孤独な雑用魔術師4
翌日、エレオノーラはすっきりとした朝を迎えた。体の疲れは少し残っているものの、熟睡した感じがする。寝ている間の夢も、仕事に追われる類の悪夢ではなかった。
――なんだろう。すごく懐かしい光景だったような。
子供の頃を追体験していたような気がする。残念ながらエレオノーラは孤児院に入る前のことを思い出せないので、それが本当に自分の経験なのかは分からない。
ベッドから出る前に、自分の体に毛布がかかっていることに気がついた。恐らく寝ている最中に寒くなって、潜りこんだのだろう。
黒トカゲを探すと、テーブルからじっとエレオノーラを見ていた。
「おはよう。トカゲさんは眠れた?」
話しかけても、やはり声は聞こえてこない。ただいくつかの感情が渦巻いているのを、うっすらと感じ取れるだけだ。
「今日ね、これから仕事なんだ。だから家で好きにしててね。怪我が治ったら、契約は解除するから」
シャワーを浴びて仕事用の服を着ている間、黒トカゲはずっとエレオノーラに背中を向けていた。だがカバンを持って家を出ようとすると、ローブについているフードの中へ入ってきた。
「研究所までついてくるの? 大丈夫だと思うけど、他の人には見つからないようにしてね」
見つかったところで、弱い羽トカゲだ。エレオノーラが馬鹿にされて終わりだろう。強い魔獣と契約できないことは、もう全員が知っている。
不安な気持ちのまま職場へ向かったが、幸いなことに誰も黒トカゲのことを気にしなかった。どこかの騎士団から回復薬の注文があったらしく、朝から薬草の調合で忙しかったのもあるのだろう。エレオノーラは材料の下準備や出来上がった薬の運搬で、あまり部屋にいなかった。
ヨハンナや先輩たちは久しぶりの激務で疲れたのか、注文された量を作り終えると、さっさと帰り支度を始めた。主任は片付けが終わったら帰るよう言い渡し、自身の研究室へと引き上げていった。もちろん使った道具を洗っておくのはエレオノーラの仕事だ。
余った材料を保管庫へ戻しに行ったとき、黒トカゲが足元に寄ってきた。
「えっ。いつの間にフードから出てたの?」
黒トカゲは相変わらず答えない。手を差し出すと、器用にエレオノーラの腕を伝って肩に乗った。
「同期のヨハンナって子は、トカゲとか蛇が苦手なの。だから見つからないように気をつけてね。きっと炎か氷で攻撃してくるから。私の近くにいないと、先輩たちは実験生物だと思うかもね。生きたままお腹を切られるのは嫌でしょ?」
返事をしてくれない黒トカゲでも、話しかける相手がいると片付け作業がいつもより早く進んだ。戸締りをして研究所を出ると、まだ空に太陽が見える。
残業がない日が続くなんて、幸せすぎて怖い。
「トカゲさんが幸運を運んできてくれたの?」
フードから顔をのぞかせた黒トカゲは、まるで人間のように首を傾げた。
黒トカゲを拾ってから、エレオノーラの生活が少しずつ変化してきた。まず残業が少なくなったことで、自宅に帰る時間が早くなった。黒トカゲはいつもエレオノーラについてくるので、家で休ませてやりたかった。エレオノーラが家で眠りたかったのもある。
聞き上手な話し相手ができたことも、嬉しい変化だ。自分が一方的に話しかけているだけだが、黒トカゲはじっとこちらを見て聞いているそぶりを見せる。理解していなかったとしても、曲解して周囲に広めたりしないというだけで十分だ。
「最近、帰るのが早いね」
給湯室で使ったカップを洗っていると、ヨハンナが話しかけてきた。彼女は小さなカバンを待っている。帰るついでに寄ったのだろう。
「出張で人が減ってるからじゃないかな」
エレオノーラに回される雑用が、明らかに減っていた。一人一人に任される量は少なくても、人数が多ければエレオノーラの負担が増える。
「明日は休みなんだっけ?」
「たまには家の掃除がしたいから」
「掃除? えっ……自分でやるの?」
「うん。洗濯も料理も自分でやるよ。だから、もう帰るね。明日も忙しいの」
ヨハンナが来たのは、主任に任されている仕事の手伝いを頼むためだろうか。だがエレオノーラが休日にメイドのようなことをしていると聞いて用事を忘れてしまったのか、理解できないといった顔で困惑している。
「そんなの、誰かを雇えばいいのに?」
「メイドを雇えるほどの給金をもらってないの。それにね、自分の家のことは自分で管理したいから」
フードの中で黒トカゲが動く感触がした。いま見つかったら、エレオノーラごと焼かれるかもしれない。急いで洗ったカップをカゴに入れた。
「じゃあ、もう行くね」
「あっ……」
引き止めようとしてきたヨハンナには悪いが、せっかく助けた黒トカゲを丸焼きにしてほしくない。守れるのは自分だけだと思うと、今までのように流されるまま引き受けていてはいけないと思うようになった。
給湯室から戻ると、先輩たちはすでに帰ったあとだった。誰もいないなら、エレオノーラも帰りやすい。照明を消して扉を施錠して、研究所の守衛に鍵を預けた。
研究所の敷地を出る直前、誰かに見られている気がして振り返った。だが背後にあるのは研究所の建物だけだ。
「……気のせいだよね?」
無表情でこちらを見下ろすヨハンナは、きっと幻だ。その証拠に、すぐに見えなくなった。夢に出てきそうな光景を幻視してしまうなんて、日頃の疲れが溜まっているのだろう。
早く帰ろうねと黒トカゲに話しかけると、フードのなかでクルルと鳴く声がした。