特別な名前
コミカライズ配信記念に
エレオノーラにとって竜という生き物は、知れば知るほど不思議な生態をしている生き物だった。
彼らの巨体が空を飛べるのは、翼だけではなく魔力も使っているから。体の内側にある大量の魔力を揚力や推進力に変換し、意のままに空を飛んでいるらしい。
ディートリヒ達竜騎士は、竜の食事に獣の肉を数日おきに出していた。獣肉は家畜や狩猟で得たものから、害獣として駆除された魔獣まで様々だ。竜にあげる際は頭と内臓の一部を排除し、毛皮を剥ぐだけでいい。竜は強靭な顎で骨ごと噛み砕き、時間をかけて消化してしまう。
竜の健康を維持するために、竜騎士は肉以外にも野菜と栄養剤を与えているそうだ。ところが、ほとんどの竜は薬を飲むのが嫌いだった。ディートリヒは摂取させたい薬の錠剤をチーズに埋め込み、ひき肉と網脂で包んで味や匂いを誤魔化している。しかも竜には、日ごろ頑張っている褒美だと騙して食べさせていた。竜はまだ薬の存在に気がついていない。
ディートリヒの竜は体を動かすのが好きらしい。ディートリヒの仕事がある日は、職場の運動場で他の竜と遊んでいる。休日の早朝になれば、ディートリヒは町の外へ連れ出して草原で走らせていた。
鞍をつけてもらっている間の竜は、散歩を心待ちにする犬のようだった。尻尾の先が左右に揺れ、足元が落ち着かない。ディートリヒが鞍に乗る間は大人しく伏せているが、出発する際に勢いよく立ち上がってしまった時は窘められていた。
無邪気な面で楽しませてくれる一方で、勇猛なところもある。竜は竜騎士と共に外敵と戦うのが仕事だ。エレオノーラは対抗戦でしか見たことがないが、どの竜も試合会場に出てきた途端に顔つきが変わった。
人に慣れている竜でさえ、時には近寄りがたいと感じさせるのだから、野生種に遭遇したら生きた心地がしないだろう。エレオノーラが見ているのは、竜という生き物のごく一部でしかない。
エレオノーラは草の上で寝転んだ竜の隣に座った。季節は春にさしかかり、草原のあちらこちらで花が咲き始めている。まだ気温は低いが、こうして季節の移り変わりを目の当たりにすると、すぐそこまで春が来ていると感じる。
学校や研究所に引きこもりがちだった隣国の生活と比べると、かなり健康的で心に余裕ができた。夜中に不安な夢を見て目が覚めることがなくなり、笑顔になれることが増えたと自分でも思う。
――連れてきてもらって良かったな。
朝早く目が覚めて庭を散歩していたら、ディートリヒと竜が一緒に行こうと誘ってくれた。綺麗に整えられた庭もいいが、自然の中にいるのも良い気分転換になる。
ディートリヒが寝転ぶ竜の腹を撫でてやると、竜はもっとやれと言わんばかりに仰向けになった。
「昨日ね、生まれたばかりの竜が盗まれそうになった記事を見つけたよ。竜騎士から竜を盗もうとする人なんているんだね」
犯人は竜に激しく抵抗され、重症を負ったと新聞に書かれていた。
「孵化したばかりの竜なら、簡単に躾けられると考える者が一定数いるらしい。生まれたばかりの頃が一番危険なんだがな」
「そうなんだ。この子も危険だったの?」
自分のことが話題になっていると察した竜が頭をもたげた。だが飛んできた虫のほうが気になるらしく、視線はエレオノーラたちから離れていく。
「竜が人間と一緒に暮らすための常識を覚えてくれるまでは、力で教えることもある。だから竜の卵を得る儀式は、十七歳以上で体力検査を合格した竜騎士でないと参加資格がない。子供の腕力では抑えられないからな。心が繋がっている竜騎士ですら、苦労するんだ。竜が何を考えているのか分からない他人が、奴らの心を理解して共生するのは困難だろう」
「触ってほしい時は分かるようになってきたよ。ね?」
ちょうど竜の鼻先がエレオノーラの脇腹に当たった。撫でてやると、竜は目を細めてゴロゴロと鳴き始めた。
竜はエレオノーラには遠慮がちに鼻先で触れてくるが、ディートリヒには荒っぽく接触することが多い。特にディートリヒの頭や肩に、背後から顎を乗せるのが好きなようだ。前足で彼の体にしがみついている時もあった。
どれも甘える仕草だが、ちゃんと相手に合わせて力を加減してくれる。この使い分けに、ディートリヒと竜が過ごしてきた時間が集約されているような気がした。ディートリヒが人間との付き合い方を教えてくれたから、エレオノーラは安心して竜の隣に座れる。
「ディー。私はこの子を、どう呼んだらいいのかな?」
「どう、とは?」
「竜騎士は竜に名前を付けないって言っていたよね。心で繋がっているから、名前を呼ばなくても分かるって。でも私がこの子に話しかけたいときは、名前があると便利だな、って思ったの」
「名前か……」
ディートリヒは竜の角についていた土を払い落とした。
「……公式の記録に残していないだけで、竜騎士はみな、自分の竜に名前を付けているよ。声に出して呼びかけている騎士を、何人か知っている」
「名前、あるんだね。ディーも名前を付けたの?」
「ああ。名前が欲しいとうるさくてな。まだこいつが抱き上げられるぐらい、小さかった頃だ。名前を付けてもらった竜がいて、羨ましかったようだな」
竜はディートリヒの足にしがみついて、名前をもらうまで離れなかったらしい。
「どんな名前を付けてあげたの?」
「イレス・ルー。古語で『星が見えない月夜』を指す言葉だ」
真っ黒な体を夜空に、青い目を月に見立てた名前だろう。
星が見えない夜は魔獣の活動が活発になる。隣国では、方角を示す道具が狂って旅には向かない日と言われていた。
「古代人はイレス・ルーの日に竜脈の流れが早くなることに気がついて、未来を占う儀式に利用していたらしい。満月は過去や未来と繋がりやすいそうだ。彼らにとって、月は自分達を導く神の化身だと考えていたようだな。空から地上を見下ろす竜のような姿で描かれることが多い」
「過去と未来と繋がる……この子がいなかったら、私とディーは再会できなかったかもね」
「そうだな。エレンが攫われた時も、こいつがいたから間に合った」
この竜はいつも良い未来を運んできてくれた。特に戦場からディートリヒを連れ帰った時の、空から降りてくる姿は忘れられない。
「素敵な名前を付けてもらったね。私もその名前で呼んでもいい?」
竜はエレオノーラの膝に顎を乗せ、ディートリヒを見た。
「エレンなら呼んでもいい、だそうだ」
「ありがとう。これからもよろしくね」
エレオノーラは竜の顎に触れた。硬い鱗に守られた体は、滑らかで少し冷たい。
人間とは違う生き物だが、喜びを共有できる心がある。やはり不思議な存在だねとエレオノーラは思った。




