冤罪
早朝に職場へ到着したエレオノーラは、汚れたまま放置されたカップを見つけた。やはり誰も片付けをしていない。新聞や書類もテーブルに散乱したままだ。
休んだ次の日は、いつもこうだ。早めに職場へ来て、先輩たちが出勤してくる前に片付けておかないと、全てエレオノーラが悪いことになる。
種類ごとに書類をまとめ、しわが寄った新聞をたたむ。給湯室へカップを洗いに行くついでに、新聞は回収箱の中へ入れた。
エレオノーラが片付けている間、黒トカゲは落ち着かない様子だった。何かを訴えるように鳴き、伝わらないことに落ち込んでいる。
「もうすぐヨハンナが出勤してくるかもしれないから、隠れていてね」
黒トカゲをフードに入れると、諦めたのか大人しくなった。
全て片付け終わったあたりから、一人また一人と先輩たちが出勤してきた。出張から全員が帰ってきたので、賑やかになっていく。
始業時間が近づいてきたとき、廊下が騒がしくなった。
「エレオノーラ・キルシュ。聞きたいことがある。今すぐ来なさい」
最初に入ってきたのは主任だ。後ろには、あまり縁がない警備部の人たちがいる。
「おい、何かしたのか?」
「い、いえ……何も」
不穏な空気を感じた先輩が小声で聞いてくるが、全く心当たりはない。
「エレオノーラちゃん、薬草を持ち出して売っていたなんてウソだよね?」
涙目になったヨハンナが、予想外なことを言ってきた。
「薬草? 売っていたって、私が?」
「だって、被害があった保管庫に出入りしていたのは、エレオノーラちゃんだけじゃない! この前だって大量に持ち出したって、管理人さんが」
「君、言いふらすようなことは止めなさい」
警備部の責任者がヨハンナを諭したが、すでに遅い。なんのためにエレオノーラが連行されるのか、その場にいた全員に知れ渡っていた。
「私、薬草の横流しなんてしてません」
「それを今から調べるんだ。来なさい」
「たくさん持って行ったのは、回復薬の発注があったからです。そうですよね? 余った薬草はちゃんと返しました」
「い、いや……作ったのは覚えてるんだが、総数を聞かれると……」
先輩たちからエレオノーラの味方をする言葉は出てこなかった。巻き込まれるのが嫌だと目をそらす。薬草を持ってこさせたのも、下準備をさせたのも自分たちなのに、エレオノーラを弁護する気はない。
「そうだ……記録が残っているはずです。騎士団へ納品したから、ここと騎士団の両方に。後で費用を請求しないといけないから」
「エレオノーラちゃん。そういうの、往生際が悪いって言うんだよ! 自分が潔白だって思うなら、廊下じゃなくて警備部へ行って説明しないと意味ないよっ」
まるでエレオノーラがやったと信じている言い方だ。
背中から蹴られたような気分だった。警備部の人たちに促され、エレオノーラは沈んだ気持ちで廊下を歩いた。
机と椅子しか置いていない小部屋に入れられて、そこで取り調べが始まった。
エレオノーラは自分が任された仕事の全てを、ノートに記録するようにしている。出勤した初日に、ルーカスからやっておくように言われたことだ。平民出身の魔術師は手癖が悪いと思われている、備品や薬草を盗んだと思われたくないなら、全て書いておくようにと。
言葉こそ冷たかったが、今なら意味がわかる。
エレオノーラに質問していた年配の男は、手帳を閉じて申し訳なさそうにしていた。
「あんたがやったとは思えないが、告発してきたのは貴族の魔術師でな。今すぐ無罪だと判断するわけにはいかないんだよ」
誰が言っていたのかは教えてもらえなかった。もし告発したのが平民だったなら、聞きかたによっては仄めかしてくれる。男が逆らえないほど高い身分なのだろう。
恨みを買った覚えはない。回された仕事は全部、真面目にこなしてきたつもりだ。もちろん薬草を盗んで売るようなことはしていない。
証拠として手帳は預かっておく――そう言って、取り調べは終了した。
解放されても気分は晴れなかった。
フードの中で黒トカゲが小さく鳴いた。集中すれば相手の気持ちを感じ取れたかもしれないが、今のエレオノーラには無理だ。自分の感情すら分からない。
不正をしたと最初に言われたときは、混乱したし憤りもあった。取り調べられて自分の行動を振り返るうちに、やはり間違ったことはしていないと確信した。だがいくら自分が無実を訴えたところで、何も変わらないと気付かされただけだ。
どこかへ逃げてしまいたい。
そんな都合がいい避難所なんてないけれど。
職場へ戻ると、室内にいた全員から注目された。
「どうだった?」
ヨハンナが心配そうにしている。
「分からない。調査中だから」
たとえ取調室で無罪だと言われても、ヨハンナには言いたくなかった。全員に聞こえるように言わなくてもいいのに、わざと話を広めている気がしていた。でも彼女にそのことを追求しても、気のせいだと言われて終わりだ。
「……本当にやったのか?」
「やってません」
「でも何もしてないのに疑われるなんて、怪しいじゃないか。よく保管庫に出入りしていたみたいだし」
「先輩たちに薬草を取ってこいと言われたからです」
「俺たちのせいだって言いたいのか」
「違います」
いつもこうだ。自分の言い方が悪いのか、なぜか悪いように受け止められてしまう。
「エレオノーラ。私物を持って、隣へ来なさい」
主任が部屋に顔を出した。
疑いの視線から逃れる理由ができた。エレオノーラはロッカーに入れていたカバンを持って、足早に主任の研究室へ向かった。
失礼しますと言って中へ入ると、扉を閉めるよう言われた。主任の研究室は特殊で、盗聴防止の魔術がかかっていると聞いている。
「なぜ私が疑われているのでしょうか」
机の上に置かれている首輪を見つけた。どこにいても居場所が分かるという道具だ。エレオノーラが逃亡すると思われているのは間違いない。
主任は首輪を持って近づいてくる。
「告発があった」
「証言だけですよね?」
「保管されていた高価な薬草が消えている。管理人を除いて、頻繁に出入りしていたのは君だ」
「先輩たちに言われて、代理で取りに行っていただけです。私じゃない字で書いてあるリストだって……」
「調査の権限は警備部にある」
首輪がはめられた。
冷たくて重い。
「今日はもう帰りなさい。しばらく指示があるまで、自宅付近にいるように」
主任はいつもと変わらない。平坦な口調で、自身の要件だけを伝えてくる。
「ルーカスの助手をする話は無しだな。君が悪いわけではない」
研究室を出る直前、主任の声が聞こえてきた。何の慰めにもならないのに、どうして言うのだろう。
それから、どの道をどうやって帰ったのか、あまり覚えていない。ローブを乱雑に脱ぎ捨てて、ベッドに伏せた。黒トカゲが心配そうに鳴いている。エレオノーラの額を鼻先でつつき、また鳴いた。
「ごめんね。ちょっと一人になりたいの」
金色の瞳が悲しそうに揺れた。
トカゲも人間みたいな反応をするのね――目を閉じる直前、そんな感想が思い浮かんだ。