譲れないもの
休暇が明けてから、ディートリヒの機嫌がいい。無表情なのは変わらないが、無愛想さが減っている。絶対にエレオノーラ関連でいいことがあったのだろう。
「……休暇中に何かあったのか?」
昼の休憩時間になり、クルトは思いきって尋ねてみた。本当は惚気話を聞かされそうなので話しかけたくなかった。だが『隊長がご機嫌すぎて逆に怖いです』と怯える部下に嘆願されて、仕方なく犠牲になることにしたのだ。
別に理不尽な訓練を強制してくるわけでもないのだから、そこまで怖がらなくてもいいのにと思う。
「エレンと正式に婚約することになった」
クルトの苦労など知らないディートリヒは、嬉しそうに予想を裏切らない報告をしてきた。
「だろうな。で、隊長が不在にしている間の業務なんだけど」
原因さえ分かれば十分だ。男同士で恋の話なんてしても楽しくない。クルトは話題を切り替えた。
もうすぐディートリヒは決勝戦で皇都へ出張する。その間はクルトが隊長の業務を代行することになっていた。面倒な行事予定はないので聞かなくても支障はないが、他に適当な話題がない。
「ちょうど訓練期間と重なっているが、俺がいなくても大丈夫だろう。初戦で敗退したら訓練最終日には顔を出せる」
喋るうちにディートリヒは気分が下がってきたらしい。通常通りの彼に戻っていた。
「ディートリヒ?」
「行きたくない……」
憂鬱そうなディートリヒから、弱音が出てきた。珍しい現象に遭遇したクルトは思わず窓の外を見た。今日は雪が降るかもしれない。
「……まさかとは思うが、お嬢さんと離れたくないからか?」
「ああ」
「即答かよ」
レイシュタットから皇都まで、竜で普通に飛べば丸二日かかる。往復で四日かかるところを、決勝戦の期間中は特別に竜脈を使って移動することが認められていた。
竜脈を使えば大幅に移動時間を短縮できるようになり、数分で行き来できる。それでもディートリヒは不満そうだった。
「決勝戦は家族も呼べるんだろ。連れていけば?」
「俺の目が届かないところで、エレンに何かあったらどうするんだ」
「それ、レイシュタットにいても同じことだよな」
「自宅なら、護衛がいる」
「大切に守るのもいいけどさ、監禁にならないようにな」
ディートリヒは痛いところを突かれたのか、黙ってしまった。
今までは体調不良や資格試験などで外出を控えていたようだが、いつまでも家にこもっているわけにはいかない。竜騎士という職業柄、ディートリヒが長期にわたって不在にするときもある。全く外へ出ない生活が、彼女のためになるとは思えない。
「治安が悪い区域と、夜中に出るなって教えておけば十分だと思うけどね。あのお嬢さん、危険なことには敏感っぽかったし」
「分かっているんだけどな……」
「ま、徐々に慣れていけよ。お前も、お嬢さんも」
なんでアドバイスしてるんだろう――クルトはいつの間にか戻ってしまった話題に首を傾げた。
***
自宅の車寄せに見覚えのある馬車が停まっているのを見て、ディートリヒは嫌な予感がした。いつもなら騎乗後の手入れは自分でやるのだが、厩舎係に竜を任せて家へ向かう。竜はディートリヒの心情を察して、大人しく厩舎係に鞍を外してもらっていた。
庭を通って建物内へ入ると、アルバンが出迎えに来ていた。
「マリアンネ様がお越しです」
「……やはりか」
マリアンネは母親の名前だ。
エレンとサロンにいると聞いて不安がよぎったが、カサンドラも一緒にいるらしいので、気まずい空気にはなっていないだろう。
制服のままサロンに入ると、予想よりは和やかな空気が流れていた。
ディートリヒと同じ黒髪をした女性が、堂々とした態度で座っている。マリアンネだ。そこそこいい歳になるはずだが美貌はあまり衰えておらず、記憶の中の姿とほぼ変化がない。父親が亡くなってから再婚の話がいくつも来ているが、全て断っているらしい。
マリアンネの両隣にはカサンドラとエレンが座っている。エレンはディートリヒが入ってくると、おかえりと言う代わりに微笑んだ。もし室内に二人きりだったら抱きしめていたのに残念だ。
マリアンネは制服姿の息子を咎めるような視線をよこした。きっと着替えもせずに来たのかと言いたいのだろう。
「なぜここにいらっしゃるのか、理由をお聞きしてもよろしいか」
「あなたの婚約者に会いにきたのよ」
エレンと婚約を取り付けたことは、まだ母親に知らせていない。おそらく晩餐会の後に発刊された新聞でも読んだのだろう。
「ディートリヒ、あなたね、全く知らせていなかったでしょう?」
カサンドラが呆れていた。
「連れて帰ってきた経緯とか、同棲している理由とか、いつまで黙っているつもりだったの?」
「……近日中に、手紙を出そうかと」
「あなたの近日って何年後でしょうね」
ディートリヒはエレンの隣に座った。家族の前でいちゃつく趣味はないので、適切な距離は保ったままだ。
「ねえ、ディートリヒ」
貴族女性らしい優雅さでマリアンネが話しかけてきた。
「新聞で皇女殿下のお相手候補だなんて書かれているから、カサンドラに詳しいことを聞いたわ。そうしたら、新聞はデマだけれど懇意にしている女性がいるのは本当だなんて言うのよ。しかも自宅に住まわせていると教えられた私の気持ち、わかる? あなたが職権か権力を濫用して連れてきたのかと思ったじゃない」
「俺はそのような卑劣なことはしません」
「どうして目をそらすのかしら?」
職務の一部を利用したことは間違いない。だが適切な保護のためだと心の中で言い訳をした。
「でも会いに来てよかったわ。久しぶりに夫の話ができたもの」
「私も、両親のことが聞けてよかったです」
ディートリヒが帰ってくるまで、三人は昔のことで盛り上がっていたようだ。エレンが楽しそうで良かったと油断していると、マリアンネに婚約おめでとうと先に言われてしまった。
「いい人と出会えたわね。捨てられないように努力なさい」
絶対に逃すなという意味かとディートリヒは解釈した。懇意にしていた職人の娘という理由の他に、人当たりの良さがマリアンネの好みだったらしい。
ディートリヒが他の女性に興味がないと知っていて、エレンに逃げられたら一生結婚しないと危機感を抱いている可能性もある。
「さて、ディートリヒが戻ってきたことだし、私たちはそろそろ帰りましょうか」
「そうね。二人の時間を邪魔すると、弟に恨まれそうだし」
マリアンネとカサンドラは席を立った。
「泊まっていかないのですか」
「連絡もなしに滞在したら、応対する使用人たちが可哀想よ」
玄関ホールまで見送りに行くと、マリアンネはディートリヒを呼んだ。
「決勝戦で皇都に来るのよね?」
「その予定です」
エレンはカサンドラと少し離れたところにいる。声が聞こえないので二人が何を話しているのかは分からないが、楽しそうに笑っているので悪い話題ではなさそうだ。
マリアンネは小声で、気をつけなさいと言った。
「いま皇都では国を守った英雄と皇女を結びつけようとする動きがあるわ」
「お膳立てすれば、俺と皇女が勝手にくっつくとでも思っているのですかね。迷惑な連中だ」
「皇女は乗り気よ。新聞に書かれた噂について否定してない。周囲が想像しやすいように、曖昧な言葉で仄めかすだけ」
「遠回しに脈はないと申し上げたつもりだったのですが」
「はっきりとお断りできない立場を利用されたわね」
マリアンネの視線の先にはエレンがいる。
「いっそのこと、皇都で不特定多数にエレンさんとの仲を見せつけてやりなさいな。試合中は私が彼女につき沿ってあげるわ。あなただって、エレンさんと街歩きをしたいと思わない?」
ものすごく心惹かれる提案だ。
「女性が好みそうな店や観光地がたくさんあるわよ」
迷うディートリヒに、マリアンネは最後の一押しをしてきた。
もちろんエレンと二人で歩きたいに決まっている。女性向けの店など一つも知らないが、エレンと散策しながら探してみるのもいいかもしれない。
「彼女次第ですね」
即答したくなったが、やはりエレンの気持ちを一番に考えて保留しておいた。
「エレンが皇都へ行きたいと言うなら、その時はお願いします」
「ええ、いいわよ。ちゃんと知らせてくれるならね」
マリアンネは母親の顔でうなずいた。
二人が帰ったあと、エレンに決勝戦を観戦するか聞いてみた。
「見に行ってもいいの?」
「ああ。試合中は母親の近くにいてくれ。皇都の闘技場はレイシュタットよりも広い」
「うん。あのね、次に会えたときは、ディーの子供の頃の話を教えてもらう約束したの。早く実現しそうね!」
花のように可憐に笑うエレンに見惚れている間に、とんでもない事実が出てきた。あの家族がディートリヒは仕事で不在にしていると知っていながら訪問したのは、さりげなくエレンに色々と吹き込んで味方につけるためだ。
「決勝戦も頑張ってね」
「あ、ああ……」
まさか今更になって来るなとは言えず、ディートリヒはうなずくしかできなかった。




