譲れないもの5
心の中が急激に冷えていく。どうやら怒りが限度を超えると、どこかで安全装置が働いて冷静になっていくようだ。
「……やはり、自分の役目ではありませんね」
「なぜです?」
ローザリンデは胸の前で両手を組んだ。望む答えが返ってこないことを嘆いているようだ。
「抱卵の儀で、あなたは守りたい人がいるから竜騎士になるのだと言いましたよね? 今の自分では手が届かないほど遠くにいるから、迎えに行くために竜を得たいと」
言った気がする。エレンと約束をしたから竜騎士になった。行方不明になってしまって、どこにいるのか分からない。空を駆ける竜なら遠くにいても探しに行ける。
会ったばかりの皇女に事細かく喋るつもりはなかったので、エレンの名前やサンタヴィルのことは明かしていない。そんな時間もなかった。当時のディートリヒは自分を選んでくれる竜を探すのに必死で、関係ない皇女の相手をするほど暇ではなかったはずだ。
抱卵の儀は竜騎士を志す者にとって、人生を決定づける大切な儀式。苦楽を共にする相棒と出会う場所だ。たとえ皇帝が儀式の最中に来たとしても、志願者たちは卵のことだけを見て、考えているから気がつかないだろう。
「あれは私のことではなかったのですか」
「違います。どうしてそのような誤解をなさったのか、自分には分かりません。皇女殿下の名は口にしておりませんし、守りたい人だと宣言したこともない」
ローザリンデはきつく手を握った。
「でも! でもね、考えてみて。私たちなら幸福の象徴になれるのよ。私もあなたも、この国で名前を知らない人なんていないわ!」
「戦争への不安は結婚の話題程度で誤魔化されるほど軽くない。最も効果的なのは、身に迫る危険から守ってくれる壁があると実感させてやることです。それは我が国の外交力や武力など、総合的な力でなければいけない。目を逸らせば一時的には幸福に浸れるでしょうが、話題に飽きた時に揺り戻しがくる。皇女殿下は婚姻以外の策を持っておられますか」
答えは返ってこない。答えられないのだろう。ローザリンデはうつむいてしまった。
少しきつく言い過ぎたかと、内心で反省した。
「他人の慶事を眺めているよりも、自分にかけられた情けのほうが救いになる。国民を癒したいとおっしゃるなら、傷ついた騎士や遺族を慰問なさったらいかがですか。俺一人に執着するのではなく」
ローザリンデが顔を上げてディートリヒを見上げた。決意するような目だ。
「ここへは仕事で来ていると言ったわね。この場で結婚を命じてもいいのよ。国益のためなら、皇女にも竜騎士へ命令する権限があるわ。竜騎士の職務に忠実なあなたなら、命令違反はしないはずよね?」
どうしても引く気になってくれないらしい。
ディートリヒは小さくため息をついた。
「……正式に発令された命令なら、従わなければいけませんね」
「じゃあ」
ローザリンデの顔が明るくなった。
「では俺は竜騎士の職を退くことにします」
「……え?」
まるで未知の言語を浴びせられたように、ローザリンデは笑顔のまま首を傾げた。
「竜騎士であることがエレンとの結婚を困難なものにしているわけでしょう? ならば退職すればいい」
「何を言っているの。そんなの、許されるわけないわ。だって、あなたは英雄になったのよ? 竜騎士を辞めた程度では逃げられないわ」
「この国が俺とエレンの結婚を許さないというなら、出ていくだけです」
「あなたが積み上げてきた功績も、名誉も、全て捨てるというの? たった一人のために?」
「順序が逆です。エレンとの約束がなければ、そもそも功績を積むことも、国の誉れとなることもありませんでした。だから彼女のために全てを捨てることになっても惜しくない」
ふらふらとローザリンデが後ずさった。足がソファに当たり、力なく座りこむ。
「どうして……私だって、あなたが好きなのに」
呼吸が荒い。ローザリンデは切なげにディートリヒを見つめている。
「俺は皇女殿下のことを知りません。交流どころか手紙のやり取りすらしていないではありませんか」
「これから知っていけばいいわ。なんでも答えるわよ」
「諦めてください。皇女殿下が何をなさろうと、俺の人生を満たしてくれる人はエレンだけです」
ローザリンデは涙を浮かべた目でディートリヒを睨みつけた。
「誰か、彼を捕まえて!」
「諦めよ。そなたの負けだ」
穏やかだがよく通る声だ。広いサロンのどこにいても届くだろう。
声を聞いたディートリヒは、皇女に背を向けて片膝をついた。聞き間違えるわけがない。表彰式で対面し、ねぎらいの言葉をかけてもらったばかりなのだから。
「挨拶は省略だ。立ちなさい」
「は」
予想通り、サロンに入ってきたのは皇帝だった。常に微笑んでいるかのような表情で、内心を読み取れない。
「……お父様」
「娘のわがままに付き合わせてしまったな」
皇帝は娘の呼びかけには応じず、ディートリヒに言った。
「表彰式でも聞いたが、余の娘と婚姻する気はないのだな? そも、交際すらしておらぬと」
「はい。皇女殿下に懸想をしていた事実などありません」
「余は竜騎士を無駄に失うことは望まぬ。命令で余の娘と婚姻させることはない。引き続き、国に残ってくれるな?」
「はい。婚約者に危害を加えられない限りは」
ディートリヒが最も恐れていることだ。自分が原因でエレンに何かあったら、悔やんでも悔やみきれない。
己の思惑とは違う方向へ話が進み、ローザリンデの顔が青ざめた。皇帝の力は国全体に及ぶ。皇帝があり得ないと宣言したことは、家族といえども覆すことは許されない。
「婚約者の名は?」
ディートリヒがエレンの名を告げると、皇帝はうなずいた。
「ディートリヒ・フォン・ハインミュラーとエレオノーラ・ローデンヴァルトとの婚姻を寿ぐ。末長く共にあれ」
続いて皇帝は、サロンの端で事態を静観していた記者へ向かって言った。
「何をどう書くかは裁量に任せる。だが、慶事に水を差すことのないように。この国の出版物は、余も目を通している」
「は……はい。最大限、配慮します……」
記者にとっては、このサロンで起きたことを書くなと言われたも同然だ。事前に警告しておかないと、際限なく暴いてしまうのだから仕方ない。取材したことが無駄になるなんて珍しくない業界だろうし、きっとすぐ立ち直るだろう。
「さて、ローザリンデ。最初から道は交わっていなかったようだ」
皇帝はようやく娘に語りかけた。
「そんな……でも……」
「思い違いはよくあること。だが我らの過ちは多くの民を惑わせる。ディートリヒがそなたの名誉を重んじて対策を講じた意味を、よく考えよ。ローザリンデという一人の女性だからではない。皇女だからだ」
「私が、間違っていた……」
ローザリンデの目から涙がこぼれた。
「おかしいとは思っていたのよ。でも信じたくなかった……」
「感情で走っていけるのは若者の特権。良き薬になったな」
皇帝がサロンを出ていく。ディートリヒも追従して外へ出た。泣いているローザリンデは、見守っていた代理人やメイドたちが相手をするだろう。ディートリヒは酷い男だと彼女たちの心に刻まれるかもしれないが、下手に慰めの言葉をかけるほうがローザリンデを傷つける。
同期からナイフを返してもらい、元通りに袖の中へ隠した。
「なんつーか、大変だなお前。上位の成績だったのに近衛を希望しなかったのは、こうなることを予想してたからなのか?」
「いや、西方にはサンタヴィルがあるからだ。だが……近衛隊に入らなかったのは正解だったかもしれないな」
ますますローザリンデの勘違いが加速して、知らない間に皇女の婚約者になっていたかもしれない。皇族に仕える女性の使用人や、上流階級の女性も加わって、面倒なことに発展していた可能性もあった。
「俺もそう思う。入っていたら、職場で愛憎劇が繰り広げられていたかもな。それもディートリヒの意見なんて一切、関係なしに」
「笑うな。そうなったらお前も巻き込んでやるからな」
「怖い怖い。そうだ、手紙。返すよ」
手紙を受け取ったディートリヒは封蝋を確認した。封は開けられておらず、渡したときのままだ。
「それ、なんだったんだ?」
皇女から不敬だと訴えられた時のために用意していた。ディートリヒがいくら弁明しても、皇族の発言力のほうが強い。また皇帝が娘を止めにサロンへ来るなど予想していなかったので、事態がどう転んでもいいように書き記していた。
ディートリヒは用済みになった手紙を破り、簡潔に答えた。
「遺書だ」
Q:遺書はいつ書いたの?
A:母親に警告された後です。
Q:内容はもちろんエレンの待遇とかエレンの将来とか、とにかくエレンに関することですよね?
A:はい。




