譲れないもの3
決勝戦に出場する騎士が招待した客は、貴賓席で観戦できる。闘技場の職員に案内されてマリアンネと共に向かっていると、騎士に警護された女性が見えた。
艶やかな銀髪に、宝石のような澄んだ緑色の瞳をしている。佇まいから高貴な身分の一人なのは間違いない。女性はマリアンネを見つけると、親しげに微笑んだ。
「ハインミュラー夫人、お久しぶりです」
「皇女殿下もお変わりなく」
エレオノーラは挨拶をするマリアンネから離れ、壁際まで下がった。できる限り目立たないよう、息を潜めて会話の終わりを待つ。高貴な人とは関わりたくなかった。
隣国で学生をしていたとき、王族の学生は絶対に逆らってはいけない存在だった。成績で彼らよりも上になると、教育と称して指導が入る。何をされるのかは、王族の気分で決まった。他にも気に入らないことがあれば校則違反扱いされ、成績に響く。幸い、同学年にはいなかったので理不尽な命令をされることはなかったが、できれば会いたくない人たちだった。
「あなたは、ディートリヒの知り合いよね?」
終わった――エレオノーラは己の不運を呪った。この国で絶対的な権力を持つ皇族に目をつけられてしまった。彼女に気がつくのが遅れて、道を塞いでしまったのだろうか。それとも平民ごときが貴賓席の近くにいたのが気に障ったのか。
エレオノーラは絶望的な気持ちを押し殺して、皇女ローザリンデに頭を下げた。
「高貴なかたにお声がけをいただき、光栄です。どのようなご用件でしょうか」
王族の要求に応えられず、学院を去った人を知っている。彼がどこへ行ったのかは知らないが、きっとまともな職にはありつけないだろう。
闘技場から去れという命令で済めばいい。この国から出て行けと言われたら、ディートリヒに二度と会えなくなる。
ローザリンデには理不尽な命令を許されるだけの権力があるとエレオノーラは信じていた。隣国の王族に可能だったのだ。広い領土を抱える帝国の姫にできないことはない。
「そ……そこまで萎縮しなくても……」
死刑判決を待つつもりで立つエレオノーラにかけられたのは、動揺したローザリンデの声だった。
もしかして罠だろうかとエレオノーラは思った。油断したところに絶望を与える手法を聞いたことがある。
「ディートリヒの応援に来たのでしょう? 一緒に観戦しようかと思っただけよ」
「観戦……? あ、あの……今すぐ二階から飛び降りろとかいう命令ではなく……?」
「し、しません! どうしてそんな発想が出てくるの!?」
「王侯貴族とはそういうものだから、どんな理不尽でも耐えろと教育を受けたので……つい……」
「あなたの教育係はどうかしてるわ!」
隣国では真っ当な教育だったのだが、もしかして竜皇国は違うのだろうかと思い始めた。護衛や付き人の女性たちがエレオノーラを嘲笑せず、困ったような顔で待機しているところも違う。
「皇女様って見た目は可憐だけど実は――」
「かわいそうに、あんなに怯えて……」
遠巻きにローザリンデを見物していた客から、そんな囁きが聞こえてきた。
「表裏が激しいタイプだったのか」
「いやいや、同性にはきつい性格なのかも。新聞に書かれている姿が本当かどうかなんて、俺たちには分からないし」
「わ、私は理不尽な命令なんてしてませんよ! きっと緊張なさっているのね。大丈夫よ、少しお話ししたかっただけですから」
王族や貴族が言う話し合いとは、味方が一人もいないお茶会のことではなかっただろうか。服装から茶器の持ちかたまで目につくもの全てを否定される、王族女性による吊し上げだ。
「エレンさんは外国暮らしが長かったから、感性が独特なのね」
ただ一人だけ、マリアンネは愉快そうに笑っていた。
「もうすぐ試合が始まってしまうわ。せっかく皇女殿下が誘ってくださったのだから、ご一緒しましょう? 私も隣にいるから大丈夫よ」
さあ早くと促され、エレオノーラは胃が痛くなる思いだった。ここはマリアンネを信じて行くしかない。
――応援するってディーに言ったから、ちゃんと試合を見ないと。
ようやく貴賓席に到着したエレオノーラは、なるべくローザリンデから距離をとった。
「……座らないの?」
ローザリンデは立ったままのエレオノーラを振り返った。
「いえ、私は壁際でいいです」
むしろ壁になりたい。誰にも邪魔をされずにディートリヒの試合に集中していたかった。
「エレンさん、そこだと場内が見えないわ。あの子が張り切っている姿を見逃したくないでしょう?」
「そうですね。あの……お隣、失礼します」
案内係が引いてくれたイスは、ローザリンデとマリアンネの間だった。ローザリンデが指示をしたから、そこしか選択肢がなかったとも言える。
「ハインミュラー夫人の言うことには素直に従うのね……」
「人生経験の差ですよ、皇女殿下」
エレオノーラが緊張していたのは、試合が始まるまでだった。順調に勝ち進んでいくディートリヒを見ているうちに、隣にローザリンデがいても気にならなくなっていた。
「このままだとディートリヒは連戦になるのね」
対戦表を確認していたマリアンネが言った。場内には試合が終わったばかりのディートリヒがいる。退場せずに待機位置まで下がって、竜の背中をなでていた。
「不利ですね」
ローザリンデが入場してきた竜騎士を見て言う。試合をよく理解していないエレオノーラに微笑んだ。
「竜に疲れが溜まったまま戦わないといけないのよ。だから連戦で勝つ竜騎士は少ない。しかも相手は何度も決勝戦に出場している相手よ。残念だけれど、優勝は難しいかもしれないわ。ほら、翼を下にしているでしょう? 体力を温存させたい気持ちの現れよ」
「……そうでしょうか」
エレオノーラは反論してから、相手が皇族だったと思い出した。だがディートリヒの負けを確信しているような言い方をされて、止める気はなかった。
「彼の竜は戦意を失っていません。尻尾の揺れが、機嫌がいい時と同じなんです。しかも落ち着いていて、ディートリヒさんの命令に素直に従っている。反対に、相手の竜は前へ前へ出ようとしていますよね。騎士が手綱を強く引いて、暴走しそうな竜を制御しようとしているような気がします」
試合が始まると、相手の竜は一気に前へ駆け出した。気が急いた攻撃が当たるわけがなく、ディートリヒは冷静にかわしていく。相手が竜を退かせて攻撃方法を変えようとした隙をついて、ディートリヒが勝った。
「そんな……今まで予想は外したことがなかったのに……」
「エレンさんは息子の竜をよく観察しているのね。色々と規格外だから、常識が当てはまらないのよ」
歓声がわく中、マリアンネは席を立ってローザリンデに断りを入れた。
「知り合いに挨拶をしてきます。表彰式が終わるまでには戻ってくる予定です。エレンさん、それまで待っていてくださる?」
「はい」
座って待っているだけなら簡単だ。さらにディートリヒが表彰されているところを見られるのだから、暇でもない。
マリアンネが貴賓室を出ていくと、ローザリンデがエレオノーラに話しかけてきた。
「あなたとディートリヒが婚約したと聞いたわ。無理していない?」
「無理、ですか?」
心から心配しているような様子だった。心当たりがないので聞き返すと、ローザリンデは物憂げにため息をつく。
「英雄の妻は守られるだけでは駄目なのよ。常に他人から見られているわ。あなたの言動が、彼の評価にもつながっているの。その重圧に耐えられる? 好きな気持ちだけでは、彼の負担になるわよ」
エレオノーラは途中から皇女ではなくてディートリヒを見ていた。
賞賛を浴びている姿はローザリンデが言う英雄を連想させる。
華やかで、完璧。黙って立っているだけで絵になる。表情の乏しさは欠点になるどころか顔立ちの良さを際立たせていた。
エレオノーラに好きだと言った時とは、まるで違う。仕事をしている時の顔だ。
「今まで他人から監視されているような生活をしたことがある? 何かをしたいと思っていても、立場に相応しくないから駄目だと言われるような。これから先、ずっと続いていくのよ。婚約する判断が早すぎたんじゃないかと心配なの」
ローザリンデの思惑に気がつかないほど、鈍感ではなかった。彼女がディートリヒを見る目は、憧れと切なさが混在している。
自分ならディートリヒに相応しい完璧な妻になれる――そう言われて、反抗心が芽生えた。
誰もが憧れる高貴な身分のローザリンデには、彼女にしか分からない苦労があったのだろう。行動を制限されて、自由に遊びに行くなんてできないはずだ。疲れていても公務では笑顔でいないといけない。数少ない自由の中で、伴侶だけは自分で選びたかったのかもしれない。
ようやく見つけた理想の人なら反対意見は出ないと確信したのに、別の人と婚約してしまった。だから不安を煽って、思いとどまらせようとしている。
「私から婚約を解消することはありません。何も持っていない私を受け入れて、危険を冒してまで私を助けてくれた人を裏切ることになるから。あの人が私を嫌いになって申し出ないかぎり、私は彼に相応しくなるために努力するだけです」
エレオノーラはローザリンデに向かって、はっきりと言った。
ずっと孤独だった。死ぬまで同じ生活が続くだろうと思っていたところに、呪いをかけられたディートリヒが迷いこんで、周囲の状況が一変した。皇国に戻ってきたばかりのエレオノーラだったなら、気後れしてローザリンデの提案に乗ってしまっただろう。だがディートリヒが惜しみなく愛情を伝えてくれるから、幸せを求めてもいいのだと考えられるようになった。
ようやく毎日が楽しいと思えるようになったときに、大切な人を奪わないでほしい。
たとえ相手が皇女だろうと、横恋慕で婚約者を奪っていいわけがない。
「努力が身を結ぶとは限らないわよ」
ローザリンデは悲しそうだった。エレオノーラを同情しているようにしか見えない。
「でも行動しないと何も変わりません」
「一人で頑張り続けるのは辛いのよ」
「一人じゃありません。支えてくれる人たちがいるんです」
「それはディートリヒの関係者じゃないの? 彼の人脈を頼っているだけじゃ駄目ね」
「そうですね。だから、これからは自分でできることを増やしていく段階なんです。助けてくれた人たちに恥じない生き方をしたいから」
今は付与を教えてくれたフリーダと相談しつつ、就職先を探している最中だ。ディートリヒは働かなくてもいいと言うが、父親と同じ仕事で腕を磨きたかった。いつかディートリヒが使う鞍に、守護を付与するのが目標だ。
「協力者たちは仕事だから援助をしてくれただけかもしれないわよ。それでも、その考えを貫けるの?」
「仕事でも、私は親切にしてもらえて嬉しかった。今まで私のことを気にかけてくれる人なんていなかったから。私がいた職場の待遇が悪すぎるって、自分のことのように怒る人がいるなんて知らなかった。ひどい環境にずっといると、感覚が麻痺してくるみたいです」
エレオノーラの意見は、ローザリンデには通じなかったようだ。理解できないと言いたそうな表情になった。
「今の私の幸せは、全部、ディートリヒさんが助けてくれたから実現しました。だから今度は、私が彼の助けになりたい。皇女殿下のように隣に立って同じ方向へ進むことだけが、夫婦の在り方だとは思いません。それにディートリヒさんなら、押し付けられた英雄像なんて関係ない、無視だって言うでしょうね」
「よく分かっているわね。そうよ、あの子は強制されるのが嫌いなの」
花のような香水の香りがした。戻ってきたマリアンネがエレオノーラの肩に手を置く。
「あまり義理の娘になる子をいじめないでやってくださいな。心配していただいたことは、ディートリヒも承知しているでしょう。社交界の歩きかたは私が時間をかけて教えていく予定ですから、どうかご心配なさらないよう」
ディートリヒに似た顔立ちで、マリアンネは華やかに笑った。
言葉に詰まったローザリンデは、ぎこちない笑顔を浮かべて立ち上がった。
「そう。それならいいのです。見えない苦労があると理解しているなら、私から言うことはありません。先に失礼するわ」
ローザリンデが帰る意思を見せると、護衛が先に貴賓室を出て周囲の安全を確かめた。ローザリンデはエレオノーラを見て何かを言いかけたが、思いとどまったのか無言で出ていった。
「私が見込んだ通り、一人で撃退できたわね」
「皇女殿下はディートリヒさんを横取りできる権力があると思ったら、悔しくて」
「あら可愛い動機ね。ますます気に入ったわ」
マリアンネは座って場内を見下ろした。
決勝戦の優勝者は、観戦していた男性皇族から小さな箱に入ったものを手渡されていた。ディートリヒは手渡された後に何かを囁かれ、否定するように首を横に振る。
「皇女殿下がディートリヒさんを慕っていること、ご存知だったんですか」
「何度も婚約を持ちかけられていたのよ。内密にね。あの子には知らせていなかったけれど」
「なぜですか?」
「女の子との約束を守るために竜騎士になって、休暇のたびに探し回る姿を見ていたら、他の女性と婚約しなさいなんて言えないわ。さらに外国で見つけて連れて帰ってきたでしょう? ここで引き離したら、一生、恨まれてしまうわ」
ふとディートリヒが貴賓席がある方向を見上げた。目が合ったような気がして手を振ると、彼の表情が和らいだ。




