黒い影と追跡者2
エレンがルーカスと消えた。魔術で転移した痕跡を示す、光る粒子が舞っている。
ディートリヒは燃えている羊皮紙を踏みつけた。転移に使ったことは明白だが、行き先が燃え落ちて読み取れない。
「ひどい! 先輩ってば私を置いていったの!?」
ヨハンナが八つ当たりのように炎を撒き散らした。ルーカスが残していった植物が炎を避けようと、太い根で地面を這う。そんな様子がヨハンナの怒りをさらに買い、火の塊を投げつけられていた。
――警備兵たちだけでは厳しいか。
ようやく人混みをかき分けて警備兵たちが到着した。彼らは暴漢対策に武装していたが、魔術対策は不十分なように見えた。相手の魔力が尽きるまで、包囲網を作って隔離しておく方法でしか対処できそうにない。
広場の上空に竜が飛来してきた。黒い巨体からは想像できない身軽さで降りてくる。風圧で植物系の魔獣を燃やしていた炎が消え、さらに広場の端へ追いやられた。魔獣はもう死んでいるのか動いていないが、警備兵たちは念の為に茎や根を断ち切って分解していた。
竜はくわえていた剣をディートリヒに渡した。屋敷にいる厩係が持たせてくれたのだろう。鞍と手綱も装着してもらっている。護身用の細剣は、元通りに縮小させて袖へ入れた。
他の竜騎士たちも、じきに集まってくるだろう。
「おい。ルーカスたちはどこへ行った」
ヨハンナは魔獣の燃え残りを蹴っていたが、ディートリヒの声で不機嫌そうに振り向いた。そのままの状態で、呆けたように黙る。
「え……ウソ……」
みるみるヨハンナの頬が薔薇色になっていく。
様子がおかしい。どんな攻撃手段を有しているのか読めずに手を出しかねていると、ヨハンナはうっとりとした顔でディートリヒに話しかけた。
「ねぇ、あなた、私の婚約者にしてあげる」
「……は?」
言われたことが理解できなくて隣の警備兵を見ると、彼もまたよく分からないと首を傾げた。
「だって見た目が私の好みなんだもん。さっき私の炎を防いだでしょ? 竜を呼んだってことは竜騎士だよね? 魔術しか使えない研究所の人たちとは全然違うところが好き!」
そう言ってヨハンナは恥ずかしそうに頬に両手をあてた。先ほどまでの不機嫌さは消え、すっかり恋をしている顔だ。その変化が恐ろしい。
「言っている意味が分からないのだが」
正直なところ、言われた意味は分かるが相手をしたくない。エレンを追いかけるための手がかりでなければ、真っ先に昏倒させている。竜も得体の知れない生物を前に、腰が引けていた。
「もう。私から告白するなんて、初めてなんだからねっ」
ヨハンナは嬉しそうだった。
「ここに来るまでは、エレオノーラちゃんを殺さないとって思ってたんだけど、どうでも良くなっちゃった。私の理想の人、外国にいたんだね。焦って結婚しなくてよかった! 竜騎士って嫌な印象しか持ってなかったけど、そんなの愛し合っていれば関係ないよねっ」
そのまま嫌悪してくれたままでも、ディートリヒは困らない。むしろ心の平穏のために嫌っていてほしかった。
――どうする? 僕が咬み殺してあげようか……?
心から嫌そうに竜が提案してきた。近寄りたくないディートリヒの心情を察してくれる優しさが、今は一番の支えだ。お前がいてよかったと回路から伝える。
「いや、とりあえず待機で」
「ねえ、竜じゃなくて私とお話ししてよ!」
駆け寄ろうとしたヨハンナに剣を向けて制止させると、隣で竜も威嚇し始めた。
「そんなことより、ルーカスの行き先は?」
「知らない。どうせ国へ帰ったんじゃないの?」
ヨハンナは興味がなさそうに答えた。
「先輩はエレオノーラちゃんのことが好きだから、そのまま先輩の家へ連れて行かれて監禁されるかもしれないけど。仕方ないよね。エレオノーラちゃんがいま帰ったら、治療院に入院しないとだから。退院したら、そのまま顔も名前も知らない人のところへ嫁がされちゃうんだもん。そうなる前に先輩が隠しちゃうのも分かるなぁ。愛ってやつ?」
羨ましいと言いながら、ヨハンナの顔には嘲る色があった。
「毎日毎日、気配を消す魔術の改良ばかりしていてさ、鬱陶しかったな。この町の中心に来るまで誰にも探知されなかったから、一応は効果があったみたいだけど。でもね、魔獣が出たら全部、私に押しつけてたんだよ? 酷いよねー」
竜騎士に特化した呪いを研究していたルーカスらしい。ディートリヒたち竜騎士が魔術師の気配に敏感だと熟知しており、隠蔽する魔術を完成させてきた。さらにヨハンナに騒ぎを起こさせることで、エレンに手を出す直前まで察知できなくするなど、徹底している。
生かしておけば危険なのは間違いない。
「ねえ、先輩とエレオノーラちゃんのことなんて、どうでもよくない? 私たちの未来のことを考えようよ」
「断る」
これ以上は時間の無駄だ。ディートリヒは竜の背中に乗った。ルーカスがエレオノーラに危害を加える前に助けたい。
守ると約束していたのに、目の前で誘拐されるなんて自分が情けなくなる。
「待ってよ。まだ名前も聞いてないよ? 私のことを放置しないで! 私から好きって言ってあげたのに! 勇気を出した私のことを、受け入れてあげようとか思わないの?」
無視して飛び立とうとした竜に、炎が飛んでくる。炎はディートリヒが展開させた防壁に当たる前に、飛んできた槍に貫かれて消滅した。
「隊長、ご無事ですか」
「アルマか。早いな」
「上空から警備をしておりました。異常な魔力のうねりを感じて下へ降りてきたら、彼女が魔術師に攫われるところを目撃しました」
アルマは地面に落ちた槍を拾い上げた。
「隊長は行ってください。私の竜が追跡しています」
彼女の竜は小さく、あまり戦いに向いていない。その代わりに目標物を発見したり追跡することを得意としていた。
「あの女は任せた。炎使い、感情的かつ気分屋だ」
「了解」
アルマが防壁を展開させている間に、ディートリヒと竜は広場から離脱した。アルマの竜を探せと命じると、竜は迷わず隣国へ向かって羽ばたいた。
***
黒い竜が無事に飛び去った。
アルマは防壁を解除して、そっと息を吐いた。傷つけてしまったエレオノーラに贖罪する機会は、今しかない。隊長からヨハンナという魔術師への対処を託された。絶対に逃すわけにはいかなかった。
自分の竜は臆病で戦いに向いていない。警戒心が強く他者の気配に敏感なところを生かして魔術師を追跡できても、エレオノーラを無傷のまま取り返して捕縛するのは困難だった。だから竜だけで追跡させて、自分はディートリヒのところへ報告しに戻った。
竜は竜の気配に鋭い。それにディートリヒの竜ならすぐに追いつけると信じていた。彼女もアルマよりディートリヒが助けてくれるほうがいいだろう。
隣国から不法入国してきた魔術師の女が、アルマを睨んでいる。
「……邪魔しないでよ。どうしてエレオノーラちゃんも、あなたも、私の妨害をするの? 私は幸せになるべきなのよ。もう少しで、理想の人から愛される私になれるところだったのに」
「あの人がお前を気にいるわけがない」
アルマは槍の穂先をヨハンナに向けた。
敵の魔術師だからという理由以前に、ディートリヒはエレオノーラしか見ていない。あの二人の間に割り込めるのは、ディートリヒの竜ぐらいだろう。
「は? あなたに何が分かるの? 私が好きになった人なんだよ。彼も私のことを好きになるんだから」
「話にならないな」
ヨハンナの自信はどこから湧いてくるのだろうか。アルマは不気味さを感じた。常に自分が正しいと信じて、かつ自分の思い通りに世界が動くと思っているらしい。思考の幼さと魔術の才能を持っているからタチが悪い。
周囲に炎をまとわりつかせ、ヨハンナはため息をついた。
「あなた、モテたことないよね? 愛される女性ってね、誰が自分を愛してくれる人なのか、顔を見ただけで分かるんだよ。最初は反発していても、私のことをよく知れば恋人になれるんだから」
「……お前は一度、医者に頭を診てもらったほうがいい。手遅れかもしれんが」
会話が聞こえていた警備兵が、アルマの言葉に同意してうなずいている。
上空には竜が集まりつつあった。見えている敵がヨハンナ一人だけという状況からか、旋回して他に仲間がいないか探っている。アルマの竜が近くにいるなら彼らと連絡が取れるのだが、ルーカスの追跡で遠く離れていた。
「私の幸せを妨害する人は、みんな敵だよ。竜がいない竜騎士なんて、怖くないんだからねっ」
「思い上がるな。お前のような小娘など、槍だけで十分だ」
思考が理解できないだけで、ヨハンナは魔術の腕は悪くない。
アルマは警備兵たちに下がっているよう伝え、愛用の槍を持ち直した。




