏切り者は見つかったかな?」

ザライの言葉に声を無くして固まった。何故ザライが裏切り者の存在を知っているのか?

カリオンの動揺を無視して従者が部屋へ駆け込んで来た。

「ザライ様。至急の要件だと申してピース様がいらっしゃってます。此方へお通しして宜しいでしょうか?」

「何?こんな時に都合の悪い奴だ。待たせておけ。」

「いえ。カリオン王子がお見えですと言ったのですが、好都合だからと同席したいそうです。あっ!ピース様!」

「セイ!何故?!」

カリオン王子が驚いて二人連れの片方を見た。ほんの数日前に不測の事態により別れた書戯役セイがもう一人の男と並んで目の前に立っていた。

「グレイドンに攫われたのでは無かったのか?何故此処へ?」

「結晶石がここにあると思いやって来ました。他の二箇所では既に呪文の用意が出来ています。此方にある最後の結晶石に呪文を掛ければ王国の結界を張り巡らす伝承の秘儀が発動するはずです。」

ピースもセイを援護して言った。

「ザライ様。元アイルデン領大隊長として私からもお願い致します。どうぞ結晶石をこのセイに渡して下さい。」

ザライはしばらく黙っていた。

長過ぎる沈黙が辛くなった頃にようやく口を開いた。

「結晶石がアイルデンに在るなどと誰がその様な事を…」

「ザライ様。今はそんな些末な事に構っていられません。結晶石はどちらに?」

堪らずカリオン王子も口を開いた。

ザライは充血した眼を見開いて鬼気迫る表情で吠えた。

「結晶石は渡さない。」

ザライが豹変し、その気迫にカリオン王子ら一同が凍り付いた。


司書フリオールは中庭の噴水をぼんやりと眺めていた。陽の光を弾いて滴る水が輝いている。長閑な景色は平和そのものだ。自国ラメイアでは戦禍の真っ只中だと言うのに自分の置かれている状況はまるで夢の様に思えた。

「フリオール様…」

マレノが側にやって来た。

「ザイオンが呼んでいます。」

「そうですか。直ぐに行きます。」

フリオールとマレノはグレイドンの首都バーレイに客人待遇として招かれていた。王宮から少し距離のある場所に居を構えたこの離宮は王族の持ち物だ。しかしこの場所を現在最高責任者として管理するのはザイオンの直属の上司だ。その人物に許可を得てフリオールとマレノは自由に此処で過ごす事を許されている。禁じられているのは外出くらいだ。

呼ばれた別室へ行くと、二つの人影があった。

「会わせたい方が居る。こちらだ。」

ザイオンはゆったりとしたグレイドンの普段着に身を包んでいた。隣りには若く幼い少女がにこやかに横椅子に腰掛けている。

「此方はエルリンデル様だ。」

「初めまして。ラメイアの司書様とお嬢様にお会い出来て光栄です。」

「初めまして。司書のフリオールです。」

「マレノです。」

ラメイアの二人は引き合わされた意図が分からず困惑していた。ザイオンは余所行きの笑顔を貼り付けた愛想の良さで説明を始めた。

「エルリンデル様は書物や景色など見たものを見たまま記憶する事が出来るお方だ。」

「え?それではセイの持つ能力と一緒?」

マレノの疑問にザイオンが頷いた。

「エルリンデル様の能力を高潔で他に類を見ない貴重な力だとグレイドン高官が判断した。一代限りで絶やしてしまうのは惜しい能力だそうだ。」

「それで?」フリオールが警戒心を滲ませて聞き返した。

「我々グレイドンは書や景色を記憶する能力を持つ者を探した。そして君達も良く知る人物を探し当てた。」

マレノは両手を握り締めた。不安が増して来る。

「エルリンデル様にはその人物を見て貰い、婿として相応しいか判断して頂く。やがて全ての景色を映像として記憶する能力を持つ子孫が二人の間に授かれば素晴らしい天からの贈り物だ。グレイドンに映像を記憶する能力が得られる。」

マレノは堪らず反対した。

「でも、セイはそんなに大した事が出来る訳じゃありません。色んな記憶が有るだけで偉い人っていう訳じゃ無いし…」

エルリンデルが朗らかに言った。

「私は構いません。私達が父母となってより優秀な子供が産まれれば嬉しいです。お相手の方が今回は都合が悪くてグレイドンへ来れなかったのは寂しいですね。」

マレノはセイが川に飛び込んだ時の背中を思い出した。

あの時セイは思い詰めた顔をしていた。

たった一言ごめんと謝ってそのまま消えてしまった。

マレノは込み上げる涙を堪えるのに必死で眼に力を入れた。

けれどあの橋の高さから落ちて川面に叩きつけられたら無事でいられるのだろうか。セイは泳ぎも得意では無かったし溺れてしまったかも知れない。生きていると信じているけれど、自分の都合の良い様に信じ込んでいるだけの様な気もする。

フリオールがマレノを気遣って肩に手を置いた。

「どうかしましたか?」

無邪気に問い掛けるエルリンデルの問いに首を振った。冷静なザイオンが続けて説明する。

「さしあたって、フリオール殿には司書職としてグレイドンの書物庫を整えて頂きたい。現在この国には書物を読む習慣も所蔵し整理する者も居ないのです。ラメイアの持つ書を分類し保存する術を伝えては頂けませんか。」

フリオールは気持ちが動いた。一から書庫を整えて思うままに収集しグレイドンの書庫の創建者となる。グレイドンの国民に広く文字と書を伝え教育を施す。

それはフリオールにとって意義が有る新しい人生の可能性かも知れない。祖国ラメイアを武で凌ぐグレイドンに書の奥深さと知の豊かさを説く。

そこまで考えてフリオールは答えを出した。否だ。自分はラメイアに背くつもりは無い。

フリオールの内心に気付かず、ザイオンは顔合わせが終わった所で満足気に言った。

「良い返事が聞けると期待しています。私達文官が協力関係を築けば王国間の架け橋になる事も夢では有りません。」

「楽しみですね。」

笑みを絶やさないエルリンデルに見送られてフリオールとマレノは退室した。


ザイオンは一人自室に戻り考えを巡らせた。

セイの行方は追わせているが手掛かりの報告は今の所無かった。セイが死んでしまっては数年越しで立てた計画が無駄に終わる。

グレイドンの潜入員としてラメイアの調査をし続けて来た。実際は武力に劣るラメイアには調べるに足る情報は大して無かった。

だがラメイアには古代からの護りの力が備わっているという伝承がある。敵城へ入り込んで調査に当たった時も護りの力の実態については何も分からなかった。自分の能力不足か、そもそも護りの力など無いのかのどちらかだろう。

結局グレイドンで何も成せない。虚しくなりふと故郷パドレックへ逃亡してしまおうかと考えた。多少はグレイドンの追手が掛かるかも知れないが自分程度の人物なら見逃されるだろう。

根無し草でしか無い自分に嫌気が差し、ザイオンは虚しく溜め息を付いた。

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