黒い影と追跡者3
*DV注意です
気持ち悪い浮遊感が続いた。魔術で転移させられていると気がついていたが、いま暴れるとどこへ飛ばされるのか予想できない。エレオノーラは不本意ながらルーカスに捕まったまま、我慢するしかなかった。
転移した先は薄暗い森の中だった。ルーカスは到着すると、荒っぽくエレオノーラを突き放す。急な地面の感触に慣れていなかったエレオノーラは、土の上に投げ出される格好になった。
「待っていろ。次の転移を準備する」
「ここ、どこですか」
声は普通に出るようになっていた。
ルーカスは一度だけエレオノーラを見て、また手元の羊皮紙に視線を落とす。
「竜皇国との国境にある森だ。ここから王都へ移動する」
エレオノーラがディートリヒに誘われて、竜皇国へ帰ることを決めた場所だ。一緒にいる人が違うだけで、森の印象がまるで違う。
「私、行きません。研究所には戻りたくないんです」
「何を馬鹿なことを。あの男に洗脳されたのか?」
「洗脳じゃありません。私は、本当は竜皇国の出身だったんです。子供のころに戦争で故郷を焼かれて迷いこんでしまっただけです」
ルーカスは図形を描いていた手を止めて、迷惑そうにエレオノーラを見た。
「君がどこの出身だろうと関係ない。研究所に戻りたくないのは、無能だと罵られて雑用ばかりさせられていたからだろう。言いたいやつには言わせておけ。俺の助手をしていれば、もう役立たずなどと言われない」
「どうして私にこだわるんですか。助手候補なら、他にもいるはずです」
「いないから迎えに来たんだ。他の候補は作業が雑だ。回復薬すらまともに作れない」
ルーカスが片手を振ると、エレオノーラが密かに展開させていた防壁が割れた。そのまま近づいてくるルーカスから逃げようとしたが、足に柔らかいものが絡み付いて動けない。
「余計なことするなよ」
左頬に強い痛みが走った。殴られたと思ったときには、背中を蹴られて倒される。うつ伏せになったエレオノーラは、ルーカスに押さえつけられた。
「手間をかけさせるな。どれほど君が嫌がろうと、もう決定したことなんだよ」
両手を背中側で縛られ、今度は仰向けに転がされた。
ルーカスの冷たい目が見下ろしてくる。横腹を蹴られて咳き込むと、ルーカスに顎を掴まれて無理やり顔を彼のほうへ向けさせられた。
さっとエレオノーラの体を観察したルーカスの目には、仄暗さの他に濁った熱のようなものが見え隠れしている。
「……この場で所有印を刻んでやってもいいんだぞ」
聞き覚えはないが、歓迎すべきことではないのは伝わってきた。
「君は魔力だけは多いから、子を望む魔術師たちが狙っていた。研究所の職員で良かったな。すでにどこかの貴族が囲っていると思われて、襲われなかったんだ。不気味な赤い目を嫌っていたのもあるが、そんなものは薬でどうとでもなる。でもこのまま王都へ帰ったら治療院で検査を受けて、希望する魔術師のところへ送られるはずだ。君も知っているだろう?」
国の発展に寄与できない魔術師は、閉じこめられて次世代の魔術師を誕生させる礎となる――学院で噂として流れていた。だが誰もが笑ったり、否定しなかった。特に貴族はその傾向が強かったように思う。
裏の事情を知っている貴族が、家畜扱いされないように、ひたすら勉強して魔術の腕を磨いていたのだから、嫌でも現実のことだと察しがつく。
「腹に印があれば、まず貴族は引き取らない。俺も一応、貴族の端くれだから平民が手出ししてくることもない。不特定多数の慰みものにされるよりはいいだろ」
「よ……よくない……」
望んでいないことを強制させられるぐらいなら、まだ研究所で徹夜しているほうがましだった。
ルーカスがエレオノーラのコートに手をかけた。彼が片手でボタンを外している隙に簡単な魔術を完成させ、顔の近くで発動させた。ただ光を強く発するだけの魔術だったが、油断していたルーカスには効果的だ。手で目元を覆い、エレオノーラから離れる。
両手が使えない状態でもなんとか立ち上がれたものの、ルーカスが魔術で視力を回復させるほうが早かった。
「エレオノーラ、いい加減にしろよ! 素直に帰ってこい。竜皇国にいたら幸せになれるとでも思っているのか!?」
掴まれた腕が痛い。
「幸せだったよ! あなたが余計なことをして壊すまで、幸せだったの!」
「どんな甘い言葉をかけてもらったのか知らないが、どうせ情報を抜き出すためだろうよ。それとも、あの竜騎士の愛人でもやっていたのか?」
足に滑らかなツル草が絡みついた。広場でディートリヒを足留めしていたものに似ている。
背後からルーカスがエレオノーラを抱きしめて、腹のあたりに触れた。
悪寒がする。
「まだ抵抗するつもりなら、優しさは期待するなよ」
「やめ――」
また声が聞こえなくなった。エレオノーラが泣き喚いたところで、ルーカスにも伝わらない。本気で嫌がっていることを無視するつもりだろう。
動けないなりに体を捻って抵抗していると、木の間を縫うように近づいてきたものがルーカスの肩に噛みついた。
「今度は何だよ!?」
振り払おうとしたルーカスが、エレオノーラから離れた。青白い生き物は素早く離れ、猫のような威嚇音を出す。そこへ上から落ちてきた黒い塊がルーカスに襲いかかった。ルーカスは防壁を使う暇もなく弾き飛ばされ、木に背中を打ちつけて動けなくなった。
「貴様……女性を拘束して己の欲を優先させるなど、それでも人間か。発情期の獣ですら、相手が嫌がれば身を引くというのに」
ディートリヒだ。後ろ姿しか見えないが、背格好と声は絶対に間違えようがない。もう大丈夫だと安心したら、視界が滲んできた。
エレオノーラのすぐ近くに黒い竜が降りてきた。心配そうに鼻先を寄せてくる。ルーカスに襲いかかった青白い生き物も近寄ってきて、足に絡みつくツル草を噛みちぎっていく。
青白いほうはディートリヒの竜よりも一回り以上小さい。頭に角はなく滑らかで、体つきも華奢だった。鞍が付けられているので、誰かの竜なのだろう。
ツル草が全て体から離れると、支えるものがなくなって地面に座りこんだ。
「もう、追ってきたのか……」
「転移は魔術師だけの特権ではないからな」
「なぜエレオノーラに執心する? 俺が先に目をつけていたんだぞ」
「答えてやる義理はない」
黒い竜がエレオノーラの前に移動して視界を遮った。そのすぐ後に、鈍い音が二回、森に響く。
足音が近づいてきた。
「エレン、大丈夫――じゃないな」
ディートリヒはエレオノーラの顔を見て、痛ましそうにしていた。両手の拘束を解き、またルーカスがいるところへ戻っていく。倒れているルーカスを頑丈に縛ってから、青白い竜の鞍に固定した。
青白い竜は森の中をイタチのように走っていった。縛られているルーカスの体が上下に揺さぶられていたが、意識がないので問題ないのだろう。
「ディー」
ようやく声が聞こえるようになった。
立ちあがろうとすると、脇腹が痛む。
「無理はしないほうがいい」
ディートリヒが立たせてくれた。
自分の手が震えているのが悔しい。
いくら魔力が多くても、いざという時に使えないなら意味がない。
理性よりも恐怖が上回っていた。ディートリヒが来てくれなかったら――エレオノーラは自分の思考に潰されそうだった。
何から考えればいいのか分からなくなってディートリヒの胸に額を押しつけると、そっと包むように抱きとめられた。
優しく髪をなでてくれる感触が心地よい。
「……来てくれたんだ」
「当たり前だ。守ると約束しただろう?」
「うん」
「助けに入るのが遅くなってすまない」
ディートリヒの手が止まった。
「帰ろうか」
「うん、帰りたい」
帰る場所ができたんだと自覚したとたんに、体が重く感じた。
あの研究所や焼け落ちた家に戻らなくてもいい。
――お礼、言わないと。
けれど体は心に従ってくれず、意識が落ちていった。




