孤独な雑用魔術師3
出張から帰ってきた主任は、最初にヨハンナを自身の研究室へ呼んだ。そこでどんな会話があったのか、戻ってきたヨハンナの表情は暗かった。
「もう少し頑張れって言われちゃいました。でも評価は悪くなかったんですよ!」
「すごいじゃないか。さすがヨハンナだ」
「ちょっとくらい説明が下手でもいいのよ。結果で理解してもらいなさい」
先輩たちに囲まれて慰めてもらったヨハンナは、すぐに機嫌を直していた。
「エレオノーラちゃん、手伝ってくれてありがとう! 主任がね、もっと大きな仕事を任せようかって言ってくれたの!」
「そっか。良かったね」
疲れて寝不足だったエレオノーラは、簡単な言葉しか返せなかった。早く眠りたいと思っていたせいか、周囲には素っ気ない態度に映ったらしい。呆れた先輩に襟首を掴まれた。
「なんだよ、その態度は。ヨハンナに嫉妬してるのか?」
「待って先輩。エレオノーラちゃん、きっと辛いと思うんです。だって私ばっかり主任に信頼されてるから……もちろん協力してくれるよね?」
今度は自分で報告書を書いてくれるなら――そう答えたかったが、先輩の怒りを誘いそうだ。
返答に困ったエレオノーラに、今度は別の先輩が言った。
「素直に喜んであげなさいよ。同期でしょ? それにね、その乱れた髪はなんなの? 王立研究所の職員に相応しい外見をしてくれないと、こっちまで恥をかくじゃない」
「……すいません。洗面所で直してきます」
部屋を出る直前に、にやにやと笑うヨハンナが見えたような気がした。きっと疲れているせいで、錯覚したのだろう。
髪は研究室のソファで寝ていたせいか、少しほつれている。急いで結い直して戻ると、主任に呼び止められた。
「エレオノーラ・キルシュ。お前を助手にしたいと希望する者がいる」
「私を? 誰の助手ですか?」
「ルーカスだ。出張している人員が帰ってきてから、皆へ公表するから喋らないように。絶対に休むなよ」
たとえ嫌だと言っても、エレオノーラがルーカスの助手をすることは変わらないのだろう。主任が決定したことが覆ったところは見たことがない。
要件が終わった主任は、自身の研究室へ戻っていった。
「ねえねえ、主任となにを話していたの?」
今度はヨハンナが好奇心を隠そうともせずに近寄ってきた。
「特に変わったことは……仕事は休むなよって言われたことぐらい?」
「ふーん……そう」
主任に口止めされている以上、余計なことは言えない。当たり障りのない返答をすると、ヨハンナは興味を失って離れていった。
早く眠りたいという願いが通じたのか、この日は誰にも仕事を回されずに定時で研究所を出ることができた。
――ルーカスさんが不在なのが一番の理由かな?
有能と評判の先輩はいま、開発した魔法薬の実証実験のためにどこかへ出張している。よくエレオノーラに調薬の下準備をさせることがあり、残業が長引く原因にもなっていた。ただ他の人たちと違うのは、彼自身も研究室に残って仕事に没頭していることぐらいだ。
久しぶりに夕方の街を歩き、商店街まできた。いつ家に帰れるのか分からない生活だったので、備蓄している食材なんてない。自炊をする気力もなく、惣菜を買って帰ることにした。
「どうしよう。全部おいしそうに見える」
店に並んでいる惣菜を端から端まで買って帰りたい衝動に駆られたが、絶対に食べきれない自信がある。熟考して三品まで絞り、お金を払って商品を受け取った。
「残ったら明日の朝ごはんにすればいいよね」
早く帰れる喜びに浮かれたエレオノーラは、あまり通らない路地に入った。ここを使えば近道になる。夜中は暗すぎて通りたくないが、今はまだ夕方だ。適度に日の光が入ってくるので、危険なことにはならないだろう。
路地の終わりが見えてきたとき、道の上に落ちている黒いものに気がついた。ところどころが赤く、かすかに動いている。赤いものは周囲にも散っていた。
「……羽トカゲ?」
よく見るとコウモリのような羽がついている。草むらでよく見かける、小さな魔獣だ。人間を襲うことは滅多になく、小さな竜に見えなくもないので、子供達が捕まえて遊ぶことが多い。
ただ珍しい色だと思った。羽トカゲの色は薄茶や緑色ばかりで、黒いものがいるなんて聞いたことがない。表面の赤いものは、羽トカゲから流れた血だった。
弱々しく呼吸しているトカゲを見捨てられず、エレオノーラは両手でそっとすくいあげた。
* * *
黒い羽トカゲの怪我は、見た目ほど酷くなかった。浅い切り傷ばかりで、手持ちの薬だけで治療が終わった。ただ衰弱が激しい。
目を魔力で強化して観察すると、呪いをかけられている特徴が見えた。
「研究所だったら解呪の薬があるんだけどな……」
エレオノーラの権限では薬を作ることも、備蓄してあるものを使うこともできない。雑用しかできないという先輩の言葉が、今になって心に効いてきた。
「別の方法で試してみるから、待っててね」
トカゲの鼻を優しくなでてから、家に置いていた教科書を探して開いた。
「解呪……は、高度すぎて無理だから却下」
授業中に教師が雑談として言っていたことがある。変則的になるが、その方法なら黒トカゲの呪いを解けるはずだった。
もう二度と使わないだろうと思っていた呪文を唱えて、トカゲの反応を待つ。
――あなたを助けたいの。
黒トカゲが目を開いた。金色の目でじっとエレオノーラを見つめ、また閉じる。感じていた抵抗が薄れて、トカゲが術を受け入れたのだと分かった。
これで黒トカゲはエレオノーラの使い魔になった。
エレオノーラは持っている魔力量の割に、扱える魔術の種類が少ない。使い魔契約なら、かなり弱い魔獣でなければ成功したことがなかった。
「でも良かった。これで先に進めるね」
使い魔契約は主人と魔獣の間に特別な絆を作る。使い魔の体について、見るよりも正確に診察できるはずだ。
かけられていた呪いは二つあった。一つは正体が分からないが、もう一つはゆっくりと命を奪うものだ。ただし、あまり強くない。効力を抑えないと、二つ同時に呪いがかからなかったようだ。
「使い魔の呪いを移す方法は……これかな?」
エレオノーラと黒トカゲの間に、目に見えない紐が繋がっている感覚がしている。そこを通って、黒トカゲの体から呪いを引っ張った。呪いはエレオノーラの体に移ったとたんに、効力を失って霧散していった。
「どう? 少しは楽になった?」
黒トカゲは驚いたように金色の瞳で周囲を見回している。最後にエレオノーラを見上げ、ゆっくり後ろへさがった。
――もし私に魔術の才能があったら、使い魔の声が聞こえるんだけどなぁ。
相手の感情を読み取ろうとしても、濁ったものに阻まれている。使い魔が心を閉ざしているのか、もう一つの呪いが関係しているのか判別できない。エレオノーラの力不足だ。
「ごめんね。もう一つの呪いは、よく分からないの。でも、たぶん死に直結するようなものじゃないと思う」
黒トカゲの目から警戒している色が消えた。エレオノーラが言っていることを理解してくれたのか、その場に座っている。
「お腹空いてる? そういえば羽トカゲって何を食べるんだろう……」
普通のトカゲのように虫が主食だろうかと考えていると、黒トカゲは惣菜が入っている袋に鼻を近づけた。
「これが気になる?」
袋から惣菜が入った包みを出し、見えるように広げた。黒トカゲは焼いてタレにつけた肉が気になるらしい。匂いを嗅いでから、ちらりとエレオノーラを見上げてくる。
「いいよ、トカゲさんにあげる。どうせ一人じゃ食べきれないから」
余ったら翌日に食べようと思っていたのだ。夜のうちに消費してしまっても困らない。朝になれば労働者向けの屋台が出てくるので、朝食がなくて困ることはなかった。
サイコロ状の肉にかぶりついた黒トカゲだったが、大きすぎたのか何度か噛みちぎろうと苦戦していた。見かねて包丁で肉を小さく切ってやると、黒トカゲはクルルと不思議な音で鳴いた。礼を言っているつもりだろうか。
よほど空腹だったのか次々と肉を食べる黒トカゲを見ていると、エレオノーラも幸せな気分になってきた。一人きりで食事をとるよりも、ずっといい。予想外の出会いだったが、考えないようにしていた寂しさが薄れていく。
「あ……ダメだ。眠くなってきた……」
半分ほど夕食を食べたところで、徹夜のツケが回ってきた。本格的に寝落ちてしまう前に、さっと片付けて制服のローブを脱いだ。
「限界だから、先に寝るね。トカゲさんのことは、明日また考えるから」
寝る前の支度を済ませたエレオノーラは、久しぶりのベッドに倒れこんだ。毛布を体にかけることすら面倒だ。まだ気温は高いから、風邪をひくことはないだろうと開き直り、柔らかい寝具に身を任せた。