譲れないもの2
馬車の小さな窓から見える街並みは、レイシュタットよりも長い歴史を有している。だが古臭さはなく、皇都の名に相応しい気品があった。
「皇都の建物は緋色なんだね」
「都を区画整理したときに縁起がいい赤を選んだというのが通説だが、当時は頑丈で安く、大量に作れたのが赤レンガだったらしい。だが実際に建物を建設してみると、見栄えが良かったんだろうな。今ではどこへ行っても赤ばかりだ」
「お金と材料がないと作れないもんね」
裏事情を知っても街並みから受ける印象は変わらない。
馬車が目的地に近づくと、ディートリヒは残念そうにしていた。
「二人きりの時間も終わりか」
「……そうだね」
エレオノーラは逆に馬車の中から解放されたいと思っていた。
お互いに好きだとわかったときから、ディートリヒはエレオノーラに対して気持ちを隠さなくなった。朝は挨拶よりも先にエレオノーラに会えたことに喜び、今日も可愛いやら服装が似合っているなどと言って褒めてくる。
じっと見つめてくるから何かあったのかと聞けば、エレオノーラが好きだから見惚れていたと、さらっと言う。
さすがに何日も続くので褒めすぎではないかと指摘すると、考えていることの一部が表に出ただけだとディートリヒに反論された。もし際限なく出てくるようになったらどうしようとメイドたちに相談しても、いい笑顔を浮かべた彼女たちに、諦めてくださいとしか言ってもらえなかった。
人前では節度を保って接してくれているぶん、二人きりになったときの差が激しい。無闇に触ってこないことだけが救いだ。
今までエレオノーラを褒めたり、好意を全面に押し出してくる人なんていなかった。
竜皇国へ来てから、ひたすら甘やかされている。嬉しくないと言えば嘘になるが、もう少し手加減をしてほしい。適度に休憩を挟まないと心臓が疲労で死ぬ。
馬車が止まって、扉が開いた。すかさずディートリヒは先に降りてエレオノーラに手を貸す。馬車の車体に固定されている踏み台は、少し細くて足を乗せられる幅が狭い。踵が細い靴を履いていると踏み外しそうになるので、手助けしてくれるのは助かる。
エレオノーラが今まで乗ったことがある、馬車という名の荷車とは大違いだ。
「楽しそうね」
手を握ったまま離さないディートリヒに言うと、楽しいと率直に返ってきた。
「この後に決勝戦が控えていなければ最高なんだが」
本気で残念そうだ。
竜脈を使ってレイシュタットから皇都へ移動したエレオノーラたちは、集合時間になるまで繁華街を散策することにしていた。行動範囲は会場となる闘技場の周辺に限られてしまうが、初めて訪れるエレオノーラには何も問題なかった。
しばらくは闘技場へ向かう人の流れに乗り、適当なところで脇道へ入った。脇道といっても馬車も行き交う大通りに比べて道幅が少し狭くなるだけで、人や店舗の多さは変わらない。戦勝記念日の混雑を体験した後だからか、歩きにくさは感じなかった。
大道芸を見たり適当な店を冷やかしたあと、ディートリヒは香水を扱っている店へ入った。
「ここでは好みに合わせて香水を調合してくれる。よければエレンの好きな香りを贈りたい」
「ありがとう。香水は興味があったけど、調合してくれるお店は入りにくかったの」
すでに調合してあるものなら一つだけ買ったことがある。職場へつけて行くのは禁止されていたから、ただ香りを楽しむか、滅多にない休日につけるだけだった。
店員に奥へ通されて、好みを質問されることから始まった。実際に香りをかいで何種類か選び、組み合わせてもらう。最後は三つの香水瓶の中から気に入ったものを選んだ。
「お待たせ。暇じゃなかった?」
香りを選んでいたエレオノーラはともかく、ディートリヒはただ待っているだけだ。
「全然。エレンを見学していれば暇なんてすぐに潰せる」
「笑顔で言われると返事に困るわ」
聞いていた店員が微笑ましそうにしているのも、恥ずかしさを倍増させていた。
「素敵な恋人ですね。商品をどうぞ」
出来上がった香水は、小さなガラス瓶に入っていた。繊細な装飾が施された瓶は、中の香水がなくなっても飾っておきたいほど可愛らしい。
店員は香水がこぼれないように、小箱に入れて緩衝材を詰めてくれた。持って帰って目立つところに置くのが楽しみだ。
まだ時間に余裕があったので、闘技場に近い喫茶店に入った。混雑している様子だったが、ディートリヒを発見した店員がすぐに見晴らしのいい二階のテラスへ案内してくれた。上空には、やはり竜が飛び回って警備をしていた。
往来を見下ろしながら果物入りの紅茶を飲んでいると、皇都に住んでいるかのような気分になる。
「エレン」
ディートリヒは手のひらに乗る大きさの小箱をテーブルに置いた。
「婚約をした記念に、受け取ってほしい」
「指輪……?」
箱を開けると、白いクッションの上に細い指輪が乗せられていた。白に近い金の台座に空色の宝石がついている。冷やかしに入ったつもりの店で、エレオノーラが気になっていたものだ。
「いつの間に買っていたの?」
「エレンが香水を選んでいる間に」
わざわざ店へ戻って買ったということらしい。
「ありがとう。つけてみてもいい?」
「ぜひ」
エレオノーラが受け取ると、ディートリヒは安堵した様子で箱から指輪を出した。割れ物を扱うようにエレオノーラの左手に触れ、優しい手付きで薬指にはめた。
ディートリヒに指輪のサイズを話したことはなかったのに、ちょうどいい大きさだ。
「あなたに指輪のサイズを教えたのは、ベティーナ? それともリタ?」
「両方だ」
「その光景が目に浮かぶわ」
きっと二人で交互に話しながら、サイズだけでなく装飾にも言及したはずだ。皇都へ出発する二日ほど前に、どんな指輪が好きか聞かれて、話した覚えがある。
「レイシュタットに帰ったら正式なものを作ろうか。それまではこれで我慢していてくれ」
「この指輪も十分、素敵よ。新しく作らないといけないの?」
「ああ。我が家の伝統でもある」
好きだからという気持ちで物を贈られるより、素直に納得できた。結婚したらディートリヒの家系にも深く関わるようになってくる。
自分でいいのだろうかと不安がよぎったとき、遠くから時計塔の鐘の音が聞こえてきた。
「残念ながら時間だな」
集合時間が近づいてきている。ディートリヒは闘技場の控え室に、エレオノーラはマリアンネと合流して観客席から観戦することになっていた。
「あっという間に終わっちゃったね」
「また遊びに来ようか。今度は仕事がない日に」
「うん」
喫茶店を出たエレオノーラたちは、マリアンネとの待ち合わせ場所へ向かった。闘技場の前にある車止め付近で待っていると、到着した馬車の中からマリアンネが降りてきた。
「待たせてしまったわね。早く出てきたのに、道が混んでいたのよ」
「許容範囲内です」
「まあ。可愛くない息子ね。子供の頃は、私の顔を見るだけで笑顔になってくれたのに」
呆れたようにディートリヒはため息をついた。
「いつの話をしているんですか。場所を選ばす懐古するようになったら、老化の始まりですよ」
「ほら、可愛くない」
そう言いつつもマリアンネは楽しそうだった。
「観客席から応援してるね」
怪我に気をつけてと言うと、ディートリヒは小さく笑った。
「無様な負けかたはできないな」
「そうよ。ハインミュラー家の名に恥じない戦いかたをしなさい」
ディートリヒが集合場所へ去っていくと、マリアンネは懐かしそうに闘技場を見上げた。
「私の夫はね、優勝したことがあるのよ。その重圧が嫌で別の道へ行こうとしていたのに……戦いかたまでそっくりって言ったら、どんな顔をするでしょうね」




